48、不可能
雲間から月が覗き、沈黙が訪れたセレスタの執務室を照らす。机の上に点々と散らばった血が、光る。
その向こうに引っくり返った椅子の横で、セレスタは床にうつ伏せに倒れていた。体には魔力を封じるための銀色のロープが巻き付き、右腕の辺りからはじわりと血溜まりが広がっていく。彼は苦し気な息を吐きながら、身を捻ってなんとか頭を持ち上げた。
「エディト……、貴様……」
「銃を使うとは」
セレスタの前に立ったエディトが掲げてみせたのは、拳銃を握ったままの彼の右手だった。発砲の瞬間、エディトがサーベルで手首を切り落としたのだ。銃弾は狙いを逸れ、後ろの壁に孔を空けていた。
「お前は魔導師を辞めたんだな? セレスタ」
エディトは無表情のまま、突き刺すような声で言った。先程の戦闘で消えかけていた暖炉の火が再び燃え上がり、セレスタを見下ろす彼女の目を爛々と輝かせる。
「……そんな血では足りない。お前の薄汚い謀略による罪が、死んでいった人間の無念が、その程度で贖われるはずがない」
エディトは切り落としたセレスタの右手から銃を取ると、弾倉に残っている弾を床に捨て、銃は暖炉へと放り込んだ。
「死ねばいい」
そう言って、セレスタの右手も暖炉に放り込んだ。彼女としては冷静さを保っているつもりでも、他人の目には恐らくそう映らないだろう。言葉も行動も常軌を逸している。
炎は一瞬激しく燃え上がり、やがて小さくなった。エディトの視線はゆっくり、暖炉からセレスタへと向いた。
「殺してやっても良かった。許されるならそうしたかった……」
彼女は深く息を吐いてセレスタの横に屈むと、彼の手首に魔術で止血を施した。
「私に勝ったつもりか」
セレスタが呻くように声を絞り出すと、エディトは冷たく笑った。
「勝っていますよ。少なくとも私はまだ、魔導師ですから。近衛団長としてあなたを獄所台に引き渡し、全てを明らかにする義務がある」
「不可能だ」
「今回のことで私は知りました。覚悟さえあれば可能になることがいかに多いか、ということを」
エディトは上着の隠しから折り畳んだ紙を取り出し、セレスタに見えるように広げた。彼はそこに書かれた文章を目で追い、絶句した。
「陛下が……」
「分かりますか。我々近衛団長の一族は既に特別な存在ではない。罪を犯せば他の人間と同じように裁かれる。終わりです、セレスタ・ガイルス」
エディトは立ち上がり、部屋の扉に視線を遣った。
「団長!」
レンドルを筆頭に、数人の近衛団員が駆け込んで来る。そして彼らの後ろからゆっくりと歩いてきたのは、自警団長ウェイン・アーマンだった。
「まさか……、生きていたのか」
セレスタが目を見開く。
「役目があるのでな」
ウェインは短く言って、セレスタの側に屈んだ。役目という言葉にセレスタは青ざめる。彼が何をする気なのか察したのだ。
「やめろ……」
「魔力は人を傷付けるためにあるのではない。それを理解しない人間は、魔力を持ってはならない」
そう言ってセレスタの額に触れると、その全身からは白い靄が浮かび上がり、瞬く間にウェインの手に吸い込まれていった。
「永遠にな」
それを握り潰すようにウェインは拳を握った。風船が弾けるような音と共に、セレスタは気絶した。
実際に魔力を消す瞬間を目にした近衛団員たちは、あまりの呆気なさに驚き、かつ畏怖の念を抱いた。時間にしてほんの10秒程度のことだ。
「少々冷静さを欠いたようだね、エディト」
ウェインは立ち上がり、セレスタの右腕にちらりと視線を遣った。出血は止まっているが、手首から先が切り落とされたその傷口は生々しい。エディトは彼の目を見たまま黙っていた。言い訳をするつもりはない。ウェインはその意を汲み取ったように、頷いた。
