50、戦友
月光が降り注ぐその黄色い花畑は、それがメニ草と知らなければただただ美しいものに見える。しかし、カイにとっては怒りで手が震えるような光景だった。
「こんなところに、なんで……」
近衛団の長が、リスカスの違法植物を自宅で栽培していた。クーデターを企てたことに比べれば些細なことに思えるが、これも相当に許されざる罪だ。多くの人間から人の心を奪い、無垢な子供たちを闇の中へ落とした植物。魔導師として、被害者としてその苦しみが分かるだけに、カイは冷静ではいられなかった。
そのとき、部屋一面に生い茂るメニ草が一斉に揺れた。奥の壁にあった大きな窓が開け放たれ、冷たい風が吹き込んだのだ。その窓枠の中に人影が二つ。一つはワイスマン、そして彼が抱えている糸の切れた操り人形のようなものは――。
「フローシュ!」
カイは叫び、咄嗟に魔術でワイスマンの動きを封じた。全速力で窓に向かって走り出すが、生い茂るメニ草がそれを阻む。その間に、ワイスマンはカイの魔術を振り切って再び動き出した。体を二つに折り曲げたフローシュはだらりと手足を伸ばし、為されるがままワイスマンの腕に揺られた。
「やめろ――」
大きく外へ振り出された彼女の体が宙に浮く。拳銃を取り出したワイスマンが、銃口を自分のこめかみに当てる。
死なせてはならない、とカイの頭の中で声が響いた。フローシュはもちろん、ワイスマンも。犠牲になった人々のためにも、死んで終わりになどさせてはならないのだ。しかしこの状況でどうすれば――
「カイ、行けっ!」
背後で誰かが叫んだ。振り返らずとも、それがルースの声だと分かる。彼の魔術でワイスマンが手にした拳銃が弾け飛んだときにはもう、カイは窓枠を蹴って外へ飛び出していた。
(フローシュ……!)
カイは頭から落下していく彼女に思い切り手を伸ばす。あのメニ草畑の部屋が何階に当たるのかは分からないが、地面までの高さは十分だ。死ぬにも、助けるにも。
建物の半分まで落ちたところで、ようやくカイの指先がフローシュのドレスの裾を掴む。そのまま強く引き寄せ、彼女の体を抱え込んだ。魔術で出来る限り速度を削る。うっすら雪の積もった地面が目の前に迫る。
「う……っ!」
カイはフローシュを抱えた状態で地面に背中を打ち付けた。その衝撃と彼女の重みで胸を潰され、一瞬息が詰まる。幸いにも下は芝生で、それ以上の負傷は免れたようだ。
ほんの数秒の出来事がずいぶんと長く感じられた。カイはむせ込みながら起き上がり、フローシュの無事を確認する。彼女は目を覚ましていた。自力で上体を起こし、ぼんやりとした目でカイの顔を見つめた。
「……幻かしら。こんなところに私の騎士がいる」
「またそれかよ」
カイは思わず、笑った。フローシュの無事が分かって安心したのと、終始一貫しているその性格がおかしく思えたのだ。しかしよく見ると、彼女の口の端に乾いた血が付いているのが分かる。唇が切れているようだ。
「怪我してる」
カイが慌ててフローシュの頬に手を触れると、その指先を温かい何かが濡らした。真っ直ぐにカイを見つめるフローシュの目から、涙が静かに溢れているのだった。
「フローシュ……?」
「カイ、私が今どんな気持ちかお分かりになる? あなたの笑っている顔を見られただけで、怪我なんてどうでもいいくらいに嬉しいのよ」
「俺はどうでもよくない。でも……無事で良かった。本当に。間に合わないかと思った」
噛み締めるようにそう言って、フローシュの肩を抱き寄せた。ここまで来てやっと、守りたかった人を自分の手で守ることが出来たのだ。大切な人を失い、心の奥底で自分を責め続けてきた彼にとって、腕の中にいるフローシュの存在はとてつもなく大きかった。
フローシュは静かに頷くと、カイの背中に手を回し、微かに肩を震わせる彼を優しく抱き締めた。涙を流すほどに自分を想ってくれていた――単純にそう信じられたら、どれほど楽なのだろう。少なくともオーサンの死を知っている彼女にとっては、その涙が全て自分のためのものでないことは分かっていた。
