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Ecphore―闇を巡る魔導師―  作者: 折谷 螢
四章 闇の果て
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59、彼を知る者

「はい、存じ上げています」


 エイロンを知っているかというエディトの問いに、メグはそう答えた。その目が微かに曇ったが、溢れそうになった感情はぐっと唇を噛んで堪えたようだ。喉がごくりと動き、しばらく沈黙した後、彼女は口を開いた。


「はっきりと覚えています。順を追ってお話しさせて下さい。……あのクーデターから一週間ほど経った頃、私はガミック・レット医務官に呼ばれました。患者にもスタッフにも少し険のある態度の方でしたが、優秀な医務官です。彼は特別な患者を一人入院させるから、看護は全て君が担当してほしいと言いました。私一人で24時間看ることは出来ないと反論すると、問題ない、食事以外は眠らせておくからと。

 違和感はありました。まず、特別な患者というのがよく分かりませんでしたし……。どこかのお偉い方が、こっそり精神の治療で入院されることはたまにあったのですが、それとも違うようで。ずっと眠らせておくというのも、本来の治療ではありませんから。

 このことはくれぐれも内密に、病院のスタッフにすら話してはいけないと釘を刺されました。話せば職を追われるというようなことを言外にちらつかされて、納得のいかないまま従うしかありませんでした。

 予定されていた日が来て、患者は深夜に、こっそりと棟の奥にある特別室へ連れてこられました。私は彼を見て、ああ、もしかしたらこの人は治らないのではと思ってしまいました。長年の経験からです。それほど彼の目は虚ろで、あれはほとんど、廃人……」


 メグは涙ぐみ、一旦言葉を切った。エディトは冷静な表情を崩さず、頷いて先を促した。


「失礼しました。彼はとてもやつれて、人に支えられなければ歩けないような状態でした。髭も爪も伸びて、髪もぐしゃぐしゃで。まず風呂に入れなければならないと思いました。私はレット医務官と一緒に彼を綺麗にして、ベッドに寝かせました。その間、残念ながら何の反応もありませんでした。彼は人形のようでした。

 レット医務官は彼の素性について、何も教えてはくれませんでした。本人に聞ける状態でもありませんでしたし。カルテ(診療録)には……、あの、カルテというものは存在しませんでした。レット医務官は診察をしても、何も記録に残さなかったのです。私にも看護記録は付けるなと。

 看護官としてそれは出来ませんでした。患者の日々の変化を細かに捉えなければ、良くなっているのか悪くなっているのか判断が出来ないのです。だから私はこっそりと、記録を付けていました。少しでも彼が良くなることを祈って」


「その記録は、今も存在しますか?」


 メグはしっかりと頷いた。


「はい。誰にも見付からない場所に、隠してあります」


「そうですか。後日、見せてもらいましょう。続けて下さい。入院中のエイロンについて」


「はい。彼は常にレット医務官の魔術で眠らされていて、毎日、食事の時だけ起こされていました。私が口に運んだ物を、ただただ咀嚼して飲み込むといった感じでしたが……。食事が終わるとすぐに眠らされてしまうので、私は食事の後にこっそり、彼と話す時間を作りました。

 私が一方的に話し掛けるだけで、返事はありませんでした。それでも一週間ほど経つと視線が動くようになって、ある日、はっきりと私を見たんです。私はまず、彼の名前を聞いてみました。エイロン・ダイス、と彼は答えました。そこで初めて名前を知りました。でも私は、レット医務官にはそのことを黙っていました。知らないことにしておいた方がいいと思ったんです。

 次の日には、彼は自分が近衛団員であることを話してくれました。その次には、レット医務官にはまだ自分が意識朦朧としていることにしておいて欲しいと。彼は恐らく、その時点で自分を取り戻していたのだと思います。私がレット医務官に脅されているのだろうと、そんなことにまで気付いていたんです。

 数日経って、彼は自らレット医務官に話をしました。もう自分を取り戻していると。すると翌日の深夜、人目を忍ぶように面会に来た人がいたんです。私のいた仮眠室は病室のすぐ隣だったので、壁に耳を付けて会話を聞きました。

 彼はエイロンさんを脅していたようでした。エイロンさんには、副団長と呼ばれていました。細切れにしか聞き取れなかったんですが、監禁がどうとか、人の名前が何人か、その人たちを同じ目に遭わせる……。やめてくれ、と彼は懇願していました。秘密は守るから、彼らに手を出さないでくれと」


 エディトはそれを聞き、少し前のめりになった。


「そこで出てきた名前、覚えていませんか」


「ええと……」


 メグは必死で記憶を辿り、言った。


「ランド、……いえ、レンドル。それと、エディト。そうです、あなたの名前と同じでした。その二人の名前を挙げて、同じ目に遭わせてやるぞと脅していたんです」


「そうでしたか。やはり……」


 エディトは力無く椅子に背を預けた。予想していたことではあったが、やはりエイロンは、自分たちをエヴァンズから守るために自らが犠牲になっていたのだ。そんな彼女を、隣で記録を取っていたラシュカが心配そうに見る。


