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Ecphore―闇を巡る魔導師―  作者: 折谷 螢
四章 闇の果て
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65、三度目の正直

 エディトは額に心地よい冷たさを感じ、カーテンに囲われたベッドの上で目を覚ました。朝の光に満ちた明るい部屋の中で、視界に入ったのはレンドルの姿だった。額に乗せられているのは彼の手らしい。


「……ずいぶん冷たい手ですね」


 エディトは力なく言った。昨日、獄所台での聴取後に倒れてスタミシア支部の医務室に運ばれたことは覚えている。まだ全身が怠く、起き上がれそうになかった。


「外から来たばかりなので。少し熱があるようですね。水を飲みませんか」


 レンドルはそう言って、枕元の机にあるガラスの吸い飲みを手に取る。ふと、エディトは気付いた。


「君、手袋を外しているんですか」


 彼は常に白手袋をはめているはずなのに、今は素手だった。手袋をはめる理由になったその黒い爪があらわになっているが、彼は気にしていないようだ。


「あなたの前で自分を繕う必要はありませんから。さ、どうぞ」


 レンドルは飲み口をエディトの口元に近付ける。まるで病人の扱いだ。何となく敗北感を味わいながらも、エディトはそこから一口飲んだ。レンドルがくすりと笑った。


「そんなに屈辱的な顔をしなくても。具合の悪いときは素直に看病されて下さい。団長だからとか、関係ありませんよ」


「生意気な」


 エディトはそう言いつつも、ふっと笑った。


「君はいつも私が目覚めたときに現れて、説教を垂れますね」


「説教をしているつもりはないんですが……」


 レンドルは椅子に腰掛け、真剣な表情になって彼女を見つめた。


「先日のメグ・コーシャの聴取について、ラシュカから聞きました。あなたは、近衛団長としての最後の仕事になる……というような発言をしたそうですね。団長を辞めるつもりなんですか、エディト」


「そのつもりですよ」


 何のことはないというように、エディトは答えた。


「団長という役目からも、近衛団という組織からも離れます。今すぐにではありませんが。少なくともセレスタの罪が裁かれ、真実が明らかになるまでは続けようかと」


 レンドルは険しい顔になり、少し身を乗り出した。


「何故ですか。団員たちも私も、あなたを信頼しているのに」


「もう私である必要がないからですよ。これは以前も話しましたが、巫女が存在しないリスカスにユーブレアの血は必要ない。王族への忠誠心、実力、信頼があれば誰が団長でも構わないんです。

 私は魔力が発現してからずっと、近衛団長になるためだけに育てられてきました。何もかも押さえ付けられ、苛烈かれつな訓練を受けて。普通に生きてみたいと何度思ったことか。

 今、ようやくその機会が訪れました。もちろん近衛団の仕事には誇りを持っていますし、そこにいたことは後悔していません。魔導師自体を辞めたいと思ったこともない。ただ、今の私では近衛団長を続けられないんですよ。絶対的な忠誠よりも、自身の自由を願ってしまうのですから。団員たちの士気に与える影響を考えても、それはあってはならないんです」


 少しだけ涙で曇ったその瞳が、レンドルを捉えた。


「私は自分の弱さを認め、身を引きます。君が言ってくれたんですよ、レンドル」


 ――完全な心を持つ人間などいない。弱い部分は誰にでもある。例え近衛団を率いるために育てられたとしても、あなたは特別な人間じゃない。


「エディト……」


 そう呟き、レンドルはしばらく彼女の顔を見たまま黙っていた。

 今までのエディトの全てに等しい、近衛団長という立場。彼女はそれを捨てると言っているのだ。忠誠よりも自由。王族と巫女に全てを捧げてきた彼女を知るレンドルにとっては、あまりにも衝撃的だった。


「あなたの熱が下がってから、もう一度話しましょう」


 ようやくレンドルの口から出てきたのは、もっともな言葉だった。エディトの発言が熱に浮かされてのものならば、正面から受け取ることは出来ない。しかし彼は同時に、分かってもいた。


「それであなたの考えが変わるとは思っていませんが。とにかく休んで下さい。そして私にも考える時間を下さい」


「そうしましょう。私も……君がそんなに辛い顔をするとは思っていませんでしたから」


 エディトは悲しげに微笑むと、静かに目を閉じ、それ以上は何も言わなかった。





 日が落ちてキペルが夜の色を濃くする時刻、高級レストラン『ファム』の玄関前に、ベージュのコートを羽織った女性が立った。出で立ちはどこにでもいるご婦人だが、青い髪と大きな丸い目で、彼女を知る人間ならば一目でレナ・クィンだと分かる。しているかどうか怪しいくらいの薄化粧だが、彼女の顔にいつも存在しない眉毛は辛うじて描いてあった。

