66、嫌いな花
昼時の街道を獄所台へ向かう二頭立ての馬車には、ルース、カイ、エーゼル、そしてベロニカが乗っていた。ガベリアへ向かう旅で一度顔を合わせていることもあり、キャビンの雰囲気は和やかだ。
「やだ、そんなに見ないで下さい」
カイと隣り合って座るベロニカは、斜め向かいにいるルースの視線に顔を赤くしていた。初対面の頃から、彼女はルースに黄色い声を上げていたのである。
「そんなに好きですか、ルース副隊長のこと」
カイが臆面もなしにそう尋ねると、ルースはその不躾な質問に少し顔をしかめた。しかしベロニカは、大きく頷いてこう言った。
「それはもう! 顔がとっても好みなんです。見ているだけで幸せというか。あ、でも大丈夫ですよ。ミネさんと恋人同士っていうのは知ってます。奪おうなんてそんな、ほんとに見ているだけで……」
彼女は両手で顔を覆い、じたばたと足踏みする。隊員たちは顔を見合わせ、思わず笑ってしまった。有り難いことではある。この先に獄所台での尋問という嫌な試練が待っているとしても、彼女の騒がしさで多少は気が紛れるからだ。
「そういえばベロニカさん、スタミシアのトワリス病院、準備は順調ですか?」
エーゼルが尋ねると、ベロニカはさっと冷静になって答えた。
「未だ、医務官集めが難航してます。精神の治療は難しい上に時間も掛かるし、誰もやりたがらないんですよね……」
落ち込んだ様子で、彼女は視線を宙に漂わせた。トワリス病院は精神の治療に力を入れた病院で、ベロニカが設立を進めているものだ。建物は完成しているが、スタッフが揃わなければ開院することは出来ない。
「ベロニカさんはどうして、トワリス病院を作ろうと思ったんですか?」
ルースの問いに、ベロニカは瞬時に表情を明るくした。相変わらず忙しない人だな、とカイは思う。
「それはですねっ、私が過去に精神の治療を受けたことがあるからです。今こうして医務官でいられるのは、治療のおかげですからね。その重要性を、身を以て理解しているわけです」
「……過去に、何かあったんですか?」
今度は遠慮がちに、カイが尋ねた。ベロニカがあっけらかんと話すので、触れないのもおかしいかと思ったのだ。
「子供の頃の話なんですけど、私、キペルに住んでいまして。お金持ちのお友達と遊んでいたら、身代金目的で一緒に誘拐されたんです」
ベロニカは膝の上に置いた自分の手を見つめながら、そう話し出した。
「それで、犯人とお友達の親と、何か話の食い違いがあったみたいで。お友達、私の目の前で殺されてしまいました。首を絞められて」
「えっ……」
三人とも思わず絶句したが、ベロニカは滔々と続けた。
「その後に自警団に助けられたんですが、とてもショックで、しばらくはその場面を何度も何度も夢に見ました。だんだん正気ではいられなくなって、食事も取れず、眠れず、中央病院に入院することになったんです」
その話でルースの表情が険しくなったのも道理だった。まるで、ガベリアの悪夢で脚を失った後のミネと同じだ。
「でも、そこで!」
ベロニカが突然顔を上げたので、三人はびくりとした。
「レナ医長に助けられたんです。彼女は精神が専門というわけではなかったんですけど、私のことを気にかけて、治療に参加してくれました。発狂して暴れまわる私を抱き締めて、魔術で落ち着かせて、何度も大丈夫と言い聞かせてくれたんです。私は医長を散々引っ掻いたり蹴ったりしていたのに、一つも嫌な顔をせずに。時には一晩中、一緒にいてくれたこともありました」
ルースは無意識に、小さく頷いていた。かつて入院していたミネが発狂したときに、彼が引っ掻かれたり叩かれたりしたことは一度や二度ではない。それでも彼女が大切だったし、治ることを信じていたから側にいた。
大切な人が相手であればこそ出来たことだが、レナにとってベロニカは患者の一人だ。それでも真摯に向き合えるのが、彼女のすごいところなのかもしれない。
「おかげで私の状態も徐々に良くなって、半年くらいで退院することができました。そのときに私、レナ医長のような医務官になろうと決めたんです。目に見えない怪我にもちゃんと向き合って、治すことの出来る医務官に。自分で言うのもなんですが、精神の治療は結構得意なんですよ、私。研究も研鑽も欠かしていませんから」
ベロニカは弾けるような笑顔を見せた。
「ですから、今日は皆さんも安心して下さい。獄所台の魔導師がどんな酷い尋問をしても、本部に戻るまでには元気にしてみせます!」
獄所台の建物の中でも、審理局の部署がある階の雰囲気はどこか禍々しい。廊下の窓から陽射しがたっぷりと降り注いでいるにも関わらずだ。『第二聴取室』と書かれたプレートの掛かるドアの前を、ベロニカはそわそわと歩き回っていた。ドアに魔術がかかっているおかげで中の声は一切聞こえないのだが、それでもたまに立ち止まって耳を澄ましてみたりする。
三人がそこへ入ってから、二十分ほど経っている。彼らが中へ入る時にちらりと覗いたが、聴取室の中には更にいくつかのドアがあり、尋問は同時に行われるらしい。
そこから更に5分経ち、ドアノブが動いた。出てきたのは、審理官に脇を抱えられたエーゼルだった。顔面蒼白で、視線は宙に浮いている。
「エーゼルさん!」
ベロニカは駆け寄り、その審理官から奪い取るようにして彼を支えた。
「多少吐いたが、問題はない」
審理官は無表情にそう言って、さっさとドアの向こうへ消えた。
(問題ないわけないじゃない、この人でなし……!)
