61、親子
ガイルス家のパーティーでセレスタが確保されてから、4日が経っていた。地下牢にいたロットやアーレンを含む犯罪人たちは全て獄所台へ送られ、街には大きな混乱もなく、時間は静かに過ぎていった。
自警団も近衛団も、今は獄所台からの連絡を待つしかなかった。セレスタが尋問で何を話すのか、その真実をどこまで世間に知らせるのか。王族を守るべき近衛団の長がクーデターを起こした――その事実は、国民にとってあまりにも衝撃的だ。今は嵐の前の静けさだと、隊員たちは戦々恐々としているのだった。
そんな中、カイは隊長室にいたルースの元を訪れていた。
「あの、副隊長。今日、二時間くらい抜けてもいいですか?」
遠慮がちなその申し出に、ルースは快く許可を出した。
「構わないよ。何か用事でもあるの?」
てっきりフローシュの所へ行くのだろうと思っていた彼だが、カイはこう答えた。
「スタミシアの第三病院に行きたいんです」
「第三病院……。お母さんのところか」
ルースははっとした。カイの母親は、未だにそこの精神棟に入院している。一般的に、メニ草中毒の治療は長期間に及ぶものだった。
カイはガベリアへ入る前に母と会って以来、まだ一度も顔を見せていなかった。無事にガベリアから帰還して手紙は出したが、それだけだ。
「はい。手紙の返事に、もうすぐ退院出来そうだって書いてあったので。やっぱり、これからのことはちゃんと話し合わなきゃいけないと思ったんです」
「大事な話じゃないか。今日の仕事はもういいから、ゆっくり話しておいで」
ルースはちらりと時計に目を遣る。まだ朝の9時だから、話す時間は十分にあるだろう。スタミシア支部までは本部からの連絡通路を使い、そこから運び屋を使えばあっという間に病院に着く。
「急に言ってすみません。ありがとうございます」
カイは申し訳なさそうに微笑んだ。以前ならしかめ面だったはずだが、最近は目に見えて表情が穏やかになっている。ルースはそんな彼の変化を嬉しく思っていた。何より、笑った顔はベイジルによく似ているのだ。
「俺、母さんが退院したら、元々住んでたスタミシアの家で一緒に暮らそうと思ってて。いつになるかは分からないんですけど……そうなると、第一隊に居続けるのは厳しいですよね」
カイは深刻な表情になった。母を大切に思う気持ちと、このまま第一隊で成長したいという気持ちが彼の中で鬩ぎ合っていた。
「通いっていう手もあるけど、大変だろうね。家は確か、南15区だっけ」
「はい。端の方の田舎なんです。だから支部に異動させて貰ったとしても、あの辺りの駐在員になると思います。とにかく母を一人にする時間を作りたくないんです。誰かがまたメニ草を持ってきたりしたら……」
「カイ」
彼の表情がいよいよ暗くなってきたので、ルースが止めた。
「急いで答えを出さなくても大丈夫だよ。お前がどんな判断をしたとしても、仕事に関しては僕が何とかする。とにかくお母さんに会っておいで。今までの分、たくさん話をしてくるんだ。魔導師としてじゃなく、息子として」
「……はい。行ってきます」
カイは微かに目を潤ませ、敬礼して部屋を出ていった。
フリムは王宮の広間の補修を終え、広い廊下を歩いていた。ふと立ち止まり、窓の外を覗く。外は良い天気で、鳥のさえずりが心地よく耳をくすぐった。
しかし彼女は、暗い表情で溜め息を吐いた。そしてエプロンのポケットから小さな木箱を取り出し、蓋を開けた。窓からの光できらりと輝くのは、花のブローチだった。
精緻な造りで、丸みのある6枚の花弁が可愛らしい、プリムラの花。コールの依頼で作ったものだが、あれから一週間以上経っても、彼はこれを取りに来ていないのだ。王宮で仕事をしている間に店に来ているのかと思ったが、書き置きもないし、近所の人もお客は誰も見ていないという。
手間暇を掛けたのに、と思った訳ではない。彼女が気にしていたのは、依頼主のコールのことだった。プリムラの花に思い出があり、ブローチは妻へのプレゼントと言い、あなたの顔は娘とよく似ていると涙ぐみ……。彼の発言をよくよく考えてみると、辿り着く答えは一つだった。
彼が実の父親なのではないか。そしてこのブローチは、母親であるレナへのプレゼントなのではないか。今はもう、そうとしか思えなかった。
「何かあったのか? そんな顔をして」
不意に声を掛けてきたのは、近衛団の制服を着たラシュカだ。オーサンの死で憔悴しきっていた彼もすっかり元気を取り戻したらしく、以前と同じ頼もしい姿だった。
「ラシュカさん」
フリムの表情がぱっと明るくなった。彼に会うのは、家に籠っていた彼を訪ねたとき以来だ。彼女は何となくエプロンの汚れを払い、ターバンを取って髪を整えた。
「お久し振りです。復帰されたとは伺っていたんですけど、なかなか会えなくて」
「あなたのおかげだよ、フリム。感謝している」
ラシュカは優しく笑い、フリムが手にするブローチに目を止めた。
「綺麗なブローチだな。作ったのか?」
「あ、はい。でも、まだ依頼主の方に渡せていなくて」
それを思い出し、フリムの顔が翳った。
「お届けしたくても、居場所が分からないんです」
「何て名前だ? キペルの人間なんだろう?」
「コール・スベイズさんと仰る紳士の方です。ラシュカさん、ご存知ないですか?」
「コール・スベイズ……」
ラシュカは考えるが、聞き覚えのない名前だった。と、そこへレンドルが通り掛かった。
