2、不思議な寝言
「ひどいことするね。こんな女の子一人捕まえるのに、暴力振るったの?」
ミネ・フロイスはそう言って、医務室のベッドに横たわる少女の顔をガーゼで優しく拭った。ルースの同期でもある彼女は自警団医療部の魔導師、いわゆる医務官だ。燃えるような赤毛を後ろで束ね、前髪の下には凛とした目元が覗いている。白衣を羽織っているが、中に着ている立襟のダブルブレストの紺制服は監察部と同じだ。左胸に自警団を表す鷲の刺繍がある。
乾いた血がこびりついた少女の顔はどこか生々しく、カイが思い切り顔を逸らしていると、ミネはぎろりと彼を睨み付けた。
「聞いてる?」
「聞いてますよ。襲ったのは俺たちじゃありませんてば」
非難される謂れなど無いとばかりに、カイは不機嫌な声を出した。それもこれもルースが何の説明も無しに少女を置いていったせいなのだ。
「冗談だよ。あのルースが暴力を振るうなんて考えられないもん」
ミネは少女の顔を拭う手を止めた。血は止まっていて、切れていた唇も、頬にあったアザも綺麗に無くなっている。ちらりと少女の顔を見たカイは、さすが医務官、と密かに感心した。
医務官は監察部の魔導師とは違って、人を治療する魔術に長けていた。高等魔術学院では二年生に進級する際に、能力に応じて監察科と医療科に振り分けが行われている。カイは治療の魔術がほとんど使えないから、問答無用で監察科だった。
「それにしても、ずいぶん強く眠らせてあるんだね」
ミネが怪訝そうに言うと、カイは肩を竦めてみせた。
「起きたら暴れるからじゃないですか。女のくせに結構な力ですよ、こいつ」
「そもそも、どうして捕まえたの? そんなに悪いことをしたようには見えないけど」
ミネは首を傾げ、まじまじと少女の顔を見る。
「この寝顔なんて、まるでお人形みたい。可愛いじゃない」
少女の見た目には興味を示さず、カイはふんと鼻を鳴らしてこう言った。
「俺が分かるのは、こいつが物を盗んだかもしれないってことだけです」
「何を盗んだの?」
「本人は拾ったって言うんですけどね。首飾りですよ、黒い宝石の付いた。副隊長、それを見たらなんだか血相を変えて、こいつを気絶させたと思ったら、担いで行っちゃったんです」
「黒い宝石かあ。ブラックオニキスとか?」
「知りません。興味が無いです」
「あなたが興味あるのって、ルースだけだもんね」
からかうようにミネが言うと、カイはあからさまにムッとした顔をして話を逸らした。
「こいつ、起きたらどうするんですか。副隊長、尋問でもするつもりなんでしょうか」
「うーん。その、盗んだらしいものが何なのかはっきりしないと分からないよ。ルースも深刻そうな顔してたし……。ちゃんと説明してくれるといいんだけど」
そのとき、若い医務官が側へ寄ってきて声を掛けた。黒髪を肩の辺りで切り揃えた、利発そうな少女だった。
「ミネさん、フィズ隊長が呼んでます」
フィズは第三隊の隊長だ。勤務中に負傷して、医務室で治療を受けていたらしい。キペルにある自警団本部は第一隊から第四隊までを管轄しており、隊員が負傷した場合は街の病院ではなく医務室に運ばれることになっている。
「今起きたの? 昼夜逆転じゃない……。すぐ行く」
ミネは呆れた声を出し、奥のベッドに小走りで向かった。残された少女はカイに向き直り、にこりと笑った。
「久しぶり、カイ。今日は夜勤?」
「おう、久しぶり」
カイも表情を弛めて、軽く片手を上げた。その少女、クロエ・フィゴットはカイの同期だ。同郷ではないが、魔術学院の入学当初から気が合って親しくしている。
「俺は夜勤だよ。そっちは?」
「私も。夜勤って疲れるよね……なんて、私が監察部の人に言ったら怒られちゃう。そっちは今日も忙しかったんでしょう?」
クロエはベッドで眠る少女に目を遣った。
「この子、私たちと同い年くらいかな。スラム街の子だよね」
ベッドサイドのテーブルには、少女が着ていた服が畳んで置いてあった。薄汚れていたから、そのままベッドに寝かせるのは躊躇われたのだろう。清潔な寝間着に着替えさせられた少女は、そんなこととは露知らず、まだ穏やかな寝息を立てて眠っていた。
「そうだな。名前も何も知らないけど」
「友達になれるかな?」
「無理だろ。俺たちのこと、貴族様とか言って敵視してるんだから。何の苦労もしないで、のうのうと暮らしてるなんて言いやがって……」
カイは到底、仲良く出来る気がしなかった。あんな風に侮辱されては、仲良くしたいとも思わない。誰しも苦労の末に魔導師になったのだ。少しでも努力を怠れば、学院でふるい落とされる6割の中に簡単に入ってしまう。魔力を持っていることに胡座をかいているような人間は、魔導師にはなれない。
「でも、仕方ないよ。ゼロと1の違いは大きいし。魔術で人が殺される事件も、ガベリアの悪夢が起きてから――」
クロエははっと口をつぐんだ。カイもぎょっとした顔で、急いで周りを見る。幸い、誰にも聞かれていなかったようだ。
「気を付けろよ、クロエ」
「ごめん……」
リスカスには三つの地域がある。最大都市のキペル、その南にカイの出身地であるスタミシア、そして更に南に、呪いと共に消滅したガベリア。『ガベリアの悪夢』と呼ばれる災厄が起きたのは、7年前のことだった。
各地域には、それぞれ巫女が一人ずついた。不老不死とも言われ、洞窟の奥に暮らし、人々がその姿を目にすることはない。例外は国王と、数人の近衛団の魔導師だけだ。
巫女は魔力の秩序を守る存在だった。だが、ガベリアの巫女は死んだ。彼女の死は呪いとなってその地と人々を消し去り、二度と生命の宿らぬ場所へと変えてしまった。ガベリアの地は闇の中のように黒く染まり、空には常に厚い雲が垂れ込めている。一歩でもガベリアの中へ入れば、呪いの力で命を落とす。
カイが学院で習ったのはそこまでだ。不老不死とされた巫女がなぜ死んだのか、ガベリアは今後どうなるのか、それは一切知らされていない。巫女の呪いの力なのか、ガベリアについて記した書物も地図も全て黒く染まり、その歴史を知ることは出来なくなっていた。ガベリアを知るには、人の記憶だけが頼りだ。
だが呪いを恐れているのか、誰もがガベリアについては口を閉ざす。その言葉を口にすることさえ躊躇われる、それが今のリスカスだった。
ふと少女に目を遣ったカイは、彼女の目が開いていたことに気付き、心臓が止まりそうになった。
「……っ、なんだよ、起きてんのかよ」
「……」
少女の口元が微かに動いている。二人は少し耳を寄せてみた。
「……グベルナ・クアブス・ターアル……ニアコ……」
少女はカイが聞いたこともない言葉を呟いた。何一つとして、意味は分からない。
「何を言ってる?」
困惑してクロエを見るが、彼女も首を横に振るだけだった。
少女の目はいつの間にか閉じられ、また穏やかな寝息を立てていた。