しばし無言の時間が続いた後、遥か頭上から声が降ってきた。
「カイ! 無事か!」
ルースや他の隊員たちが何名か、あの部屋の窓から顔を出していた。どうやらワイスマンは無事に確保したらしい。カイは慌ててフローシュから離れると、大きく手を振って返事をした。
「俺もフローシュも、無事です!」
はっきりと分かるくらいに彼は鼻声で、その頬には光るものがあった。フローシュはそれを見ていいものかどうか分からず、少しだけ俯いた。
「……分かった。二人とも本館の正面玄関へ。後は任せたぞ!」
微妙な間があった後にルースが答え、隊員たちと共に引っ込んだ。恐らく、カイが泣いていたことには気付いていたのだろう。下まで降りてこないのは彼なりの気遣いだ。
カイは目元を拭ってからフローシュに向き直り、その肩を出した寒そうなドレス姿に今更ながらはっとした。
「悪い、気が利かなくて」
急いで自分の外套を取り、フローシュに着せ掛けた。彼女はちらりとカイの表情を確認し、ありがとうと呟いて外套の胸元を掻き合わせる。動悸がしてしまう。笑顔も泣き顔も、全てさらけ出した彼を見たからだ。
「とにかく、行くか。風邪引かせるわけにはいかないから」
カイは当然のようにフローシュを抱えて立ち上がろうとし、彼女を慌てさせた。
「えっ、大丈夫よ、歩けるわ」
「裸足のくせに何言ってんだ。ファルンの側に落ちてた靴と靴下、君のだってフィルが言ってたぞ」
「フィル……彼、無事だったの? カレンは? 二人とも、私がファルンと踊っている間に消えていたのよ」
「どっちも無事だよ。心配しなくていい」
それを聞いて、フローシュはほっと胸を撫で下ろした。実際のところはフィルもカレンも医務室送りの状態だ。しかしどちらも命に別状はないし、余計な心配をさせることもないと思い、カイは黙っておいた。
カレンはフローシュを追うために部屋を出てすぐ、ワイスマンが魔術を掛けて飛ばしたナイフに脇腹を刺されていた。医務官のルカがいなければ死んでいたところだ。
「ほら、行くぞ。なんか雪も降ってきたし」
「でも、重いでしょう?」
「魔術で軽く出来る。心配すんな」
そう言ってカイは軽々とフローシュを抱え上げた。今のやり取りで、かつて同じようにセルマを背負ったときのことを思い出しながら。
フローシュはぐっと近付いたその顔を見つめながら、彼が遠い目をしていることには敏感に気付いていた。
(ああ……、また、別の誰かのことを考えていらっしゃるのね)
カイとの再会も、彼が助けに来てくれたこともこの上なく嬉しいのに、その壁だけは取り払えない。踏み込んでいく勇気も無い。さっきの涙の理由も、もしかしたらその誰かに関係するのではないか……、そう思うと無性に胸が苦しく、フローシュは外套に半分顔を埋めて黙っているしかなかった。
中庭を通って正面へ回る道の途中、どこからか騒がしい声が聞こえてくる。ちらほらと隊員たちの姿もあり、予想通りパーティーで何か起きたのだということはフローシュにも分かった。
「……ねえ、カイ」
「ん?」
「今日起きたことについて、私が全てを知ることは出来ないのよね」
カイは立ち止まり、フローシュの顔を見た。
「当事者だからある程度は説明するよ。でも恐らく、世の中には隠しておけないことだから……いずれ、嫌でも知ることになると思う」
「そんなに重大なことなの。……では、あなた方はしばらく忙しいのかしら」
「そうだな。まだ完全に終わったとは言えないし」
カイは視線を遠くに遣って、呟くように言った。セレスタが確保されたとなれば、クーデターに関する真実が明らかになるのも時間の問題だ。それから世の中がどう動くのかは、カイにも分からない。一つ間違いないのは、ゆっくり休めるのはまだまだ先ということだ。
「私、待たせて頂いてもよろしい?」
その言葉に、カイは視線をフローシュへと戻した。
「待つって、何を?」
「あなたがもう少し、私に心を開いて下さるのを」
フローシュは真剣な目で彼を見つめる。踏み込むことは出来なくても、せめてこれくらいは言わせて欲しかった。