「……君の経験を思えば仕方のないことか。さて、後はファルン・ガイルス、マルク・ワイスマンの確保だ。パウラ・ヘミンも救出せねばならない。自警団に任せてもらおう」
「はい。……レンドル、合図を」
レンドルは窓に向かうと、そこを開け放って何かを上へ放り投げる。空に高く、青白い花火が弾けた。別館と本館の屋上に待機する隊員への合図だ。そして、街で同盟を捕らえるために待機している隊員への合図でもある。
「隊員たちの無事を祈ります」
エディトは花火の消えていった夜空を見ながら、どこか不安が拭えない思いで呟いた。
(痛いし、寒い……。乙女に手を上げるなんて信じられないわ)
フローシュの細い指は切れた唇をなぞりながら、微かに震えていた。暗い部屋の中、彼女は隅の方に座り込んでドレスのスカートを掻き寄せる。そこから白い素足が覗く。靴も靴下も、ついさっき脱ぎ捨ててきたところだった。
ファルンの態度が豹変したのは、二人が連れ立って広間を出たすぐ後のことだった。彼はそれまでの微笑みを消し去り、乱暴にフローシュの腕を引いて廊下を進み出した。彼女が抵抗すると、強かにその頬を平手打ちした。
今までの人生で初めて受けた暴力に、フローシュは恐怖で膝が震えて座り込んだ。危うく抵抗する気力まで奪われそうになったが、そこでカイの言葉を思い出したのだ。
――ファルンがどれだけの悪人なのか、君が一番分かっているはずだろ。そんな奴に身も心も売って、それで済まそうなんて、馬鹿なんじゃないのか。
違う。私はこんな人には負けない。心が奮い立った。フローシュは再び手を伸ばしてきたファルンの顔面に、ドレスの胸元に隠してあったハンカチを押し付けた。
ファルンは途端に動きを止め、床に崩れ落ちた。辛うじて呼吸はしている。ハンカチに染み込ませてあったのは、強力な睡眠薬サモニールだった。通常はほんの一滴をコップの水に薄めて飲むものだが、そこには原液がたっぷりと染み込ませてある。
おかげでフローシュは難を逃れることが出来た。とにかく彼から離れようと裸足で廊下を駆け抜け、目に付いたこの部屋に飛び込んだのだった。
「お兄様……」
少し冷静になってくると、フローシュの頭には兄ユーゴの顔が浮かぶ。「乙女はどう頑張っても、男よりは弱いからね。身を守るための何かは持っていなくては」。彼はそう言って、パーティーの前にサモニールの小瓶を持たせてくれた。「ある程度揮発性があるから、原液を嗅ぐと危険だよ」と。
優しく聡明な兄はファルンの本性に気付いていたのだろう。そして恐らく、ミミに対しての罪も。知りながらもファルンを婚約者とした父の決定には逆らえず、大切な妹と家の存続とを天秤にかけているうちに、重度の不眠症になってしまった。そこで病院から特別にサモニールが処方されていたのだ。
ユーゴは何も言わないから、不眠症の原因はフローシュの憶測でしかない。しかしそうなった時期がファルンとの婚約話が出始めた頃だったこともあり、間違いないと彼女は確信していた。
ファルンに復讐する理由がありすぎる。しかし、自分一人の力では裁くことが出来ない。フローシュはその悔しさに拳を握った。自分のこと、ミミのこと、父や兄のこと、レンダーやセオのこと。ファルンさえいなければ、皆平穏に過ごせていたはずなのに。
怒りが恐怖を和らげ、指先の震えはいつの間にか止まっていた。フローシュは本来の目的を思い出し、立ち上がって部屋のドアに寄った。耳を押し付けるが、物音はしない。
(フィルたちを探さなくてはならないけど……、ワイスマンがいたらどうしよう)
ファルンは大した魔術は使えないが、ワイスマンは違う。魔力のないフローシュが立ち向かうのは無謀とも言えた。
(それでもやるのよ。私のせいで誰か傷付くなんて嫌!)
彼女は意を決して廊下に出た。視界が一瞬で真っ白になった。