18、反魔力同盟
「でも、魔術で人を傷付けることは出来ないんじゃ? 秩序があるから」
ルースが疑問を口にすると、ベイジルは首を横に振った。
「確かにそうなんだけど、それはあくまで直接傷付けることが出来ないってだけだ。攻撃は出来ないと言った方が正しい。間接的にはいくらでも利用出来るんだ。君だってさっき、魔術で身動きを取れなくされただろう。あの隊員、本当に君を傷付けるつもりがなかったと思うかい?」
あの恐怖を思い出して、ルースは背筋がぞわりとした。
「……いいえ」
「そうだろう。知っておいた方が身のためだ」
もう一度カップに口を付け、深く息を吐くと、ベイジルは穏やかな表情に戻った。
「ごめん、怖がらせるために連れてきたんじゃないんだ。さ、飲んで。今日のことは忘れて、明日からまた頑張るといい」
「でも……」
ルースは口ごもった。本部に帰ればあの先輩がいるのだ。またいつ襲われるか分からない。
「あの先輩のことが心配かい? 大丈夫だ。君の所の隊長に報告はしておいた」
「え、いつの間に」
「近衛団ともなればナシルンの扱いもお手の物さ。自慢じゃないけどね」
「黙っておいて欲しかったです……」
隊長のイーラは怒らせると非常に怖いのだ。あんなことを知れば、ルースの不用心さに雷を落とすかもしれない。
「君は悪くないんだから、気にすることはないよ。魔術を悪用したあの先輩が悪い。もう自警団にはいられないだろうね。自業自得だ」
あっさり言い捨てるベイジルに面食らいつつ、ルースはちびちびとハニー・シュープスを啜った。そして、不思議に思った。
ガベリアの田舎から出てきて3年、こんなところで近衛団員と飲んでいるとは。良く考えると凄いことだった。近衛団は魔導師の中でも精鋭が集まるところなのだ。
ベイジルとは一体どんな人物なのか。少し興味が湧いてきた。
「あの……お子さんがいるんですか?」
「ん? そうだよ。口が達者で生意気な男の子なんだけど、可愛くてね。親馬鹿かな」
微笑むその横顔はとても優しげだった。
「最近、魔導師になるって言い出して聞かないんだ。僕は絶対に嫌だから、何度も諭してはいるんだけどねぇ……」
「僕も父には大反対されました。危険だし、時には命も懸けなければならない。わざわざそんな仕事に就かなくても、魔力を活かせる仕事はあるだろうって」
「君のお父さんの気持ち、良く分かるな。本当に魔導師は危険な仕事だと思う。何たって犯罪者を相手にするんだから。ルース、ガベリアの監獄を見学したことは?」
ガベリアの奥地にはこの国唯一の監獄がある。収容されている半数以上は殺人などの重罪人で、500人の定員も今はほぼ満杯状態だ。
「はい。学院の、2年生のときに」
「率直に、どう思った?」
ルースは少し考え込んでから、こう答えた。
「魔導師を殺して終身刑になっている人達の話を聞いて、ぞっとしたのを覚えています。あの……」
彼は声を落としてちらりと周囲を見る。ベイジルは構わず言葉を継いだ。
「『反魔力同盟』だろう。魔力を持つ者と持たざる者が共存する、リスカスの構造自体を否定する革命家集団だ」
「彼らは、何年か前に全員捕まったんですよね?」
「いや。身を潜め、息を殺している仲間は必ずいるはずだ。ただ、魔導師の尋問にも耐える奴等だから。残党が何処にいるのか聞き出すのは難しいだろう」
尋問と聞いてルースは身震いした。ついこの間、訓練の一環で体験したばかりだった。あれに耐えるなど並みの精神では無理だ。
「反魔力同盟の監視も我々近衛団や自警団の仕事だ。今後、奴等が何をするかは分からない。犠牲者を増やさないためにも僕は職務に殉じる覚悟でいるよ。……なんて言ってもね。息子と妻を遺して死ぬのは怖い」
ベイジルはカウンターの上で指を組むと、そこからしばらく視線を落として黙り込んでいた。
彼の葛藤を考えると、ルースは安易に声を掛けられなかった。魔導師は人々を守る尊い仕事とはいえ、彼らにもまた家族がいるのだ。自分だって悲しむ両親の顔を考えたら、魔導師としての覚悟が揺らぐ。
「……もしもの話だけど」
ベイジルが顔を上げてルースを見た。
「10年後に僕の息子が魔導師になって、君の後輩になることがあったら、そのときはよろしく頼むよ」
そう言って微笑んだ。
「頑固な子だから、誰が止めようと絶対に魔導師になると思う。ただ、真っ直ぐすぎて周りに敵を作るのが目に見えてるから、心配なんだ。君みたいな先輩がいてくれたら少し安心だよ」
「僕なんかが、そんな。不用心で襲われるような人間ですよ」