「私の騎士なんて、夢見がちなことはもう言わないわ。その……お友達として、これからもお付き合い頂けるかしら。任務を終えたからさようならなんて、ひどすぎるでしょう?」
カイは数秒黙った後、彼女の誤解に気付いて表情を弛めた。
「任務を終えたら関係が切れるなんて、思ってないよ。会ってはいけないって決まりもないし」
「本当? ……私ね、カイに出会えて本当に良かったと思っているのよ。あなたは私の心の支え。私を強くして下さったわ。おこがましいけれど、私もあなたにとってそんな存在になりたいと思ったの」
伝えたいことがもう、喉元まで出掛かっていた。カイの心に少しだけ踏み込んでみたい。拒否されたらそれまでだ。彼女は息を吸い、覚悟を決めてこう言った。
「あなたが何で苦しんでいるのか、知りたいと思ってはいけない? 一緒に悲しんだり、苦しんだりして、あなたの心を軽くしたいと思ってはいけないかしら?」
カイの瞳が、揺れた。フローシュの懸命さが胸を打つ。自分の心の支え。セルマでもオーサンでもなく、それは現実の世界にもちゃんといたのだ、と。
「……ありがとう、でも」
カイには素直に全てを受け止められない理由があった。
「一緒に背負ったりしたら、フローシュが辛くなるだろ。たぶん君の想像を超えるようなことが、俺の過去にはあるんだから」
「優しすぎるのよ、カイは。私は強いわ。たぶんあなたの想像を超えるくらい」
フローシュは目に涙を滲ませながら、微笑んだ。
「言ったでしょう? 私もう、騎士の助けを待つお姫様ではないのよ。あなたと一緒に闘った。つまり、戦友だと思っているのだけれど。戦友には、弱いところも見せられるのではなくって?」
「やめろ」
カイは素早く彼女から顔を逸らした。頬に伝ったものはそれで誤魔化せても、声が震えているのは隠せなかった。
「まだ任務中なんだ。弱いところを見せてる場合じゃない」
「ええ、待つわ。何日でも何ヵ月でも、何年でも」
フローシュはカイの体にそっと額を寄せた。今はこれでいい。本当に伝えたい言葉はまだ口に出来なくても、戦友と認めて貰えたのだから。
顔を逸らしたままのカイが不意に、すっと息を吸った。
「……くしゅんっ!」
大きなくしゃみが、冷たい空気の中に響いた。吹き出したのはフローシュだ。緊張の糸が全て解けたように、軽やかな気分だった。
「ふふっ。ここでくしゃみだなんて、ロマンがないわ」
「外套、貸すんじゃなかった」
カイがむくれた表情で振り向き、フローシュが目をしばたいた。
「やだ、鼻水。ひどい顔よ。拭かなくては」
「両手が塞がってるからどうしようもない」
「じゃあ私が。あら、でもハンカチが……」
「あっ、やめろ、俺の外套で――」
遠巻きにその様子を眺めていた第一隊員の二人は、思わず顔を見合わせて笑ったのだった。
「見たか? あのカイが笑ってるぜ」
「はい。なんか、とりあえず良かったですね」
「副隊長にも報告しないと」
「そういうのはただのお節介って言うんだ、お前たち」
ルースが不意に割って入ったが、そう話す彼の顔も穏やかだった。
「ほら、任務に戻って。あのメニ草畑は証拠として保全しておかなければならないし、使用人たちの聴取もある。全て獄所台へ報告するものだから、手抜かりは許されないよ」
真顔に戻ったルースを見てごくりと唾を飲み、隊員たちは走っていった。残されたルースはもう一度カイとフローシュの様子を見る。何も知らなければ仲睦まじい恋人同士に見えるような、そんな空気が二人の間には漂っていた。
今後、クーデターの真実が明らかになる度にカイは傷付き、苦しむのだろう。どんな真実であれ、ベイジルの死とは切り離せないのだから。それでも今のカイには、あんなふうに自分をさらけ出せる相手がいる。
(この光景、あなたも見ていますよね。ベイジルさん。カイはきっと大丈夫です。僕はもうしばらく、あなたの代わりに見守らせてもらいます)
ルースは心の中でそう語りかけると、優しく微笑んで任務に戻っていった。