32、地下の話
「えっ、ピアスを開けたい?」
突然医務室を訪れたカイの要望に、ミネは目をしばたいていた。
「どうしたの、急に。自棄を起こしてるんだったら――」
「違います。これ、誕生日プレゼントにオーサンがくれたんです」
カイは手の平にあのリングピアスを乗せて、ミネに見せた。
「オーサンが……。そっか」
それだけで、彼女は納得したようだ。二人の関係は説明されるでもなく理解しているし、カイの晴々とした表情を見れば、自棄になっているわけではないことも分かる。彼が前を向くきっかけになるのなら、協力するつもりだった。
「どこに開けるの? 鼻? 唇?」
微笑みながらカイを椅子に座らせると、彼はぎょっとした顔になった。
「フロウさんじゃないんですから。普通に、耳たぶでいいです」
「分かってるよ、冗談」
ミネが笑っていると、医務室に二人の隊員が入ってきた。フローレンスとクロエだ。
「あっ、いた」
クロエが駆け寄ってくる。彼女はカイの表情を見てすぐ、ほっとしたように息を吐いた。
「良かった。いつものカイだ」
「もしかして、病院で待っててくれたのか?」
「ううん。フロウさんが、カイはそのまま本部に残るって教えてくれたから。どうして医務室に? もしかしてどこか痛む?」
「ピアス、開けたいんだって」
ミネがくすりと笑うと、クロエは驚きの表情になる。
「えっ! カイが?」
「なに、俺の真似か」
フローレンスも興味津々で口を挟む。何だか大事になったと、カイは苦い顔をしたのだった。
「違いますよ。これ、オーサンに貰ったんです。今日、部屋の引き出しの中で見付けました。いつの間にか入れておいたみたいです」
二人にもピアスを見せた。やはり彼らも、それだけで納得したようだった。
「なるほどな。わざわざ医務室に来るところがお前らしいよ」
フローレンスは感心したように言った。
「俺なんか全部、自分で開けてるぜ。炙って殺菌した針で、こう、ぷすっとな」
耳ならまだしも、鼻や唇にそんなことをすると想像しただけで、カイはぞっとした。
「カイに変なこと教えないで下さい」
クロエが顔をしかめると、ミネがこう提案した。
「ちょうどいいや。クロエ、正しい方法でやってみる?」
「私がですか?」
「何事も経験だし。消毒して針を刺すだけなんだから、簡単でしょう? そこに自分でやってる人もいるくらいだし。ね、カイ」
「まぁ、はい」
クロエの練習台にされたなと思いながら、カイは了承した。人生初のピアスを友達に開けてもらうのも、悪くはない。
それからしばらく、医務室はカイの悲鳴と周りの笑い声で騒がしかった。
「エスカ副……、隊長。報告です」
第二隊の隊長室に、女性隊員が駆け足で入ってきた。まだ隊長の呼称には慣れていないらしい。エスカは机の上に積まれた大量の報告書から、ちらりと目を上げた。
「なんだ」
「パウラ・ヘミンの件で。以前ガイルス家で働いていた使用人を、キペルの南18区で見付けました」
「田舎だな。それで?」
「アルシアという女性で、6年前から2年ほど、ガイルス家に雇われていました。辞める際に屋敷内のことは口外するなと脅されていたようで、中々話してくれなかったのですが、一緒に行ったゴールドが何とか……」
隊員はその後を濁したが、内容は聞かずともエスカには分かる。ゴールドはかなりの美青年だ。色仕掛けで落としたに違いない。
「アルシアの話では、ガイルス家には他とは違う扱いの女性使用人が一人だけいた、と。名前はユーシア・ラットン。年齢はその当時15歳くらいに見えたと言いますから、その女性がパウラ・ヘミンと見て間違いないと思います」
「ユーシア・ラットンか。名前が分かっただけでも前進だ。ありがとう」
ガイルス家の地下室のドアから、すすり泣く声が漏れ聞こえてくる。家政婦長のエコルドが、そこをノックして声を掛けた。
「ユーシア」
ドアの向こうで、申し訳ありませんと悲鳴のような声が上がる。エコルドはドアを開け、尋常ではない怯え方で自分を見るユーシアの姿に、思わず困惑の表情を見せた。
ユーシアの左目の辺りは、ぐるぐると包帯が巻かれて痛々しい様相になっている。あの夜、執事のマルク・ワイスマンに呼び出された彼女がどんな目に遭ったのか。エコルドは想像するしかなかったが、その包帯の下が酷い状態になっていることは知っていた。
「ミ、ミセス・エコルド……」
ユーシアはまた悲鳴のような声を上げ、壁際まで後ずさった。
「私は何もしていません、どうか……」
「落ち着きなさい、ユーシア。傷の手当てをしにきたんですよ。椅子に座りなさい」
エコルドは冷静に言った。ユーシアは少し落ち着いたのか、指示に従った。エコルドは周りを窺ってからドアを閉め、彼女に向き直る。
「あの晩、何があったの、ユーシア」
「言えません。何も、何も」
ユーシアは涙目になり、何度も頭を振った。彼女はあの晩からずっとこの調子で、この部屋にこもり、地上階に上がることはなかった。エコルドは手にした救急箱を机に置いて、手早く道具を準備した。
「さ、傷を見せてご覧なさい」
ユーシアは怯えながらも、エコルドが包帯を解く間、じっとしていた。
「なんて痛々しい……」
エコルドは思わず呟いた。ユーシアの左目の目蓋から頬にかけて、赤黒い鉤状の火傷痕がくっきりと残っていた。熱した火かき棒の先端を押し当てたに違いないと、エコルドは思っていた。
彼女は普段、ユーシアにきつく当たるが、それはセレスタの指示だからだ。本心では彼女に同情もするし、こんな目に遭って可哀想だとも思う。しかしそれを態度に出せば、ワイスマンに何かされるという恐怖心があった。彼女にとっても、ワイスマンは得体の知れない存在なのだ。
「少し我慢なさい」
エコルドは消毒薬を含ませた綿球で、傷を消毒する。もし感染症を起こしたとしても、ワイスマンは恐らく病院に行くことを許可しないだろう。なぜユーシアをここまでして屋敷に閉じ込めておくのか、エコルドには分からない。しかし、尋常ではない理由があることは確かだと思っていた。
「……ねえ、ユーシア。あなたはどこから来たの?」
9年前、セレスタが突然連れてきた少女。親戚だと説明されたが、少女の目は今のように怯えきっていた。
そんなことを聞かれたのは初めてで、ユーシアは少し驚いたようにエコルドの顔を見た。しかし、すぐに目を伏せた。
「分かりません」
「分からないということはないでしょう。……話すなと言われているのね」
ユーシアは小さく頷いた。
「そう。私はここで家政婦長をやって長いけれど、身元の知れない使用人というのはあなたが初めてよ」
「私は……」
ユーシアは言葉を呑み込んだ。本当のことは話せないのか、話したくないのか、既に自分でも分からなくなっていた。
9年前に見たあの光景。王宮の地下牢にいた近衛団員の絶望の目、魔術で牢の扉を塞ぐ誰かの後ろ姿……。顔は見えなかったが、今なら分かる。扉を塞いだのは、セレスタだ。
「何も出来なかったんです……。何も……」
あの恐ろしい光景を誰かに話せば良かったのだろうか。自分がセレスタに捕まる前に。後悔が溢れたが、ユーシアはただ、涙を流すことしか出来なかった。