「いや。君にはちゃんと信念がある。目を見れば分かるさ」
真っ直ぐに見つめられ、ルースは照れくさそうに俯いた。
「僕はただの田舎者です」
「僕だって同じだ。スタミシアの田舎出身だもの。学生時代だってそんなに成績は良くない。それでも自警団の中でしごかれて、近衛団に入れるまでになったんだから、全ては経験だよ」
この店には少々不釣り合いな古い柱時計が、夜11時の鐘を打った。ベイジルはちらりと時計を見て、ハニー・シュープスを一気に飲み干す。
「長々と話してすまなかったね。僕はそろそろ行かないと。あ、ここは奢りだから」
ポケットからいくつかコインを出し、カウンターに置く。マスターがやってきて声を掛けた。
「帰るのか?」
「ええ、仕事がありますから。この子はもう少しだけ。じゃあ、ルース。またどこかで」
席を立ったベイジルに、ルースは慌てて言った。
「あの、助けていただいて本当にありがとうございました」
「当然のことをしただけだから。君の幸運を祈っているよ。息子のこと、頼むね」
ルースが頷くと、ベイジルは微笑み、片手を上げて去っていった。
「……あの」
その背中を見送ってから、ルースはふとマスターに尋ねた。
「ベイジルさんのお子さんの名前って、分かりますか?」
「ああ、えーと……カイだよ、カイ。一度写真を見せて貰ったことがあるが、ありゃ誰が見ても親子って感じだ」
「カイ、ですか」
忘れないようにしよう、とルースは頭の中でその名を繰り返す。もし本当に彼が自警団に入ったとしたら、自分が助けられた分、助けてあげようと誓った。
月日は流れ、3ヶ月ほど経った。ルースはあれから一度もベイジルと顔を合わせることはなかった。バルに行ってマスターに尋ねても、最近はずっと顔を出していないらしい。
「忙しいって言ってたぜ。もしベイジルがここへ来たら、あんたが来たことは伝えておくよ」
そして日射しが熱を帯び夏が近付いた頃、その事件は起きた。
7月15日、キペルの広場では国王の誕生記念祝典が催されていた。王族が国民の前に出るとあって、近衛団が厳重に彼らの警備を担当していた。
鮮やかな昼日中の花火と、歓声に包まれる広場。そして一発の銃声。凶弾は王族ではなく、一人の魔導師の頭を貫いていた。
彼の死は殉職として、国葬がしめやかに営まれた。ベイジル・ロートリアン、31歳。会葬者もまばらになった頃、一人の女性が祭壇の前に置かれた棺に取り縋り、嗚咽を漏らしていた。彼の妻、パトリーだ。
彼女はやがて気を失ったように崩れ落ち、数人に抱えられてその場を去った。そして棺の側に、一人の少年が取り残された。
少年の幼い顔は、まだ現実を受け止めていないようにも見えた。悲しい顔をするわけでも、泣くでもなく、ただ呆然とそこに立っている。
「君が、カイだね」
側へ来て声を掛けたのは、黒い短髪の男性だった。眼鏡を掛け、自警団の制服を着ている。若き日のロットだった。彼はほんの一年前まで、ベイジルと同じ近衛団員だったのだ。
カイは僅かに頷いた。それから、ちらりと棺に目を遣る。小柄な彼にとって、台の上に置かれた棺の中を覗くのは困難だった。
「まだ、顔を見ていない?」
ロットが問うと、カイはもう一度頷く。
「見ない方がいいって、みんなが言うんだ」
カイはそう呟いた。
「僕の父さんなのに」
「……お別れを言わないままでいいのかい?」
カイは少し考え込み、首を横に振った。
「それは嫌だ」
「そうか。少し待っていなさい」
ロットは隅の方へ行き、椅子を一脚持って戻ってくる。それを棺の横に置き、こう言った。
「ここに乗って。ベイジルに君の顔を良く見せてあげるといい」
カイは椅子に膝立ちになり、恐る恐る棺の中を覗いた。
綺麗な花に埋もれたベイジルの顔は、ただ眠っているだけに見えるほど穏やかだった。弾丸が貫いた額の穴も、今は魔術で修復されている。胸元に揃えられた両手には、鞘に納められた近衛団のサーベルが握られていた。
途端にカイの表情が歪んだ。唇が震え、瞳から大粒の雫が落ちていく。物言わぬ父親の顔を見て初めて、現実を受け止めたのだ。
「父さん……」
カイはベイジルの頬に手を添える。指先に触れた冷たさが、彼がもう二度と目を覚まさないことを伝えていた。
張り詰めた糸が切れたように、カイは声を上げて泣いた。そして自分の背中をさするロットにしがみつき、肩を震わせた。
まだ甘えたい年頃の子供には、殉職という言葉では癒されることのない、辛すぎる現実だったのだ。
その様子を、ルースは陰から見ていた。唇を噛んだ彼の頬にも、涙が幾筋か光っていた。