41、尊敬する魔導師
キペルの中央4区、美味しそうな匂いを漂わせる昼刻の商店街に、バスケットを手に歩くフリムの姿があった。今はいつものターバンを外し、髪は一本の三つ編みにして横に垂らしている。
(普段の格好で訪ねるのは失礼かと思ったんだけど、変かな)
彼女は通りがかったパン屋のガラスに自分を映し、それとなく身形を確認した。普段の作業着とあまり変わらない紺色のワンピースに、小豆色の外套。リスカスの一般的な20代にしては少々地味だ。
(汚れてなければ大丈夫だよね。えーと、11の7……)
メモに書かれた住所を見ながら、フリムは花屋の横の道に入り、先へと進んだ。左手奥に見える青い屋根の一軒家がラシュカの住む家だ。小さいながら正面に庭も付いているが、残念ながら手入れはされておらず、好き勝手に雑草が伸びていた。
フリムは玄関先に立ち、ちらりと側の窓を覗く。カーテンが引かれていて、中の様子は分からない。
(まだこんなに日が高いのに、閉め切っているなんて……)
太陽すら浴びたくないほど、落ち込んでいるのだろうか。フリムは躊躇いながら、ドアの横にある呼び鈴を鳴らした。
「メイさん、いらっしゃいますか? フリム・ミードです」
なんとか出てきて欲しいという願望を込めて、フリムは呼び掛ける。数秒後、微かに物音がしてドアが開いた。
「フリム……?」
ゆっくりと顔を覗かせたラシュカは、外の眩しさに目を細めながらそう言った。いつもオールバックに撫で付けてあった彼の髪はぼさぼさで、無精髭も伸びている。見るからに憔悴していることが分かる容姿だった。
「あなたがどうしてここへ?」
力のない声で彼は尋ねる。フリムは手にしたバスケットをぎゅっと抱き締め、涙が滲みそうになるのを堪えた。
「心配だからですよ。それ以外の理由なんてありません」
「……俺は情けないな。あなたまで心配させるなんて」
「情けなくありません! 辛いときに落ち込んで何が悪いんですか。心配は周りが勝手にするんです。気にせず任せておけばいいんですっ!」
そう熱弁するフリムに面食らいつつも、ラシュカは固くなっていた表情をふと和らげた。
「……寒いから、中へ」
家の中では暖炉の火が燃え、暖かく部屋の中を照らしていた。掃除の手がきちんと行き届いて、どこにも散らかった様子はない。想像していたような暗く荒れ果てた部屋ではなかったので、フリムはどこかほっとしていた。
「お邪魔します」
彼女は中へ入り、ドアを閉めた。通りの喧騒や側の木でさえずる鳥の声が聞こえなくなり、ぱちぱちと火の爆ぜる音だけが響く。とても静かで、落ち着く空間だ。こぢんまりとした居間にはテーブルと二脚の椅子があり、壁には額に入った写真が大切に飾られていた。
「どうぞ、そこに。お茶でも淹れよう」
ラシュカは部屋のランプを点けてからテーブルの席を示し、自分は台所へと消えた。何とか日々の生活を送れている、とフリムは聞いていたが、思ったよりもしっかりしているようだ。それとも、人の前ではそのように見せているのだろうか。
かちゃりと食器の鳴る音を聞きながら、フリムは壁に寄って写真を眺めた。全て、オーサンとラシュカが一緒に写っている記念写真だ。誕生日の度に撮ったのだろうか、オーサンが少しずつ大きくなっているのが分かる。幼い満面の笑顔、反抗期で少し不貞腐れた顔、そして自警団の制服を着て誇らしげな顔。
きっとこの先も、写真は増えていくはずだった。毎年ではなくても、成人した時、昇進した時、結婚した時……。大切な息子の全てを、ラシュカは記録に残しておくつもりだったに違いない。
自分の作った勲章が物言わぬオーサンの胸に光っているのを見て、彼は何を思ったのか――フリムはその胸の痛みに耐え切れず、静かに涙を流した。
「その写真、撮る直前まではぐちぐちと文句を言っていても、撮ってみたらいい笑顔なんだ」
ラシュカは紅茶のカップをテーブルに置いて、微かに震えているフリムの背に声を掛けた。
「『絶対他の人に見せるなよ』なんて、恥ずかしがっていた。素直じゃないところも可愛くて、……またあなたに、息子の自慢をしてしまったな」
「いくらでも聞きます。聞かせて下さい」
フリムは頬を拭い、振り向いた。そしてラシュカの頬にも光るものを見た。
「メイさん……」
「大丈夫。あの子のために泣いてくれる人がいると思うと、自然に涙が出てくるんだ」
ラシュカはフリムの隣に立って、壁の写真を見つめた。
「あなたの作ってくれた勲章は、実に見事だった。あの子もきっと誇らしく思っているよ」
「私、あれが職人として初めて作った勲章だったんです……」
小さくしゃくり上げながら、フリムはそう言った。
「そうか。辛かっただろうな……、受け取る人間はもう棺の中なんだから」
そう話すラシュカの横顔は、言葉に反して穏やかだった。それから彼はフリムに顔を向け、こう続けた。
