56、あの家
「……寒い。そろそろ入っても大丈夫じゃないか?」
暖かい陽射しとは裏腹な冷たい風が吹いていた。バルコニーの手すりに腕をもたせ掛けていたカイは、隣に並ぶフローシュに顔を向ける。彼女はすぐ、照れたように視線を逸らした。
「そうね。顔は少しましになったみたい」
二人は先程まで、部屋の中で小一時間ほどかけて過去の話をしていた。セルマのことも、母親のことも全て。カイが話すことをフローシュが聞いているだけだったが、お互いに、馬鹿みたいに泣いていたのだ。おかげで目蓋が腫れてしまい、それをなんとかしようとバルコニーに出て顔を冷やしていたのだった。
フローシュは深く息を吸ってから、カイに体を向けた。
「今日のことは二人だけの秘密ね。私、絶対に誰にも話さないと誓うわ」
「別に、俺の過去はそこまで隠すことじゃないよ」
「いいえ、こちらの話」
フローシュは自分の唇を指差し、微笑んだ。せっかく火照りの取れたカイの顔が、瞬時に赤くなった。
「ああ……」
フローシュから顔を逸らし、彼は苦々しい表情になった。本部を出る前にウェインから言われた、節度という言葉が頭の中を巡る。
カイ自身も自分の行動には驚いていた。大胆にも彼女にキスをする、などとは。後悔はしていない。しかし、理性を軽々と超えてしまう何かを知ってしまった後となっては、フローシュの微笑みも、鳶色の髪から覗く首筋も、幸せそうに細められた淡いブラウンの瞳も全て、その節度を保てなくなるような危険なものに思えるのだった。
「こちらを向いて下さらない? お気に障ったのかしら」
黙り込むカイに、フローシュが不安そうに言った。
「違……っ」
慌てて振り向いたカイの顔面に、どこからか飛んできた青い物体が激突した。きゃあ、とフローシュが悲鳴を上げる。カイはじんじんと痛む頬を押さえながら、何事もなかったかのように手すりで休んでいるその物体、ナシルンを睨み付けた。
「嫌がらせか、この野郎」
「これ、自警団の伝書鳩よね? 何かあったのかしら。きっと急ぎの用事なのよ」
それを聞いて、カイもすぐに冷静になる。ナシルンに触れてメッセージを聞き取り、表情を曇らせた。
「……とりあえず中に入ろう」
フローシュを連れて客間に戻り、窓を閉めた。
「どうなさったの、カイ」
「セオに話を聞きたいから、自警団本部に連れてきて欲しいって」
「なぜ? セオが何かしたとでも仰るの?」
フローシュは思わず、カイの腕を掴んだ。
「落ち着け。セオ自身のことじゃないよ。ランブル家のことで少し話を聞きたいらしい。ほら、セオはこの屋敷に来る前、そこにいただろう」
「ええ。あの家の人間は、畜生だわ」
彼女の声に怒りが滲む。カイもセオ本人から、ランブル家で酷い扱いを受けていたことは少しだけ聞いていた。洗濯桶に頭を突っ込まれていたところを、たまたま客として来ていたフローシュの父が目撃して助けてくれのだと。
「でもどうして今さら、彼の話を? ランブル家の人間を獄所台へ送って下さるのかしら」
「そうなるかもな。恐らく別の罪状だけど。詳しくは……、ごめん」
ランブルがセレスタの屋敷で栽培されていたメニ草の取引先だった、という情報は、まだ表に出してはならないはずだった。魔導師ではないフローシュには秘密にしなければならないことも多く、仕方がないとはいえカイは心苦しかった。
しかし、フローシュは笑ってこう言った。
「それでよろしいのよ。あなたは魔導師だもの、口が軽くてはいけないわ。……ミスター・レンダーにはこのこと、話しても問題ないかしら?」
「うん。そういえばミスター・レンダーも、セオが酷い目に遭っていた現場にはいたのか?」
「ええ、もちろん。お父様がお出掛けになるときには大抵いつも一緒よ。セオはこのお屋敷の中では一番、彼に心を開いていると思うわ」
「ありがとう。じゃあ、ミスター・レンダーにも話を聞いてみる。大丈夫だ。セオのことは傷付けないって約束する。無事に帰すよ」
カイがしっかりとフローシュの手を握ると、彼女は頷いた。
「そこは心配していないわ。自警団の方たち、とても優しいもの。私はお仕事の邪魔をしないようにするだけ。行ってらっしゃい、カイ」
少しだけ爪先立った彼女の唇が、カイの頬に軽く触れた。
「……行ってくる」
節度、節度と頭の中で呪文のように繰り返し、カイは狼狽えながら部屋を出たのだった。
レンダーは食堂で一人、昼食の支度をしていた。内密の話をするには都合がいい。真剣な表情で寸分違わず銀のカトラリーを並べている彼に、カイは声を掛けた。
