35、別の誰か
「失礼致します、ご主人様」
夜も深まる時刻、セレスタの執務室に執事のワイスマンがするりと入ってきた。物音も立てずに近付いてくるその様子は、いつ見ても不気味だとセレスタは思う。彼を執事として雇ってから19年、その悪どい手腕には信頼を置いていたが、気を許したことは一度もない。
セレスタはもたれていたソファから頭を持ち上げ、ワイスマンに粘っこい視線をくれた。
「ファルンのパーティーの話なら聞き飽きたぞ。勝手にやらせておけばいい」
「重ね重ね申し訳ありませんが、そのことで……。私の懸念をお伝えした方がよろしいかと思いまして」
慇懃無礼にも聞こえる調子で、ワイスマンは言った。
「なんだ」
「今回のパーティーには、レクール家の娘、ウィラが参加する予定になっております」
「それがどうした。以前にも参加していただろう」
「はい。しかし、前回はたいそう嫌な顔をしていました。好き好んでまた参加するというのは、考えにくいのではありませんか?」
セレスタはうんざりしたように、鼻から息を吐いた。
「大方、エディトの差し金だろう。何を企んでいるのかは知らないが、あの小娘……いや、とっくに小娘の年齢ではないか」
彼は小馬鹿にしたように笑った。
「やらせておけ。どんな手を使おうと、自警団や近衛団が私を捕まえることなど出来ない」
「問題はないとお考えですか」
「お前がとんでもないヘマをやらかさなければ、な」
ソファから立ち上がり、セレスタはワイスマンにずいと顔を寄せた。
「『危険物等盗難届』はエイロンに盗まれ、スター・グリスを取り返そうとしては自警団に目を付けられ、デマン家の執事を殺そうとしては失敗する。慎重になれと言ったはずだ。私の身分を笠に着て、少し調子付いているようだな」
普段より気が立っているのは、セレスタの心にも漠然とした不安があったからだ。
「反省した方がいい」
彼が呟くと、ワイスマンの顔は一瞬にして青ざめ、膝から床に崩れ落ちた。呼吸は荒く、目の焦点はどこにも合っていない。セレスタの魔術による、躾だった。
「忘れるなよ。自警団長亡き今、リスカスで最も強い魔導師は私だ」
セレスタは倒れ込んだワイスマンに冷たい視線を残し、部屋を出ていった。
デマン家の広間に、バイオリンが奏でるワルツの音色が響く。その音楽に合わせて優雅なステップを踏むのは、フローシュと彼女の兄の友人、アルノだった。
「昔と比べたらずいぶん上手になったじゃないか、フローシュ。でも、最後にもう一回だ」
アルノはそつのない動きで彼女をリードしながら、バイオリンを演奏するフィルにウインクを送った。彼は頷き、違う曲を演奏し始める。
「お褒め頂いて光栄です」
フローシュは微笑んだ顔のまま、こっそりと時計に目を遣った。彼女は夕食を終えてからかれこれ一時間、休憩も無しにアルノとダンスの練習をしている。アルノは抜けているように見えて、芸事には意外とストイックなのだ。
4日後に控えたファルンのパーティーで、フローシュは彼から、皆の前で自分と一緒に踊って欲しいと依頼されていた。
依頼を断って機嫌を損ねれば、ファルンはまた何か危険なことをしでかして来るかもしれない。フローシュは彼の顔に唾でも吐いてやりたい気分だったが、やるからには完璧にこなすつもりでいた。
だから、ダンスの名手と言われるアルノが屋敷に遊びに来ていたことは幸運だった。彼の指導に熱が入りすぎたのは、少々想定外だった。
「1歩目が遅れる。そこ、視線上げて」
動く度に細かい指導が入る。フローシュは澄ました顔で踊りながら、踵の後ろに走った鋭い痛みを堪えていた。靴擦れだ。
そのとき、パンッと何か弾けるような音がして、バイオリンの音が止む。アルノも流石に動きを止め、フィルを見た。
「……申し訳ありません。弦が切れてしまいました」
フィルはバイオリンを掲げてみせる。彼の言う通り、切れた弦が一本むなしく垂れ下がっていた。
「おや、それでは仕方ない。今晩はここまでにしようか」
アルノは笑って、フローシュの手の甲に軽くキスをした。
「素敵な時間を過ごせたよ、僕の可愛いフローシュ。君のようなレディーは僕の妻になるべきだと思うね」
歯の浮くような台詞を聞き流しながら、フィルは内心呆れてその様子を眺めていた。婚約者のいる女性に臆面もなくこんなことを言えるとは驚きだ。ファルン・ガイルスに聞かれたら、アルノは消されるに違いない。
「まあ。あなた、誰にでもそう仰っているってお兄様から聞いたわ」
フローシュは笑いながら軽く流して、手を引っ込めた。
「でも、今日はお相手して下さってありがとう。このお礼は必ず」
「僕と君の仲だもの、お礼なんて必要ないよ。ああ、そうだ。それなら明日、一緒に仕立屋に行こう。パーティーに着ていく服を準備しなくては。君のドレスも探そうじゃないか。オーダーメイドでは間に合わないから、レディメイドを手直ししてもらうことになるけど。僕の贔屓にしている店がキペルにあってね、きっと君に似合う物があるはずだ。午前中には行こう。では!」
