47、走る人
別館から漏れ聞こえる音楽は、本館の執務室にいるセレスタの耳にも届いていた。パーティーは万事順調に進んでいるようだ。
セレスタは椅子にもたれて優雅にコーヒーを啜る。あの会場で何かあったとして、これまでの疑惑や罪は全てワイスマンに押し付けるつもりでいた。自分は安全だ。近衛団長の一族という特別な地位があれば、誰も手出しは出来ない。
いっそのこと、別館を燃やして全て有耶無耶にしてしまってはどうか――セレスタの目の奥に暗い光が宿る。彼にとっては長年自分に仕えたワイスマンさえ、自身の目的を達するための駒でしかない。魔導師になれるほどの魔力も無く、戯れに二人も妊娠させた息子のファルンに至っては、完全なお荷物とすら思っていた。
その時の子供であるユーシア、もといパウラを生かしておいたのは、ガイルスの血を引く人間を出来るだけ多く残しておくためだった。子孫がいなければいずれ血は途絶えるのが宿命だ。以前は5つあった近衛団長の一族が今の3つまで減ったのも、その宿命故だった。
(ユーブレアも途絶えたようなものか)
セレスタは心の中で嘲笑した。何世代か前から先細りし続けたユーブレア家の末裔がエディトであり、彼女が子供を持たなければその血は完全に途絶えるということになる。
しかし巫女が消えた今、血にこだわる必要がないことはセレスタも分かっていた。元より巫女の命を救うための血だ。
(それこそが選ばれた一族たる所以だったはずだが……)
今後、王族を守る実力さえあれば近衛団長は誰でも構わない――という結論に彼も辿り着いていた。そうなればいずれ、一族の特権というものは揺らぐ。王族に等しい身分が取り上げられてしまえば、これまでの悪事が全て裁かれることになる。
それが心の内にある漠然とした不安の正体だと気付くと、無性に苛立ちが募った。自分が獄所台の監獄に? 冗談じゃない。彼は持っていたカップを乱暴に受け皿の上に置き、受け皿は甲高い音を立てて割れた。
それを合図にしたように部屋の扉が開く。視界に映ったその臙脂色に、セレスタは一瞬虚を突かれたような思いがした。
「……礼儀がなっていないな、エディト。私とお前の間柄でもノックくらいは必要だ」
すぐに冷静さを取り戻し、彼は椅子に座り直す。今夜は誰も通すなと使用人に言い付けていたのに、何故エディトがここにいるのか。そして何のために来たのか。彼女の一挙手一投足を注意深く観察しながら、セレスタは思考を巡らせていた。
「私がかつての部下として会いに来たのなら、それも道理なのでしょうね。セレスタ・ガイルス元団長」
エディトは規則正しい足音を響かせて彼の机に近付く。その刹那、彼女の指がサーベルの柄に掛かるのと、セレスタの魔術でシャンデリアが落下するのは同時だった。
ガラスが床で砕け散る派手な音。暗闇に包まれた部屋で、窓からの僅かな光にサーベルの刀身が煌めく。床を蹴り飛び上がったエディトが、机の天板を踏み抜く勢いでそこに着地する。
セレスタは手にしたものを素早く彼女に向ける。闇の中に小さな赤い閃光が弾け、銃声が響いた。
「しっかりしろ、フィル。こんなところで死ぬな」
カレンとフィルの姿は別館の部屋の一つにあった。普段は冷静さを崩さない上官の焦った声に、フィルは自分の状態を悟る。薄目を開けてみると、自分を見下ろすカレンの顔と天井がぼんやりと見えた。
彼の肋骨の間をすり抜けるように刺さった小さなナイフは、恐らく肺まで達していた。どれだけ息を吸っても苦しいのはそのせいだ。
「油断……していた、俺が、悪いんです……」
言葉を絞り出すと意識が飛びそうになる。まさか、あれほど大勢の人がいる中でワイスマンに刺されるとは思ってもみなかった。
フィルがワイスマンに引きずられるように広間を出るところをカレンが目撃し、急いで後を追ったのだった。彼が廊下に飛び出すと、ワイスマンが角を曲がっていくのが見えた。気配を消しながら後を追うと、彼はフィルをこの部屋に押し込めてドアを閉め、立ち去った。
「喋るな」
カレンは険しい顔でそれだけ言って、血が滲むフィルの傷口に触れた。彼も少しだけ治療の魔術が使える。しかし止血が精一杯で、傷を塞ぐことはできない。
フィルが刺された理由は彼が魔導師だと知られていたからか。否、とカレンは考える。自警団の魔導師を殺せば犯行がすぐに露見することくらい、ワイスマンも分かっているはずだ。曲がりなりにも魔術学院に在籍していたのだから。
「気をしっかり持て。外に第一隊の人間がいる。医務官も連れてきているはずだ」
理由など後回しでいい。まずはフィルの救命が先だ。彼がナシルンを呼び寄せようとしたその時だった。
ドアがゆっくりと開き、家政婦長のエコルドが顔を覗かせた。
「あの、勝手にお屋敷の部屋に入られては困――」
言い掛け、フィルに刺さったナイフに気が付いて息を呑んだ。
「緊急事態なんです。協力して頂けますか」
カレンがすかさず言ったとき、壁を抜けて飛んで来たナシルンが彼の肩に止まった。エコルドは目を見開いた。
「それ、魔導師の方が使う鳥……」
フィルの唇は紫色になっていた。エコルドに詳細を説明している暇はない。
「今から私が呼ぶ医務官を、出来るだけ自然に、玄関からこの部屋へ連れてくることは出来ますか?」
カレンの問いにエコルドは頷いた。普段セレスタに仕えているだけあって、状況の飲み込みは早い。
「はい。すぐに来られるのですね? 玄関でお待ちしています」
「それと、このことはまだガイルス家の方々には黙っていて頂けますか。詳細は後で話します、ミセス・エコルド」
「なぜ私の名を……」
「あなたが以前、デマン家にいたことは存じ上げています。そしてこの少年はフローシュお嬢様の従者です」
エコルドはカレンの言葉に唇を結ぶと、小さく頷いて部屋を出ていった。彼女はものの数分で医務官を伴って戻ってきた。医務官は、ルカだ。
「大ピンチだな」
彼はすぐさまフィルに駆け寄り、傷口を観察した。
「少し痛いぞ。頑張れ」
そう言うと、傷口に指を添えながらゆっくりとナイフを引き抜いていく。フィルが低く呻き、エコルドは両手を組んでそれを見守っていた。
「よし。傷は塞いだが、肺が完全に治るまでは安静にしないとだめだ」
「でもお嬢様が――」
「お静かに!」
ドアに耳を当てたエコルドが切羽詰まった声を出した。その場にいた全員がすぐさま沈黙する。誰かの足音が近付いてくる。走っているのか、それはすぐに部屋の前を通り抜けていった。
「……裸足だったな」
カレンが呟く。音でそう判断したらしい。
「走っている割に歩幅が小さい。女性で、しかも普段走り慣れていない人間だ」
フィルははっとした。靴を脱がなければ走れず、そして普段走らないような人物。思い浮かぶのは彼女しかいない。
「きっとお嬢様です。追って下さい!」