26、違和感
窓から吹き込んだ爽やかな朝の風が、夢も見ずに眠っていたカイを目覚めさせた。部屋の明るさに何度か目をしばたきながら、彼は窓際に立つ人物に気が付く。
「……クロエ?」
「あっ、おはよう。ごめん、寒かった?」
彼女はそう言って窓を閉め、ベッドに寄ると、カイの額にすっと手を当てた。
「熱も無いし、顔色もいいね。良かった」
「昨日、……フローシュが来てたよな?」
カイは、もしかしたらそれが夢だったのかと思う程度には記憶が曖昧だった。クロエは頷き、こう説明した。
「夜中に来てた。カレンさんと一緒にね。でも、会話を続けていたらカイが興奮状態になりそうだったから、無理矢理眠らせたの。カレンさんから、謝っておいてって言われてる」
「俺、そんなに……?」
「あなた、人のことになると一生懸命だから」
クロエはそっと、カイの手を握った。
「それがカイの素敵なところでもあるけど、もっと自分を大切にしないと。私はカイまでいなくなっちゃうなんて……嫌だよ」
静かに目を伏せた彼女の頬に、光るものがあった。カイには彼女の言葉の重みも、その涙の意味も、痛いほど分かっている。オーサンの死で心に穴が空いているのは、クロエも同じなのだ。
カイは何も言わず、クロエの手をそっと握り返した。大丈夫、死なないと言ったところで、きっと何の慰めにもならない。オーサンだって、ガベリアへ発つ前にクロエに同じことを言ったはずだった。
「……ごめん、私、医務官なのにね」
クロエは目元を拭い、力無く笑った。
「ちゃんと仕事しないと。体、起こせる?」
「たぶん」
カイはクロエに支えられながらゆっくり体を起こす。目眩がしたが、それはすぐに治まった。どことなく違和感が残っているが、意識しなければ気が付かないくらいのものだ。
「痛みとか、ない?」
クロエが心配そうに顔を覗き込む。
「ああ、大丈夫。でも寝過ぎたせいかな。変な感じがする」
「そうだよね。丸一日眠っていたんだから」
「剣術の腕も相当鈍ってる気がするな。ここ数日、サーベルに触ってもいないから。いつから訓練始めてもいいんだ?」
結局、何を言われてもじっとしていられないカイに、クロエは思わず笑いを溢した。
「ルース副隊長が手を焼くの、分かるなぁ……」
「何だよ、悪口か」
カイが苦笑する。
「違うよ。とりあえず、医長とルース副隊長の許可がないと、カイは病室から出しちゃいけないってことになってるんだ」
「それって監禁じゃん」
「そこまでしないと、言うことを聞かないからでしょう」
クロエがぴしゃりと言って、カイを黙らせた。そのとき、ナシルンが壁を抜けて現れ、カイの手元に止まる。メッセージを聞き取るためにナシルンに触れたカイだが、すぐに困惑した表情でクロエを見た。
「何のメッセージも聞き取れないんだけど。空のナシルンなんて、初めて受け取ったぞ」
「え?」
クロエもそのナシルンに触れた。メッセージ自体は送られた本人しか聞くことが出来ないが、そのナシルンにメッセージが吹き込まれているかどうかは知ることが出来る。
「ちゃんと入ってるみたいだけど……」
今度はクロエが困惑した。ナシルンのメッセージを聞き取れない原因はただ一つ。その人に魔力が無い、ということだった。
「お嬢様、これを」
自室の隅で頬を濡らすフローシュに、フィルがそっとハンカチを差し出した。朝食を終えてからずっと、彼女はこの調子なのだ。ただ持ち前の演技力で、家族や他の使用人の前ではいつも通りに振る舞っていた。
「ごめんなさいね、フィル」
フローシュはハンカチを受け取り、目元をぎゅっと押さえた。ひとまず涙は止まったようだ。
「しっかりしないと。でも私、自分がしたことをこんなにも後悔したことはないわ……」
彼女はカイが倒れてから、彼がガベリアへ行っていたこと、そこで傷を負ったこと、そして親友を失ったことをフィルから聞いたのだ。失意の中にあるカイを、何も知らず今回の件に巻き込んでしまったことがフローシュの心を苛んでいた。
「大丈夫ですよ」
フィルは微笑んだ。
「カイは、自分の行動は自分で決めて動く人間です。それはもう頑固なくらい。お嬢様が責任を感じる必要はありません」