「団長……?」


「失礼。続けて下さい、メグさん」


 エディトは姿勢を正し、冷静に言った。


「はい。私は翌朝、エイロンさんにそのことを尋ねました。彼は、私は何も知らないことにしなければならないと言いました。あなたを危険な目に遭わせたくない、と。その優しさに胸が裂けそうでした。

 しかし、レット医務官には怪しまれていたんです。私がエイロンさんと色々話していることを。ある日レット医務官は、私を病院の地下室に連れていきました。そこで、近衛団長のセレスタ・ガイルスが待っていて、彼は私に……」


 メグは声を震わせ、両手で顔を覆った。そこで恐ろしい目に遭ったのは間違いない。魔術での行き過ぎた尋問だろう。セレスタの得意とするところだ。


「何が起こったのか分からなかった。ありとあらゆる嫌な、暗くて恐ろしい感情が頭で渦を巻いて、私は気が狂いそうでした。あの人は繰り返し、担当した患者のことは全て忘れろ、誰にも話すなと言いました。私は、誓います、誰にも話しませんと言うしかありませんでした。

 その後すぐに、私は理由も分からず今の孤児院に転職させられました。周囲にどう説明されていたのかは、分かりません……。生活していくために仕事は必要ですから、受け入れるしかありませんでした。

 エイロンさんのことは、それ以上何も知らないのです。キペルに入ることすら恐ろしくて。彼は無事に退院出来たのか、まだ入院しているのか。あんなに優しい人がどうして心を病むほどの目に遭って、更に脅されなければならないのか。何も分からないまま、9年も経ってしまいました」


 彼女は顔を覆った手を離し、その瞳から涙を溢れさせた。


「今にして思えば、私に出来ることはあったはずなんです。たまに病院へ出向してくるレナ医長に、本当のことを話せば良かった。彼女なら、医務官が患者を苦しめるような真似は絶対に許さなかったはずです。自警団に話を通して、エイロンさんを救えたかもしれない」


 レナならきっとそうしただろう、とエディトも思った。しかし、魔導師ではない一看護官が魔導師である医務官に反抗して行動するのは、実際は難しかっただろう。エディトは優しく、メグに言った。


「ご自分を責めないで下さい。エイロンも、それを望んではいないでしょう」


「教えてくれませんか。彼は今どうしているのでしょう。無事なんでしょうか」


 エディトは数秒黙った後、メグの目を見ながらこう言った。


「彼はつい最近、亡くなりました。詳細は話せませんが、彼を愛する家族と、かつての仲間と教え子に見守られて、安らかに」


「あぁ……」


 メグは深い嘆きのような息を吐き、目を閉じた。


「お亡くなりに……。でも、安らかだったんですね。一人ではなかったんですね。それだけは救いです」


 そう言って胸の前で手を組み、エイロンのために祈りを捧げた。

 ああ、ここにも彼を想ってくれる人がいた……そう思うと、エディトはいくらか救われた気持ちになった。


「ありがとうございます、メグさん。あなたの心はきっと、彼にも届いているはずです。……最後にもう一つ、話して頂きたいことがあります」


「はい。私に答えられることでしたら、何でも」


「あなたはチェルス・レンダーという女性をご存知ないですか?」


「チェルス・レンダー……、ええ、存じ上げています。近衛団員の方でした。8年ほど前、私の家を訪ねて来られたんです。私服姿で、最初は何の用でいらっしゃったのか分からなかったのですが……彼女は私に、中央病院で働いていたときに担当した患者のことで話が聞きたい、と。エイロンさんのことだと直感しました。私は怖くなって、何も知りませんと追い返してしまいました。

 それからもう一度、彼女は私の家を訪ねて来られました。でもやはり、何も話せませんでした。そのことも、とても後悔しています」


「この顔で、間違いないですね?」


 エディトが片手を広げると、そこから発生した白いもやが徐々に色を伴い、チェルスの顔を形作った。柔らかにウェーブするブロンドを後ろで纏め、穏やかな表情をしている若い女性。エディトの記憶に残る彼女の姿だ。

 大人しそうに見えて誰よりも行動的で、ぱっと花が咲いたように笑う。ケビン・レンダーと結婚したばかりでとても幸せそうにしていた彼女を、エディトは覚えていた。


「間違いありません、この方です。……彼女はどうされていますか? 今も近衛団に?」


「彼女は7年前の悪夢で……。お辛いことばかり聞かせて、申し訳ありません」


 胸の痛みを表情には出さず、エディトはそう言った。チェルスはやはり、仲間であるエイロンのために情報を集めようとしていた……。真実は全て良いものではない、知ることで救われるわけでもない。そんなことは分かっている。それでも遺された者は、仲間に託された想いをどこかへ放り投げてしまうことなど出来ない。


「お話しして下さってありがとうございました、メグさん。あなたのその涙の分、私が責任を持って、彼らの望む結末を目指したいと思います。……それが近衛団長としての、私の最後の仕事になるかもしれません」

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