 ファムのウェイターは一瞬驚いた後、ドアを開けてレナに声を掛けた。自警団御用達の店だから、従業員もある程度隊員の顔は知っているのだ。


「いらっしゃいませ、レナ医長。各隊の隊長はよくいらっしゃいますが、医長は……初めてでは?」


 レナが以前に変装して来ていたことは、知らないようだ。


「待ち合わせだ。コール・スベイズと」


 質問には答えずぶっきらぼうにレナが言うと、無駄口を叩いてはならないと察したウェイターはすぐに中へと案内した。

 レナは受付にコートを預け、窓ガラスに映る姿で身形みなりを確認した。前回イーラに借りたものと同じ、黒い長袖のイブニングドレス。青い短髪には少々不釣り合いだが、知ったことではない。ドレスコードさえなければ、レナは制服で来たかったくらいだ。

 店の中で優雅に流れる室内楽の演奏に、レナは胃の辺りが縮こまる思いがする。25年前、数週間前、そして今日。それぞれに違う立場と状況で、同じ人物と会うことになるとは。ウェイターに着いて二階へ上がりながら、緊張しているのだ、と自分で思う。コールが何を話すのか見当が付かないからだった。


「スベイズ様、お連れ様がいらっしゃいました」


 ウェイターがドアをノックして声を掛けた。どうぞ、と返事があり、彼はドアを開ける。食器がセッティングされたテーブルの向こうに、コールの姿があった。三つ揃いの上等なスーツ姿で、姿勢正しく席に着いている。

 レナは部屋に入り、すぐに気が付いた。食器も椅子も、三人分あるのだ。


「後はどうぞ、お構い無く」


 コールはウェイターにそう言って立ち上がると、レナの分の椅子を引いた。ウェイターは最初から分かっていたかのように一礼し、部屋を出ていった。


「……どういうつもりだ。他に誰が来る」


 レナは少し声を震わせ、空いている席に目を遣った。誰が――そんなことは聞かなくても分かる。フリムだ。


「私はあなたと話すために来たんだ。フリムがここへ来るなら、今すぐ帰る」


 全く心の準備が出来ていなかった。母親であることを放棄し、24年もの間、直接話したこともない娘。いきなり会って、どんな顔で、どんな言葉を掛ければいいと言うのか。


「レナ」


 コールは彼女をなだめるように、落ち着いた声で言った。


「私たちは親として、あの子に責任がある。しっかりと話をしなければならない。あの子もそれを望んでいる」


 レナは反論したい気持ちをぐっと抑える。親としての責任。今まで一度でも、その責任を果たしたことがあったのか。答えはいなだった。


「……会ったんですか、フリムに」


 かすれた声でそう尋ねた。


「ああ、会ったよ。君が言っていた通り、一目見て分かった。あの頃の君に良く似ている。顔も、仕事に対する真剣さもね。そして、とても手先が器用だ」


 コールはポケットから小さな木箱を取り出すと、それをレナに差し出した。


「これは?」


「開けてみてごらん」


 レナは木箱を受け取り、そっと蓋を外す。精緻せいちな花のブローチが、銀色に美しく光った。


「フリムに作ってもらったんだ。君に贈るために。何の花か分かるかい」


 コールは優しく言って、微笑んだ。レナのかたくなだった心が既にほどけているのは、彼女の頬を伝うものを見れば分かるのだ。


「プリムラ」


 レナはブローチに視線を落としたまま、呟いた。


「ガベリアの、花畑……」


「覚えていてくれたか。フリムは、この花が一番好きだと言っていたよ。自分の名前と音が似ているからと」


 その言葉に、レナがぱっと顔を上げた。


「そのつもりで、私が付けた名前です。古代キペル語で『宝物』という意味と、その花と」


「あの子にはちゃんと伝わっていたようだ。素敵な名前を考えてくれたんだね」


 コールはレナに一歩近付き、彼女の手からブローチを取ってドレスの胸元に留め付けた。それから腕を伸ばし、彼女をそっと抱き締めた。


「今さらになってしまうが、私の子供を生んでくれてありがとう、レナ。君は一人でよく頑張った。今日まであの子を守りきった、立派な母親だよ」


 腕の中でレナの肩が大きく震えた。コールはその背中をさすりながら、こう続ける。


「だから、あの子の願いを叶えてあげてほしい。君も知っているはずだ。……ああ、そろそろかな」


「……え?」


 レナはしとどに泣き濡れた顔を上げる。そのとき、部屋のドアが開いた。淡い水色のイブニングドレスを着たフリムが、早足に二人の前に立つ。コールは腕を離し、レナの背をフリムの方へそっと押した。


「あの、私……」


 緊張の面持ちでフリムが口を開く。やがてその視線がレナのブローチに止まり、彼女は目にじわりと涙を浮かべた。


「気に入ってくれましたか、……お母さん」


「ああ。ありがとう、フリム」


 レナは涙を拭い、精一杯笑ってみせる。何を言うべきか悩んでいたのがおかしいほど、その言葉しか浮かばなかった。


「ありがとう。私たちの子供に生まれてきてくれて。誰よりも愛している。私たちの宝物だ」


 そして二人はどちらともなく歩み寄り、強く抱き合った。


「お母さん、お母さん! 私も愛してる。ふふ。……お母さんて、私よりちっちゃかったんだね」


 フリムは涙声で言いながら、何度も夢に見た母の腕の中で幸せそうに笑っていた。

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