ベロニカは心の中で毒づいて、エーゼルを廊下の長椅子に座らせた。
「まだ吐きそうですか?」
「いえ、もう大丈夫だと……」
呟くように言って、エーゼルは膝に肘を着いた状態で前のめりになり、両手で顔を覆った。
「本当に、最悪の気分です……」
「すぐ治します」
ベロニカは彼の背中に触れる。数秒経って、エーゼルは驚いたように顔を上げた。
「治りました。嘘みたいだ」
「安心して下さいと言ったじゃないですか」
彼女は得意気に言って、にこりと笑った。それから更に数分して、カイがルースの腕を支えながら出てきた。ルースは顔面蒼白で今にも倒れそうだが、カイはけろりとしている。
「副隊長!」
エーゼルが駆け寄って、彼を椅子に座らせる。
「大丈夫ですか?」
「うん……。最悪な気分」
ルースはそう言って、壁に背中をもたれて目を閉じた。ベロニカが彼の額に触れて治療をすると少しは顔色も良くなったが、まだ本調子ではないようだ。壁にもたれたまま、視線だけを動かしてカイを見た。
「カイは平気だったのか?」
「はい、意外と。こまめに休憩してくれたんで。親切な審理官でしたよ。獄所台にもこんな人がいるんだって、びっくりしました」
カイは軽く肩を竦めてみせる。ルースはほっと安堵の息を吐いた。彼が無事ならば、とりあえずは問題ない。エイロンの審判は全て獄所台に任せ、帰るだけだ。少しだけ、胸が痛んだ。
エイロンの遺体は恐らく、まだ獄所台のどこかに安置されているはずだ。審判の結果を待たずして火葬というのは流石にないだろう、とエスカも言っていた。しかしもう、死後何日経っているのか……ルースは考えるのをやめた。棺の中を想像したくない。最後に見た、あの綺麗な顔だけ覚えていればいい。
「さ、帰りましょう、皆さん。こんな無愛想な人ばっかりいる場所、気が滅入っちゃいます!」
ベロニカの本音は思いの外、廊下に響き渡った。慌てて周囲を見る彼女に、全員が笑いを溢し、嫌な気分がすっと消えていくのを感じたのだった。
スタミシア支部へ向かう帰りの馬車で、ルースとエーゼルは静かに寝息を立てていた。
「どれだけきつくやられたんだろ……」
カイは二人を見つめながら、呟いた。エーゼルはともかく、ルースがこんなところで寝るのは意外だ。
「寝顔も最高ですね……」
ベロニカはカイの隣で、うっとりとルースの顔を見つめているのだった。
「面食いなんですか、ベロニカさん」
カイが思い切って尋ねると、彼女は驚いたように彼を見て、目をしばたいた。
「え? うん、そうかもしれないなぁ。綺麗な男の人にときめいちゃうのは、昔からです」
「じゃあ本部に異動してみたらどうですか? 毎日、第二隊の隊員を見れますよ」
「駄目ですよ、第二隊は」
ベロニカはさっと表情を曇らせた。
「彼らに本気になるのは、ただのお馬鹿さんです。彼らの『都合のいい情報提供者』にはなり得ても『恋人』には絶対なり得ないって、自警団の隊員なら理解していなければならないんですよ。暗黙の了解で。はぁ……」
分かりやすく落ち込んで、彼女は窓の外を見つめた。
「付き合ってたことがあるんです、昔。第二隊の人と。結局は情報源の一つとして利用されていただけで、自分が馬鹿だったって気付いて、それきりですけど。一度もキスしてないし手も繋いでくれないなんて、よく考えたらおかしいですよね。恋人じゃないから、きっと嘘でも出来なかったんですね」
「ある意味誠実だったんじゃないですか? その人。利用している自覚があるから、手を出さなかったんですよ」
「そうだったら、まだ救われますけど。私、あれ以来誰かと付き合おうと思ったことがないんです。もう見るだけでいいやって。美しい花を愛でるような感じで……。花は嫌いなんですけどね。特に、カレンデュラっていう花は大嫌いです」