30、横顔
元刑務官コール・スベイズは、キペルの街中にいた。午後の穏やかな空気の中、懐かしい石畳の左右に並ぶ店を眺めながら、彼は自警団にいた頃を思い出す。
若い頃に仲間と騒いだ飲み屋は、今もそこで看板を揺らしていた。夕刻になって店が開けば、かつてのように陽気な人々で賑わうのだろう。
コールはバル街を進みながら、レナに結婚を申し込み、一夜を共にしたあの日を思い返した。もう四半世紀も前のことになるが、彼の頭にはまだ鮮明に、あの日のレナの顔が浮かぶ。
あの気持ちに嘘は無かった。一生をレナと添い遂げようと誓ったはずなのに、それが出来なかった。もしあの時レナが妊娠していることを知っていたら、自分は獄所台への推薦を蹴って魔導師を辞め、彼女と共にいることを決めただろうか――。
(甘ったれだな……)
コールは自虐した。答えはイエスなのだ。だからこそレナは、子供が出来たことは黙っていた。二度と顔を見せるなと突き放した。彼にはそれが分かっていた。
バル街を抜けると、生活用品や食料を売っている通りになった。コールはそこに並ぶ店の一つ、『ミード装飾店』のドアをくぐった。
こぢんまりとした店内にはガラス戸棚が二つほど並び、精巧な銀細工で出来た装飾品や食器などが陳列されていた。どれも花を模した細工で、溜め息が出そうになるほど美しいものだ。
「あ、いらっしゃいませ。気が付かずに、申し訳ありません」
店の奥から、フリムが慌てた様子で出てきた。いつものように髪はターバンの中に纏め、エプロンを着けている。作業をしていたようだ。
コールは彼女の顔を見た瞬間、心臓を掴まれたように感じた。
――顔を見れば、あなたならすぐに分かるはず。
レナが言っていた通りだ。初めて目にした娘の顔立ちは、若い頃のレナにとても良く似ていた。
「あなたが、フリム・ミードさんですか」
声が震えないように気を付けながら、コールはそう尋ねた。本当は今すぐにでも自分が父親であると明かし、彼女を抱き締めたかった。しかし、自分が犯した間違いを思うとそれは出来なかった。少なくともレナがフリムに会うまでは、黙っているつもりだった。
「ええ、そうです。私をご存知なんですか?」
フリムは緊張の面持ちで、その大きく丸い目をしばたいた。コールの佇まいや身なりが、上流階級の紳士のように見えるからだろう。
「王宮にも出入りしていらっしゃる、立派な職人と伺っていますから」
コールが微笑むと、フリムは少しほっとした様子で答える。
「それは大袈裟ですよ。今の私があるのは、全て師匠のおかげなんです。今日は何か、お探しですか?」
「妻……に、プレゼントを贈りたくて。何がいいでしょうね」
「女性へのプレゼントでしたら、花のブローチが定番です。お好きな花でお作りしますよ」
フリムはにこりと笑って、ガラス棚の前に向かった。そして、見本をいくつか示しながら話す。
「こんな感じで、一輪だけでも、花束のようにしても作れます」
「どんな花でも?」
「はい。リスカスに咲く大抵の花は、この目で見てきたつもりですから。私、花が好きなんです」
「では……、プリムラの花を」
それを聞いたフリムは、嬉しそうに言った。
「私の一番好きな花です。あ、ごめんなさい、関係のない情報でしたね。何か思い入れのあるお花なんでしょうか?」
「妻と初めて旅行したときに、ガベリアにあるプリムラの花畑に行ったんです」
広い敷地を埋め尽くすように咲く、色とりどりの花。レナが振り返り、綺麗ですねと笑う。いつまでもその顔を見ていたいと思ったのを、コールはずっと覚えていた。
「思い出の場所、ですか。素敵です」
フリムの満面の笑みが、レナの笑顔と被る。コールは自然と、自分の頬が弛むのを感じた。
「完成まで、どのくらいかかりますか?」
「お待ち頂ければ、二時間くらいで」
「早いですね」
二日は掛かると思っていたコールは、素直に驚いた。フリムは謙遜したように、首を横に振った。
「いえ、そんな。師匠なら一時間で完成させますけど、私はまだまだです。では、早速取り掛かりますね。また後で取りに来て頂けますか? お代は、出来映えに納得して頂けたらで構いませんので」