「お疲れ様です、ミスター・レンダー」
「ああ、カイ。君に確認しようと思っていたところだよ。ご主人様が、昼食を一緒にどうかと仰っていてね」
レンダーが微笑む。小一時間も部屋に二人きりでいたのに、フローシュとのことを何も詮索されないのは、それだけ信頼されているということだろうか。カイは嬉しいような申し訳ないような気持ちになりながら、その誘いをやむを得ず断った。
「すみません。本部に戻る用事が出来てしまいました」
「やはり自警団は忙しいんだね。では是非、またの機会に」
「あの、ミスター・レンダー。あなたに聞きたいことがあって来たんです」
カイが改まると、レンダーも手を止めて彼を見た。
「私に?」
「はい。セオのことで」
少し首を傾げた彼に、カイは本部からの要請を簡単に伝えた。
「……という理由で、セオを本部に連れていかなくてはならなくて。でもその前に、あなたが知っていることを聞いておきたかったんです。セオの不利になるようなことには絶対にしませんから」
カイが熱を込めて話すと、レンダーは何度か静かに頷いてから、話し出した。
「あの子がとても過酷な環境にいたことは、君も聞いているね。この屋敷に来て数ヶ月経っても、後遺症のような形で彼の行動や体調に表れるほど」
食事を貪るように食べたり、咳の発作が出たりすることだ。前者は僅かな食事を他の使用人と取り合っていたためで、後者はセオ曰く『嫌なこと』を思い出すと症状が出るらしい。カイがそれを話すと、レンダーは同意を示した。
「そう。ここへ来た当初は折れそうなくらいに華奢で、人の目を見られないほど怯えていた。あんな扱いをされていれば無理もない。私もご主人様も、ランブルのお屋敷であの光景を見たときは背筋が凍ったよ。他の使用人が二人掛かりで押さえ付けて、水に頭を突っ込むなんて……。あれは殺人未遂だ」
「どういう状況でそうなったかは、ご存知ですか?」
「それが、詳しいことは分からないんだ。私たちが見たのはその場面が最初だから。ご主人様がお怒りになって『自警団を呼ぶぞ』と大声を上げたので、使用人たちは逃げていった。それから私がセオを介抱して、ご主人様はランブル家の当主様の元に。今のランブル社の社長、デリック・ランブル氏だ。
ご主人様は廊下にも聞こえるほどに怒鳴り散らしておられた。一体どういうつもりか、使用人にあんなことを許しているのかと。ご主人様はその場でセオをデマン家に引き抜くことを決めたんだ。使用人たちの所業を自警団へ通報しない、という交換条件だったそうだよ。
セオにももちろん事情を聞いたけれど、彼は『掃除に使う道具を僕が失くしてしまったから』と。本当かどうかは分からなかったが、怯えている彼を見たらそれ以上は追及出来なかったんだ」
カイは胸糞の悪い気分になりながら、ランブル家は相当自警団を警戒しているようだと感じた。セレスタとメニ草の取引をしていたのが本当だとすれば、当然のことなのかもしれない。セオはそのことで何か見たり聞いたりしたのだろうか。そして口封じのためにあんなことに……? ただそれは、レンダーには確認しようがないことだった。
「そうでしたか……。セオは自分のことを孤児だって言ってたんですけど、そのことは何かご存知ないですか?」
「私もそう聞いているよ。ただ、どこの孤児院にいたのかは分からない。本人が話したがらないし、ご主人様によるとデリック・ランブルも把握していなかったらしい。かなり呆れていらっしゃった」
「初等学校を出てすぐに使用人として働き出したのは、間違いないでしょうか」
「うん、どこの初等学校かは分からないけど、相応の教養はあったからね。学校は出ているはずだ。セオは賢い子で、覚えも早い。私のような執事になりたいと言ってくれたから、それに応えてあげたいと思っているんだ。一人前になって、幸せに生きていって欲しい。私はそのための協力は惜しまないよ」
そう話すレンダーの目は、痛いくらいに真摯だった。セオは彼を本当に優しい人と言った。それに間違いはないようだ。
「俺も、セオは幸せになるべきだと思います。話してくれてありがとうございました、ミスター・レンダー。じゃあ、セオを……」
物音がして、カイはドアを振り返った。青白い顔をしたセオが、そこに立っていた。
「セオ……」
「ごめんね。全部聞いてた、最初から」
そう言って、彼は力無く笑った。
「行くよ、自警団。もうここへ帰ってこられなくても構わない。僕はカイにもミスター・レンダーにも、嘘を吐いてしまったから」