46、消えた姿
魔術がなければ点灯するだけで一苦労、と思わせるような大きなシャンデリアが、ガイルス家別館の広間を豪華絢爛に照らしていた。
色とりどりに着飾った女性たちのドレス、あちこちで交わされる乾杯のグラス、テーブル上に並ぶ食事の銀の器。そのきらびやかな光の中に、妖しいものが混じっている。
招待客の男たちの目だ。このパーティーの趣旨を理解している彼らは、思い思いに手を付けられそうな相手を物色しているらしい。
(お嬢様が言っていたより質が悪いかもしれないな……)
フィルは端の方で広間全体を眺めながら、その空気にも、他の招待客が連れてきた従者と自分とを比較する周囲の視線にも辟易していた。主人のアクセサリーという立場だから仕方ないとはいえ、やはり気分の良いものではない。
「ねえ、あちらをご覧になって。あの綺麗な女性の方」
フローシュが前方を見つめ、ほとんど口元を動かさずフィルに囁いた。少し離れた場所に他の客と談笑する若い女性がいる。焦げ茶色の髪をアップに纏め、淡い水色のドレスが良く似合う凛とした雰囲気の女性だ。
「レクール家の方よね? 何度かお顔は拝見しているわ」
「ええ。現役の近衛団員、ウィラ・レクールさんです」
フィルは小声で答える。
「やっぱり。家柄を知っているから、みんなお近付きになりたいのよ。彼女を盗み見ているもの」
フローシュの言う通り、男性たちの視線は時折ウィラに向いていた。綺麗に着飾っておしとやかに微笑む今の彼女からは、近衛団の制服を着てサーベルを振るう勇壮な姿など想像も付かないのだろう。知っているなら、あんな下心を剥き出した視線は向けられないはずだ。
「僕も気になる女性に声を掛けていいんだろう? 招待されているんだから。是非ともダンスのお相手を願いたい」
一緒に来ていたアルノが目を輝かせてカレンに尋ねた。そこに下心は感じられない。彼は良くも悪くも無邪気なだけで、二階にある客室の存在などは知りもしないのだ。
「どなたか気になる方がおられましたか、アルノお坊ちゃん」
カレンが問うと、アルノはすぐにウィラの方へ顔を向けた。
「彼女だ。あの水色のドレスの」
言うが早いか、彼は人の合間を縫ってウィラの元へ向かって行った。
「まったく……」
カレンが呆れたように後を追い、フローシュがふっと笑いを漏らした。
「アルノは困った方だけど、本当に素直なのよ。悪く思わないで下さる? あなた方のお邪魔はしないはず。……ああ、いらっしゃったみたい」
表情を険しくし、フローシュは広間の奥に顔を向けた。招待客たちも全員そちらに注目している。執事のワイスマンを伴った、燕尾服姿のファルンが入ってきたところだった。
「皆さん、本日は各地よりこの屋敷へお越し頂き、嬉しく思います。ぜひ大いに楽しんで下さい。はしゃぎ過ぎてご気分が優れなければ、お休みになれるお部屋もご用意しておりますので……」
ファルンが冗談めかして言うと、招待客の間に小さな笑いと拍手が起こった。何人かは目配せし合い、嫌な笑みを浮かべる。その部屋が何のための部屋か知っているのだ。フィルは表情を変えないまま、下衆野郎どもが、と心の中で汚く罵った。フローシュも微笑みながら拍手しているが、内心は似たようなものだろう。
ファルンは近くの客といくつか言葉を交わした後、真っ直ぐにフローシュの方へと歩いてきた。ワイスマンは他の客の給仕をしているようだ。
フィルは一歩下がり、ファルンとは視線を合わせないようにする。従者としての礼儀でもあるが、余計な注意を引かないようにするためでもある。案の定彼は、フィルには目もくれなかった。
「よく来てくれたね、フローシュ。約束は忘れていないだろう?」
ファルンは優しくそう言って、フローシュに手を差し出す。皆の前で一曲踊るという約束だ。
「もちろんです。ファルン様に恥をかかせないように、練習してきたのよ」
フローシュは彼の手を取り、二人は広間の中央へと移動した。全員の視線が彼らに注がれる中、楽団が優雅なワルツを奏で始める。ファルンは手慣れた所作でフローシュをリードしながら、ゆっくりとステップを踏んだ。
「君にはもっと、淡い色が似合うと思っていたけど」
視線をちらりと彼女のドレスに遣って、ファルンはそう言った。紺色に銀糸の刺繍……に何を想像したかは、表情からは読み取れない。
「そうね。本当は違うドレスに決めていたのだけれど、直前に裾を踏んで破いてしまって。お気に召さないかしら?」
フローシュは平然と嘘を言ってのけた。
「いや、似合っているよ。君が何を着ていようと、私の可愛い婚約者であることには変わりないしね。……ところで、今日はあの優秀な執事は連れていないんだね?」
「ミスター・レンダーはお父様の執事だもの。忙しいですから」
何を白々しいことを、と思いながらフローシュは答えた。レンダーの命を狙ったのは他でもないファルンではないか。よく名前を出せるものだ。これ以上話していると、さすがのフローシュも感情が顔に出るかもしれなかった。
「話しながらでは息が切れてしまいそう。ダンスに集中してもよろしくって?」
「そうだね。それは失礼」
それから二人は淡々とダンスを終え、客からの拍手に笑顔で応えた。フローシュは視線だけでフィルの姿を探す。彼が見ていてくれるなら、とりあえずは安全だ。
しかし、フィルはいなかった。さっきまでいたはずの場所から忽然と消えている。広間のどこを見ても、濃緑色の衣装を着た彼の姿は見当たらなかった。
(どうして……?)
それじゃあカレンは、と彼の姿を探す。思わず顔を動かして周囲を見るが、見付からない。二人とも必ず目の届く範囲にいると言っていたはずだった。ダンスの間に何かがあったのは確実だ。フローシュは徐々に血の気が引いていくのを感じた。
「どうかしたかい?」
ファルンが心配そうに顔を覗き込む。それが演技なのか本心なのか、混乱するフローシュには分からない。
「いえ、ダンスは久しぶりだから、他の方にどう見えたのか気になってしまって。大丈夫です」
「緊張しただろう? 少し休んだらどうかな。部屋は用意してあるよ」
微笑んだファルンの手がフローシュの肩に掛かる。折しも、招待客たちがぞろぞろと広間の中央に集まってダンスを始めていた。流れる音楽と喧騒が耳を塞ぎ、視界が人で埋まっていく。
(焦っては駄目。自分で闘うと決めたんだから……)
フローシュは必死で考える。この広間の中にファルンの手の者が何人いるのか。使用人は全てそうだと考えると、少なくとも10人はいる。ワイスマンの姿はない。
「……そうね。お言葉に甘えて、休ませてもらおうかしら」
フィルとカレンが理由もなく姿を消すはずがない。ファルン、いや、ワイスマンが何かしたに違いないのだ。どうにかして二人を探さなければならないと思った。自分のせいで誰かが傷付くのは、もう嫌だった。
広間を出た瞬間に逃げる? それとも、二階へ上がった方がいいのか。玄関からこの広間へ至るまでの間に、フローシュの頭の中には大まかな図面が完成していた。迷路にでもなっていない限り、迷う心配はない。
(大丈夫、私なら出来る)
フローシュが腕にしなだれかかると、ファルンは満足そうに微笑み、彼女を連れて広間を出ていった。