「そう言われても……。魔導師の方たちって、悲しむ暇も与えられないの? あなただって、友人だったのでしょ。その……カイの親友と」
「それはそれ、これはこれです」
きっぱりとそう言いつつも、フィルの表情にはさっと悲しみが浮かんだ。
「この任務が終わったら、ゆっくり悼むつもりですから。今はカイの代わりにお嬢様を守るだけです。そうしないと、彼は病院の窓から抜け出すくらいのことはやりますからね」
その冗談ともいえない冗談に、フローシュは笑った。少し元気を取り戻したようだ。
「私とそんなに歳が変わらないのに、本当に立派だわ。負けていられないわね。ファルンのパーティーまで、あと4日だし」
「ですが、お嬢様がパーティーに出席したくないのであれば、我々も他の方法を――」
「何を仰っているの? 私もね、自分の行動は自分で決めるわ。パーティーには出ます。あなた方の目的を果たすには、私が必要なのでしょ?」
フローシュはフィルの腕をぐっと掴んで、真剣な目でこう言った。
「私も作戦に参加させて下さる? 秘密は絶対に守ります」
「そう仰られても……」
フィルは内心たじろぎながら、彼女を見つめ返した。
「本気ですか?」
「そうじゃなかったら、こんなことしないわ」
フローシュはぱっと手を離すと、自分のベッドに向かった。そしてその脇に屈んだかと思うと、下の隙間に手を入れ、何かを取り出して戻ってきた。
「どうかしら。図面を描くの、得意なのよ」
テーブルの上に広げられたのは、どこか大きな屋敷の設計図だった。玄関が描かれているところを見るに、一階の設計図のようだ。見事な出来に、思わずフィルも目を見張った。
「もしかして、ガイルス家の?」
「ええ。あちらのお屋敷に招かれる度、家中を観察して描いたのだもの、間違ってはいないはずよ」
フローシュは得意気に言って、台所と書かれた場所を指差した。
「ここには描いていないけれど、台所の奥に地下へ繋がる階段があると、あちらの使用人が話しているのをこっそり聞いたわ。食料倉庫と、一人だけ粗雑な扱いを受けている使用人のお部屋があるらしいの。怪しいとお思いになるでしょう」
「粗雑な扱いを受けている……」
フィルにはぴんと来た。その使用人こそ、セレスタが屋敷に幽閉しているパウラ・ヘミンに違いない。
「お役に立ったようね?」
フィルの反応を見たフローシュは、更に得意気な顔になった。
「ええ、とても。屋敷について、他に何かご存知ですか?」
「これ、二階の図面なのだけれど」
フローシュが紙を裏返すと、そこにも設計図が描かれている。彼女はその中央辺りを指差した。
「ここがファルンのお部屋。そして、こっちが彼のお父様の執務室。端の方にいって、ここが執事のミスター・ワイスマンのお部屋よ。三階と四階は同じ造りで、全て客室なの」
「なるほど。パーティーが開かれるのは、どこでしょうか」
フィルが尋ねる。図面を見る限り、それほど大きな広間は無いようだった。
「それは別館の方よ。そちらの図面は無いのだけれど、二階にはいくつか客室があるはずだわ。パーティーの度に、男女が組になってそこへ消えていくと……」
そこまで言って、フローシュは口元を押さえた。
「この先は、言わなくても察して下さるかしら?」
「ええ。それが、パーティーの主な目的なのでしょうね。男女間で既成事実を作ってしまえば、縁談は決まったも同然ですから」
「ファルンって、最低の人だと思うわ。ねえ、フィル。ここまで話したのだから、もう全て教えて下さらない? あなた方、パーティーで何をなさるの? カイは上官の許可がなければ話せないなんて仰ったけど、だったら私、その上官と直接お話ししてもいいわ」
ぐいぐいと詰め寄ってくるフローシュに圧され、フィルは窓際まで追い詰められる。ふと目を遣った窓の外に、屋敷の門を入ってくる馬車が見えた。
「やだ、ファルンの?」
気付いたフローシュも慌てて外を覗く。
「……違うみたいね。どなたかしら」
二人はじっと、玄関の前で馬車を降りる人物に視線を注いだ。まず、ブロンドの髪を撫で付けた執事が降り、彼の手を借りて老齢の紳士が降りてくる。
「えっ」
フィルが声を上げた。彼の目は執事の方に向いている。
「ルース副隊長……!」