「ラシュカ、当番の件でウィラが探していた」
「あっ、そうだった。すぐに行きます! ではまた、フリム」
ラシュカは慌てた様子で走っていった。レンドルはフリムに顔を向けて、申し訳なさそうに言った。
「話の邪魔をしてしまいましたね」
「いいえ。チェス副団長、この間はラシュカさんの住所、教えて下さってありがとうございました」
レンドルと話すことにも慣れたのか、フリムはそう言って微笑んだ。
「こちらこそ。彼が復帰出来たのは、あなたの力が大きいですよ。……さっき、コール・スベイズという名が聞こえましたが」
「ご存知なんですか、彼のこと」
その大きく丸い目を見開き、フリムは彼に詰め寄った。
「ええ」
「彼は一体、どんな方なんですか? あなたが知っているということは、魔導師なんですか?」
矢継ぎ早に質問する彼女に、レンドルは静かに頷いてみせた。
「これ以上は、私の口から話すべきことではないと思います。……中央1区の劇場の裏側に、『金雀枝』という宿があります。そこへ行き、エディト・ユーブレアの紹介で来たと伝えて下さい。彼に会えるはずです」
フリムはコートのポケットに手を入れてブローチの木箱を握りしめ、レンドルに聞かされた宿、金雀枝の前に立っていた。
艶のある小豆色の外装や装飾の凝った玄関には高級感が漂い、そこを出入りする客人も皆、上等な身形をしている。自分が持っている一番上等な服で来たとはいえ、フリムは気後れするのだった。
それでもコールに会うため、一歩踏み出した。ドアマンがにこやかに玄関ドアを開けてくれる。普段王宮で王族と接する時よりも、彼女は緊張していた。これまた豪華な受付に案内され、愛想の良い女性に微笑み掛けられる。
「ようこそ金雀枝へ。ご宿泊ですか?」
「いえ、あの、……エディト・ユーブレアさんの紹介で来ました」
レンドルに言われた通りの台詞を伝える。
「かしこまりました。フリム・ミード様ですね」
女性はさっきのドアマンに目配せし、彼が近付いて来た。
「ミード様をお部屋に。開演前の待ち合わせです」
「かしこまりました。こちらへどうぞ、ミード様」
何かの隠語だろう、とフリムは思った。今日は隣接する劇場の舞台を観に行くわけではない。なぜエディトはここまで手筈を整えてくれているのか……きっと彼女は、自分とコールの関係がどんなものかを知っているのだ。
ドアマンはフリムを伴い、宿の奥へと廊下を進んでいく。さりげなくフリムの歩調に合わせながら、彼は廊下の突き当たりを左に折れ、そこにいくつか並ぶドアの一つを開けた。
「こちらの部屋でお待ち下さい。待ち合わせのお客様がいらっしゃいますので」
上着を預かったりお茶を出したりしてドアマンが去ってから、フリムは部屋の中をじっくりと見回した。控え目な照明の落ち着いた空間に、ローテーブルと座り心地の良さそうなソファが二つ。その一つに腰掛けながら、彼女は深呼吸した。
コールが来たら、一言目は何と言おうか。最初からこれを出したら、ブローチの代金を催促しに来たと思われるだろうか……。フリムはポケットから木箱を取り出し、それをじっと眺めた。指先の震えが収まるまで、しばらくかかった。
「失礼致します」
さっきのドアマンの声がして、ドアが開いた。フリムは慌てて立ち上がり、仕舞おうとした木箱を取り落とした。木箱は床を転がり蓋も外れてしまったが、幸い絨毯敷きだったおかげで中のブローチは無事だった。
「あっ……」
フリムが屈んで手を伸ばすと、視界に別の人物の手が入り込んでそれを拾い上げた。
「とても綺麗ですね。あの日を思い出すようだ」
フリムが顔を上げると、ブローチを手にしたコールがそこにいた。咄嗟に言葉が出てこないフリムの前で彼は愛しげに手元を眺め、やがてその瞳から一つ、涙を溢した。
お父さん、という言葉がフリムの口を衝きそうになった。そうでないのなら、なぜ彼が泣くというのだろう。
「スベイズさん……」
衝動をぐっと堪えて、フリムはそう呼び掛けた。コールは視線を上げ、フリムと同じ鳶色の目で彼女を見た。
「ああ、失礼しました。とても懐かしい思い出だったものですから。なかなか取りに伺えず、申し訳なかった。こんなところまで来させてしまって。今、代金を……」
彼は目元を拭い、財布を取り出そうとする。
「いりません」
すぐにフリムが言った。声が震えていた。
「いりません、お父さん」
彼女の瞳は涙に揺れていた。家族が散り散りになっていた理由も、今になってコールが自分の前に現れたことも、もはやどうでもいい。自分と同じその目が語っているのだ。我が子を愛していると。
「最初から知っていて、私の店に会いに来たんですよね?」
「……そうだよ。君の存在は、君の母親から聞いていた。合わせる顔などないと分かっているのに、どうしても会いたかったんだ」
コールの手がそっと、躊躇いながらフリムの頬に触れた。
「君はお母さんに良く似ている。本当に」
「レナ・クィン。私、知っています。自分のお母さんのこと。あなたがきっと、今でも愛している人のこと」
絶え間なく溢れ落ちるフリムの涙が、コールの手を濡らした。
「聞かせて下さい。あなたは私のお父さんなんですよね。私はコール・スベイズと、レナ・クィンの子供なんですよね」
「ああ。君は間違いなく私とレナの大切な娘だよ、フリム」
コールの腕が、24年の時を経てようやく我が子を抱き締めた。その存在すら知らずに過ごした、長い長い空白を埋めるように強く。