口を挟む隙すら与えず颯爽と去って行くアルノの背中を、フィルはフローシュと共に見送った。彼は自由奔放だとカレンから聞いてはいたが、これは想像以上だ。
「……痛っ」
フローシュの呟く声にはっとして、フィルは椅子を側に持ってきた。
「お掛けになって下さい、お嬢様。足、大丈夫ですか」
「やっぱり、バイオリンの弦、わざと切ったのね?」
フローシュは少し顔をしかめながら、椅子に腰を下ろした。
「いたた……。練習が終わらないから、角が立たないように止めてくれたのでしょう。昔からとっても鈍いのよ、あの方。こちらは気が楽でいいのだけれど」
「素直に靴擦れが痛いと仰れば良かったのに。傷を見せて下さい」
フィルがすっと彼女の足元に屈むと、フローシュはぎょっとした顔になった。
「殿方に素足を見せるなんて、とんでもないわ」
上流階級の女性が男性に素足を見せるのは、恥ずべきこと。ドレスの下には絹の長靴下を履いているのが普通で、それを人前で脱ぐなど、裸を見せるに等しいのだ。
「靴だけ脱いで下されば結構です。私は医務官ではありませんが、擦り傷くらいなら治せます」
フィルの言葉はそっけないものだった。それが逆にフローシュを安心させたのか、彼女はスカートの裾を少したくしあげ、両方の靴を脱ぐ。白い長靴下の踵には、うっすらと血が滲んでいた。
「この光景、お母様が見たら卒倒なさるかも」
「そして私は、下着姿で街を走らされますね」
「嫌だわ。私が最初に言ったこと、ご存知なのね」
フィルの冗談に、フローシュは思わず笑みを溢した。元々、カイが魔導師だということは明かさない約束で彼を屋敷に連れてきていた。もしそれを破ったら、下着姿で街を走り回っても構わないとエスカに啖呵を切ったのだ。
「そこまで言う方は中々いらっしゃらないので。少し失礼します」
言いながら、フィルは彼女の踵に触れる。滲んでいた血の色と痛みがすっと消え、フローシュは目をしばたいた。
「もう治ってる!」
「さあ、靴をどうぞ」
何のことはないといったふうに、フィルは彼女に靴を履かせて立ち上がった。
「歩けますか?」
「ええ」
フローシュは言ったが、じっと彼の顔を見たまま立ち上がろうとしない。恐らくはカイのことを尋ねたいのだろう。
「……何か?」
「あの、カイは無事なのかしら」
予想通りの質問だった。彼女にはカイの魔力が一時的に無くなったことも、魔力が戻ったはいいが魔導師として活躍するには十分でないことも、知らされていない。
今ここで、フローシュを不安にさせるわけにはいかないとフィルは思った。エスカにも、出来るだけ彼女の冷静さを保つよう指示されている。薄情な扱いだが、セレスタを捕らえるためには冷静に動いてもらう必要があるのだ。
フィルは余裕の笑みを浮かべて、こう言った。
「心配いりません。いつも通り悪態をつけるくらいには、元気です」
実際のカイはまだ、医務室のベッドでぐっすりと眠っている。
「そう。パーティーには絶対に来てはいけないって、ちゃんと伝えて下さっている? 彼、無理をしてでも来ようとするのではないかと思って。私が余計なことさえしなければ……」
消え入るような言葉だった。彼女は未だに、カイを巻き込んでしまったことに責任を感じているらしい。
「お嬢様がそんな顔をしていると、来るかもしれませんよ。カイはあなたの騎士なんですから」
フィルの言葉に、フローシュは悲しそうな顔で微笑んだ。
「馬鹿なことを言ったと思っているわ。彼、人のことを気に掛けているような状態ではないもの。……ところで、明日の外出にはあなたも着いていらっしゃるのよね?」
「ええ、もちろん。お嬢様の従者ですから」
「そのときに、自警団のお仲間と接触なさるのでしょう? カイへのお手紙、こっそり渡して頂くことって可能かしら」
「カイとお嬢様のお名前を伏せることと、受け取った後に燃やすことを許可して頂けるなら。ほんの少しのことでも、デマン家と自警団の繋がりが明らかになるのは避けたいですから」
厳しいことを言うようだが、フローシュの安全を守るための最低限の条件だ。彼女もそれを理解しているのか、すぐに頷いた。
「構わないわ。じゃあ、早速お手紙をしたためないと。綺麗な便箋とかも、使わない方がよろしいのよね?」
心なしか、フローシュは浮き立っているようにも見えた。
「メモ紙が一番ですね。風情もへったくれもありませんが、お嬢様からのお手紙なら、どんなものでもカイは喜ぶと思います」
「そう……かしら?」
彼女は少し嬉しそうに頬を染める。その反応で、フィルは以前から考えていたことに確信を持った。
「お嬢様は、カイのことが好きなんですね」
「えっ」
フローシュは途端に真っ赤になり、両手で口元を押さえた。彼女の視線は左右に泳いだ後、ふと床に落ちた。
「……自分でも良く分からないのだけれど、こんなに恥ずかしいということは、きっとそうなのね。でも私、分かっているのよ。どれほど想ってもカイと心が通じることはないって。彼はいつでも、別の誰かを見ていらっしゃるから」