17、故郷の味
これが死ぬということか――。
手足の先から徐々に熱は失われ、もはや感覚はない。ただひたすらに眠気が襲い、ルースは目を開くことが出来なかった。音は聞こえず、目蓋の裏は漆黒の闇だ。
エイロンに受けた拷問の痛みも、今は無い。重力に引かれるように、闇の中をゆっくりと落ちていく感覚が心地良かった。
不意に、彼の頭の中で記憶が目まぐるしく回った。これが走馬灯かとぼんやり考えていると、途切れ途切れだった記憶が突然、鮮明な映像となって流れ出した。
「いや、危なかったね。君のような新人は手を付けやすいとでも思ったんだろうか。自警団の中にも変態がいるとは、世も末だな……」
近衛団の制服を着た男性が、まだ幼さの残るルースにそう声を掛けた。男性はまだ20代だろうか。容姿や声は若々しく、張りがあった。
二人が佇む深夜の路地は、バル街からは奥まっていて暗く、人の気配はない。ルースはやや潤んだ目をして、男性を見返した。自警団の第二隊に配属されて早々、こんな怖い目に遭うとは思ってもいなかったのだ。
初春の夜風は冷たく、引き裂かれた制服の隙間から身に染みてくる。外套を掻き合わせるルースの手は小さく震えていた。
「ほ、本部で声を掛けてきた知らない先輩が、旨い飯を奢ってやるから一緒に来ないかって」
蚊の鳴くような声で、ルースは言った。
「そうしたら、ここに連れ込まれて、それで、魔術で身動きを取れなくされて……」
襲われたのだ。相手は屈強な男で、それが余計にルースの恐怖を煽った。近衛団の男性が通り掛からなければ、何をされていたか分かったものではない。
「知らない相手は信用しないことだ。例え同じ組織の人間でも。……今頃、君の上司は心配しているね。名前は? どこの隊?」
ルースは答えなかった。こんなことを上官に報告されたら、羞恥の極みだ。上官だけでなく、誰にも知られたくなかった。
男性はふっと表情を和らげて、合点がいったように頷いた。栗色の髪が風に揺れた。
「まあ、聞かなくても分かる。第二隊だろうね」
「え、なんで……」
「おや、無自覚かい。そんなに恵まれた容姿なのに」
ルースが警戒するような目で男性を見ると、彼は苦笑した。
「そんな目は止してくれ、他意があって言っている訳じゃない。単純に、第二隊に向いていると思っただけさ。とにかく名前を教えてくれないか? 僕は近衛団の、ベイジル・ロートリアンだ。よろしく」
男性はそう言って、手を差し出した。
「……ルース・ヘルマー。第二隊です」
ルースは渋々そう答えて、握手をする。ベイジルはにこりと笑った。
「じゃあ、ルース。これから一緒に一杯どうだい? 君は未成年だから、もちろんジュースだけどね」
初めて入ったバルにそわそわと落ち着かないルースに比べ、ベイジルはのんびりと構えていた。
「気を張らなくていいよ。ここは自警団の立寄所だから、何も問題はない。僕たちにだって酒を楽しむ権利はある」
ベイジルはそう言いながら外套と上着を脱ぎ、挨拶をしにきた店員に渡した。ルースは引き吊った顔をする。彼の制服やその下に着ているシャツは、引き裂かれたままなのだ。
「ああ、そうだった。ちょっと失礼」
ベイジルは埃を払うように、ルースの背中にさっと触れた。
「これで直ったはずだけど」
ルースが恐る恐る外套の中を覗くと、制服は裂かれる前の状態に戻っていた。
「……ありがとうございます」
少し照れくさそうに言って、彼も上着を脱ぐ。案内されたカウンターに横並びで座ると、人の好さそうなマスターが早速声を掛けてきた。
「お、ベイジル、後輩か?」
「いや、彼は自警団ですよ、マスター。ついでに未成年なので酒は出さないで下さいね」
「なんだ、真面目だな。ここだけの話、未成年でも飲んでる魔導師の奴ぁ、沢山いるぜ?」
「知ってます。でも、僕の前ではやめて下さい」
ベイジルはそう言って笑った。
「お前さん、息子が生まれてから真面目さに磨きがかかったな。子供、いくつだい?」
「今、6歳です。そんなことより、いつものを二つ。彼は冷えきっているから」
肩身の狭そうなルースに気を遣って、ベイジルは言った。マスターは商売上がったりだと愚痴を溢しながら、しばらくして、湯気の上がるマグカップを二人の前に置いて去っていった。中は赤みがかった液体で、甘く、少々刺激的な匂いが鼻をくすぐる。
「……これは何ですか?」
「ハニー・シュープス。僕の故郷の飲み物だよ。蜂蜜に、シュープっていう木の実を粉末にしたものを混ぜて、お湯で溶く。体が温まるんだ。どうぞ」
「いただきます」
ルースはゆっくりと口を付ける。一口飲み込んで、思わず頬が緩んだ。喉から胃の奥までじわりと温まり、さっきまでの恐怖が薄れていくようだ。
「美味しいです。……ロートリアンさん、お酒じゃなくて、いつもこれを?」
「ベイジルでいい。そう、酒は弱いんだ。でもハニー・シュープスはこの店でしか飲めないから、嫌でも常連になっちゃうよね。マスター、僕と同じスタミシアの出身なんだって」
そう言って、賑やかなバルの店内を見回した。
「酔えないけど、こうやって素面で周りを見ているのも嫌いじゃない。こんな夜中まで騒いで楽しそうにしている人々の顔を見ていると、つくづく、この国は平和なんだなって実感するよ」
ベイジルは一度カップに口を付け、今度は険しい顔で言った。
「誰かが人を傷付けることに、魔術を使おうとしなければね」