37、心の支え
太陽が真上に輝く昼日中、カイの姿は本部の訓練室にあった。全体が石造りになっている頑丈な部屋の床には、点々と血が滴っている。
「もう一度!」
カイは刀身が真っ二つに折れたサーベルを投げ捨て、新しいものを手に取る。体力も限界に近い彼の息は絶え絶えで、顔や腕には痛々しい切り傷がいくつも出来ていた。
「今日はここまでにしろ、カイ。焦ってどうにかなるものでもないだろ?」
困った表情でサーベルを鞘に納めたのは、エーゼルだった。今朝がた目を覚ましたカイに頼まれ、剣術の訓練に付き合っていたのだ。何度か剣を交えることが可能になったとはいえ、刀身が折れるのはまだまだ魔力が弱い証拠だった。
「動きは悪くないが、魔力が足りなければどうしようもない。医務室に行け。ルース副隊長だってこれ以上は許可しないぞ」
「ファルンのパーティーまで、あと3日しかないんです!」
カイは燃えるような目でエーゼルを睨んだ。
「それまでには魔力を取り戻してみせます。ぎりぎりまで追い込まれれば、戻る気がするんです。お願いします。手加減せずにやって下さい」
「俺に、これ以上追い込めっていうのか?」
エーゼルは眉間に皺を寄せる。カイの魔力が戻って欲しいのは山々だが、目の前でぼろぼろになっている彼を追い込むことなど出来なかった。そうすれば魔力が戻るという確証があるわけでもないのだ。
「僕が代わる」
その声に、二人は振り返った。扉の前に立っていたのはルースだ。彼は壁際に置いてあったベイジルのサーベルを手にすると、カイに歩み寄ってそれを突き出した。
「本気ならこっちを使え。訓練用だから、折れてもいいなんて甘えが出るんだろう」
ルースの目はいつになく真剣だった。
「僕は一切、手加減はしない。お前の手足を切り落とすつもりでやる」
「はい」
少しも動じないカイの横で、エーゼルが青ざめた。その言葉がただの脅しではないことが分かるからだ。
「副隊長――」
「ここにミネを呼んできてくれ」
ルースは視線をカイに向けたまま、エーゼルの言葉を遮った。
「……分かりました」
言葉でも実力でも、恐らく彼を止めることは出来ない。流血沙汰は決定的で、医務官がいなければ大惨事になる。エーゼルは急いで部屋を飛び出した。
カイは訓練用のサーベルを床に置き、ルースから父の形見を受け取った。微かに震える手でそれを鞘から抜き放つと、磨きあげられた刀身が、ランプの明かりに冷たく煌めいた。
「……僕もあの日、それがベイジルさんの棺に納められているのを見た。お前にとってどれだけ大切なものかは理解しているつもりだ」
カイの視線を受け止めながら、ルースは静かに言った。あの葬儀の日、彼は棺の中で眠るベイジルも、側で涙を流す幼いカイも見た。
あれから9年、目の前にいる少年の目には揺るぎない覚悟が光っている。一人前の魔導師としてそこに立っている。ルースが情を捨てて本気で向き合うには、それで十分だった。
「大丈夫です。絶対に折らせません」
「分かった」
ルースはカイから距離を取り、すっと自分のサーベルを抜いた。柄を握る右手を前方に伸ばし、サーベルを目線の高さに構える。顔に向いた切っ先が頬に触れないよう、左の指を刀身の峰に添える。
かつて、彼がカイに教えた独特な構え方だった。初動はやや遅れるが、その分サーベルにかかる魔術の質は高くなる。
「本気なんだろ?」
獲物を狙う猛禽類のような目が、じっとカイを捉えた。その目に殺意の片鱗を感じ、カイの額には知らず知らず汗が滲んだ。
(このまま……魔導師として誰も守れないまま、終わってたまるか!)
カイも彼と同じようにサーベルを構えた。ここで負ければ体ごと真っ二つだ。柄を握る右手に力が籠り、汗が一つ、顎先から滴る。それが床に弾けるよりも先に、彼は地面を蹴った。
エーゼルに連れられて訓練室に飛び込んだミネは、その光景に思わず小さな悲鳴を上げた。
壁際に追い詰められたカイに、ルースがサーベルを振り下ろすところだったのだ。間一髪でカイは身を翻し、狙いを逸れた切っ先が石造りの壁を抉った。
「え……」
ミネもエーゼルも目を見開いた。いくら魔術で切れ味を調整出来るといっても、魔導師のサーベルで石が抉れるなどそうそう無い。そこにルースの殺意を感じ、二人はぞっとした。
だが、カイも負けてはいなかった。体勢を立て直し、次の斬撃を受け止める。二人の剣が甲高い金属音を立て、火花を散らす。
「折れてない……!」
エーゼルが呟いた。カイのサーベルは、鍔競り合いになってもヒビすら入っていない。それが、魔力が戻ったという何よりの証拠だった。
「副隊長、もう戻っ――」
ルースの一瞥で、エーゼルの言葉が途切れた。それ以上は口が動かないどころか、体も動かせないようだ。ミネも同じように、何も言えずその場に立ち尽くしている。二人ともルースの魔術で動きを止められていた。
「邪魔しないでくれ。中途半端では駄目なんだっ」
ルースはサーベルに力を加える。既に息の上がったカイはそれを押し返すことが出来ない。指先の痺れが限界に来て、柄を握る手が緩んだ。
その隙を突いて、ルースはカイのサーベルを払い落とした。
(まずい……!)