「先に支払いますよ。お時間を取らせるわけですし」
「いいえ、それは出来ません。完成して、お客様にお見せしてからでないと」
フリムは固辞した。ずいぶん謙虚なのだなとコールは思う。王室お抱えの職人という地位があるのだから、本来はもっと強気でも問題ないはずだった。
だが、フリムがレナの子供だというなら納得出来る。自分の仕事に対する誇りが、地位や名誉よりも優先するのだ。
「あ、お名前をお聞きしておいても?」
「ええ。コール・スベイズと申します」
「スベイズさんですね。きっと、奥様に喜んでもらえるようなものを作りますから」
フリムはまた笑顔を見せ、店の奥へ引っ込もうとする。それを、コールが呼び止めた。
「あの。少しだけ、作業を見学させてもらってもいいでしょうか?」
「作業ですか? 構いませんが、単調で、つまらないですよ」
「銀細工がどんなものか、興味があるもので」
コールはそう言ったが、本当は、少しでも長くフリムの側にいたいからだった。
「では、こちらへどうぞ。お茶も何もお出し出来ませんけど……」
フリムは作業場の中へコールを案内した。小さなその部屋には作業机があり、そこに工具がずらりと並べられている。天井から吊ったランプが煌々と、机の上にある銀板の破片を照らしていた。
「そこの椅子にお掛け下さい。狭くてすみません」
「いえ。お邪魔しているのはこちらですから」
コールは丸椅子に腰掛け、早速作業に取り掛かるフリムの横顔を見つめた。その真剣な目付きは、患者を治療するときのレナそのものだ。思わず涙が滲んだ。
フリムが小さなハンマーを打ち付ける度に、カン、カンと小気味良い音が鳴る。その音の合間に、彼女はこう話した。
「私の名前、フリムなんですけど、プリムラと音が似ているんですよね。だから、その花が好きなんです」
話しながらも視線は手元に向けられているのが、コールにとっては幸いだった。声が震えないように、彼は答える。
「確かに、似ていますね」
「母が付けてくれた名前なんです。古代キペル語で『宝物』っていう意味ですけど、もしかしたら、プリムラの花から取ったのかなぁ、なんて。詳しいことは聞いていないんですけどね」
コールの胸は締め付けられた。もしレナが、フリムの名前をプリムラの花から取ったのだとしたら。あの日のことを、彼女も忘れていなかったということだ。
「素敵な名前です」
それ以上の言葉が出てこなかった。フリムは作業に集中しているのか、その短い返事も気にしていないようだ。
それからしばらく、無言の時間が続いた。コールは瞬きの時間すら惜しい程に、フリムの姿を見つめていた。
「……ふぅ」
フリムが息を吐き、おもむろにターバンを外して頭を振った。淡いブロンドの髪がさらりと揺れる。レナと同じ色だ。
「あっ」
彼女はコールを見て、恥ずかしそうに髪を纏め直した。
「ごめんなさい、すっかり一人でいる気になって。……スベイズさん?」
コールは両手で顔を覆っていた。その肩が小さく震えている。フリムは慌てて立ち上がり、彼の側に寄った。
「どうしたんですか? お具合でも」
「いえ、すみません。……遠い昔に離れた娘と、あなたが良く似ているものですから」
目元を拭いながら、コールは顔を上げる。間近で見たフリムの目は、彼と同じ鳶色だった。
「驚かせて申し訳ない。年を取ると涙もろくなってしまってね。ブローチはまた後で、受け取りに来ますから」
そう言って、彼は逃げるようにその場を離れる。店を出て、人気の無い路地裏に身を隠し、力が抜けたように壁にもたれた。
赤子の姿も、そこから成長していく姿も目にしていない。それでも、フリムが自分の娘であるということは間違いなく分かった。コールの胸にあるのはただ、何よりも愛しいという感情だけだ。
彼は考える。25年という長い空白の間、レナは一人で、その愛しさを前に己を律してきた。フリムを守るため、母親だと名乗り出ることもせず、ただただ見守ってきたのだ。
(今からでも、やり直せるだろうか……。夫として、出来損なった父親として)
溢れ出た涙は、しばらく止まることがなかった。