「それでもあなたは、誠心誠意作ってくれた。あの出来映えを見れば分かる。俺も嬉しかったよ。ありがとう、フリム」
「お礼なんて……、私は私に出来ることを……」
フリムは口元を押さえると、顔を歪めてぽろぽろと大粒の涙を溢した。
「ごめんなさい……っ、泣くつもりで来たんじゃないのに」
「気にしなくていい。俺は周りが思っているより、強い人間だから」
ラシュカはすっと手を伸ばし、子供を可愛がるみたいにフリムの頭を撫でて笑った。
「まだ子供みたいなものなんだから、大人の心配なんかしなくて大丈夫だ」
「私、もう24歳です……」
「オーサンと6つしか違わない。俺にとっては子供だよ」
からかうように言いつつも、ラシュカは手を離した。年頃の女性に対して流石に失礼だと思ったのだろう。フリムは何度かしゃくり上げてから、ずっと腕に抱えていたバスケットに目を落とす。
「あ、そうだ、これ……」
「ん?」
「マシュー・ベーカリーのパンです。私のおすすめなんですけど、すごく美味しいんですよ。匂いだけで幸せになれます。メイさん、お腹空いてませんか?」
眉間に皺を寄せた泣き顔でそんなことを言う彼女を見て、ラシュカはおかしくなった。表情と台詞があべこべだ。
「そうだな。しばらく食欲も無かったが、たった今腹が減った」
自然と彼から笑みが溢れた。予想外の訪問者が運んで来たのは、どうやら食べ物だけではなかったようだ。
穏やかな一時を過ごしながら、二人は他愛のない会話を交わした。当然のようにオーサンの話もして、その度にどちらかが涙ぐみつつ、時間は刻々と過ぎていった。
「もう日が落ち始めたな。冬は日の入りが早い」
ラシュカはカーテンの隙間から外を覗いて言った。
「あの、メイさん。日中でもカーテンは開けないんですか?」
フリムが思い切って尋ねると、ラシュカは首を横に振った。
「どこから情報が漏れたんだか、ゴシップ紙の記者が中を覗く時がある。朝でも晩でも呼び鈴は鳴るし。殉職した魔導師の父親のインタヴュー、とやらでも載せたいんだろうな」
「そんな。こんな時にひどいです」
フリムは憤慨するが、ラシュカは諦めた笑いを漏らして椅子に腰掛けた。
「下衆な記者にとってはいつものことだ。非日常の出来事も、劇的な人の死も格好のネタになる。渦中にいない人間は退屈しているんだから。昨日、近衛団の仲間が記者を追い払ってくれたみたいだが、一時しのぎだろう」
「でも、いつまで続くんでしょう?」
「奴らもすぐに飽きるさ。それに、俺もそんなに長い間ここにいるつもりはない。オーサンが魔術学院に入ってからはずっと、近衛団本部の隊舎で寝泊まりしてたんだ。記者も流石にそこまでは入れないだろう」
「ここは、ほとんど留守にしているお家ということですか?」
「そうだな。引き払っても特に問題なかったが、オーサンの帰る場所は用意しておきたくて。それに、思い出も沢山ある」
それを聞いて、フリムはまた涙ぐんだ。
「素敵なお父さんです。息子さん、幸せに違いありません……」
血の繋がらない我が子に限りない愛情を注げる人間を、フリムはよく知っている。彼女の育ての両親だ。そしてラシュカもまた、そんな人であることは間違いなかった。
「そうだといいな。それ以上に、俺もあの子に幸せを貰ったし」
ラシュカは清々しい笑顔を見せ、立ち上がった。
「あなたが来てくれて良かったよ、フリム。暗い中を帰るのは危険だから、家まで送ろう」
「え、でも」
「ああ、この格好ではな。ちょっと待っててくれ」
ラシュカは奥に引っ込み、しばらくして戻ってきた。髭は綺麗に剃られ、ぼさぼさだった髪もいつものように撫で付けてある。それだけでずいぶん、憔悴した雰囲気が薄まっていた。
「あ、いつものメイさんですね」
フリムはほっとして、思わず微笑んだ。
「身だしなみは大切だと、今更思った。だらしなくしていると心まで荒むみたいだ。明日からはちゃんとするよ。さ、行こうか」
ラシュカはラックに掛けてあったフリムの外套を取ると、それをすっと彼女の肩に掛ける。紳士だなと思いながら、フリムは彼が自分の顔をじっと見ていることに気が付いた。
「どうしました?」
「やっと思い出した」
彼の言葉に、フリムは首を傾げる。
「え?」
「あなたの顔が誰かに似ていると、ずっと思っていたんだ。特にその大きな目とか」
「誰でしょう……?」
少しどきどきしながら尋ねる。もしかして、と思った。
「自警団の医長、レナ・クィンだ。知っているか? 青い髪の――」
「もちろん知っています」
フリムは少し食い気味に言った。嬉しさでにやけ顔になっていないか心配になる。他の誰かにレナと似ていると言われたのは、これが初めてだった。
レナを知らないはずはない。初めて目にした時から、フリムはずっと彼女を追っていたのだ。共に過ごせなくとも、その愛情を感じた母親。そして。
「私の、一番尊敬する魔導師ですから」