丸腰になったカイはルースに胸倉を掴まれ、そのまま床に叩き付けられる。少しの抵抗も出来なかった。
「うっ……」
うつ伏せに倒れ込んだカイの背中を、ルースが容赦なく踏みつけた。
「手足を切り落とすつもり、と言ったはずだ」
彼はサーベルの切っ先をカイの肩口に当てる。冷たい声音と皮膚に走る鋭い痛みで、カイは恐怖心が背中を駆け上がってくるのを感じた。
――いくら魔術で元に戻せるって言ってもね、欠損した部分が余りにも多いと、無理なんだよ。腕一本とか……。
かつてクロエに聞いた言葉が頭に浮かぶ。ルースも、肩から腕を切り落とせば元に戻せないことは知っているはずだ。知った上で、本気でやろうとしている。
ドクドクと耳元で音が聞こえる程、カイの心臓は激しく鼓動していた。嫌だ、怖いという言葉が頭の中を駆け巡る。
「いいのか、このままで」
冷徹な声がカイの頭上から振ってくる。サーベルが更に深く、肩に食い込むのを感じる。エイロンと対峙した時ですら感じなかった恐怖に、カイの体は震えた。何故これほど怖いのか、自分でも分からなかった。
傷口が熱い。肩の下に、じわりと温かいものが広がっていくのが分かる。痛い、嫌だ、助けてくれ――。パニックになりかけたカイの頭に、不意にセルマの姿が浮かんだ。
――あなたがいなかったら、私はここまで来られなかった。ありがとう、カイ。行ってくるよ。
ガベリアが甦ったあの日、最後に見た彼女の顔は笑顔だった。その先へ行けば、自分が消えると分かっていたはずなのに。
(あの時のセルマの恐怖心に比べたら……、俺は甘ったれだ)
その瞬間、体の震えが止まった。
「……やめろっ!」
カイが叫んだのと同時に、肩に食い込んでいたサーベルが弾け飛ぶ。そして、ルースは何かに突き飛ばされたように後ろへ倒れ込んだ。
「カイ! ルース!」
魔術の解けたミネとエーゼルは、急いで二人に駆け寄った。カイは小さく呻き、ルースはエーゼルに支えられながらふらふらと上体を起こした。
「ミネ、カイを……」
「うん、分かってる」
ミネはすぐにカイの肩に触れる。思いの外、傷は深いようだ。状態を確認する彼女の顔が徐々に険しくなっていく。
「……骨までいってる。魔術で治せるからってやりすぎだよ、ルース。魔術で尋問みたいなこともしてたでしょう」
非難めいた口調で言いながら、ミネは手早く治療をする。傷口の痛みがすっと引いていくのを感じながら、そうか、とカイは納得した。あの異様な恐怖心は、ルースの魔術によるものだったのだ。手加減しないと宣言した通り、徹底的に追い込むつもりだったらしい。
ルースは無言で目を伏せる。代わりに、カイが体を起こしてこう言った。
「副隊長は間違っていません。おかげで魔力、完全に戻りました。むしろ前より強くなったかもしれない」
カイは手の平を上に向け、そこに青白く発光する蝶を出現させた。手順を省いた追跡の魔術だ。今まで使えなかった魔術を平然と使う彼に、エーゼルが目を見開いていた。
「お前、それ、俺でもまだ出来ないのに……」
彼が呟き、その場にいた全員が吹き出した。張り詰めていた空気が一気に和らいだ。
「追跡の魔術に関しては、エーゼルはもっと訓練が必要だね。ユフィさんの居場所が分からないと困るだろうし」
ルースがくすりと笑った。エーゼルはユフィの名前を出されたことよりも、ルースに茶化されたことに驚愕し、口を半分開けたまま固まっていた。彼にとっては今までに経験が無いことだ。
「え、ユフィさんのこと気になってるんですか?」
無遠慮にカイが尋ねる。エーゼルは途端に耳まで赤くし、立ち上がった。
「俺たちが巻き込んだから、心配してるだけだ!」
ほとんど叫ぶように言って、訓練室を飛び出して行った。
「あなたたち……」
その背中を見送りながら、ミネがため息混じりに言った。
「純粋でプライドの高い人をからかうのは、駄目だよ。可哀想に」
「からかってはいないんだけどね。すぐ側に心の支えになる人がいるのは、悪いことじゃない」
ルースは真顔でそう言った。それを聞いて、カイは考える。心の支えと聞いて思い浮かぶのは、セルマやオーサン、ベイジルだ。だが彼らは皆、既にこの世にはいない。
(俺の側にいる心の支えって、誰なんだろう……)