25、懸念
病院の処置室にばたばたと医務官が集まってくる。処置台の上には、目を閉じたまま小さく呻くカイがバンドで仰向けに固定されていた。
「なんとか耐えてくれ、カイ。私も最善を尽くす」
レナが声を掛けると、カイは薄目を明け、微かに頷いたようだった。
「両手足を押さえて、口に布を咬ませろ。私が破片を取り出したらすぐに気絶させるんだ。いいな?」
レナの指示に、医務官たちは緊張の面持ちで返事をする。魔術も薬も進歩したこの時代に、意識のある状態で患部を切り開くという処置は、彼らにとっても初めての経験だったのだ。
破片が埋まっているカイの左の脇腹は、一見して何の変化も無い。しかし触れれば間違いなく、そこに強い魔力を持つ物質があることが分かる。
「始めるぞ」
レナは自分を鼓舞するように言って、患部に指先を触れた。破片がどの程度の大きさで、どの位置にあるのか。正確に把握してからでないと、体を無駄に切り開くことになる。
(深さ18ミリ、破片は一つ、斜めか……)
指先に神経を集中する。長くても一分以内に破片を取り出し、傷を塞ぐ。そうしなければ、カイの体力が持たないかもしれなかった。
「……ここだ。メスを寄越せ」
レナの手にメスが渡される。医務官たちが唾を呑み、カイを押さえる手に力を込める。
「いくぞ、カイ。頑張ってくれ!」
目蓋の向こうで人影が動き、額に心地よい冷たさを感じる。カイはゆっくりと目を開き、薄闇の中で瑠璃色に光るものを見た。
「ブロル……」
自分でも驚くほどに声が掠れていた。ブロルはぱっと表情を輝かせて、カイの腕に触れた。
「やっと気が付いたんだね。カイ、気分はどう? 傷は痛む?」
カイはぼんやりとする頭で、これまでのことを思い返してみる。フローシュと話した後、痛みで倒れて――。そこからの記憶が曖昧だ。ただ、自分がなぜか絶叫していたことは覚えている。喉が嗄れているのは、そのせいだろうか。
「……どこも痛くない。何があった? ここは、病院か?」
カイは視線を巡らせてみた。窓の外は暗闇だ。倒れたのは確か午前中だったが、今はもう夜になっているらしい。部屋を照らしているのは枕元の小さなランプだけだった。心許ない明るさで、ベッドの足元より先は闇に溶けている。
「そう、病院。カイの体にオルデンの樹の破片が残っていたから、それを取り出したんだ」
そう言って、ブロルは首に掛けていた鎖を引っ張り出した。鎖の先に、針金で螺旋状に包まれた透明な破片が揺れている。大きさは1センチほどだ。
「これなんだけど。強い魔力があるみたいで、みんな、持っているだけで具合が悪くなるんだ。でも僕は何ともないから、預かることになった」
それからブロルはカイの手を握り、安堵の息を漏らした。
「ほんとに、カイが無事で良かった。みんな心配して会いに来てたんだよ」
「……フローシュも?」
その問いに、ブロルはにこりと笑った。
「もう少し待ってて。とりあえず、体は起こせる? 何か口に入れておかないと、治るものも治らないから」
「たぶん……」
腑に落ちない表情をしながらも、カイはブロルに支えられながら上体を起こしてみた。軽く目眩がしたが、大丈夫そうだ。
「オッケー。これ、全部飲ませろってレナ医長に言われててさ」
ブロルは瓶に入った毒々しい青色の液体を、コップに注いでカイに突き出した。味は絶対に美味しくないだろうと想像が付く。
カイが躊躇っていると、ブロルは有無を言わせぬ口調で言った。
「ほら、飲んで」
「……分かったよ」
カイはコップの中身を飲み干す。思ったより不味くはない。胃が熱くなり、次第に全身が温まってきた。
「あ、顔色良くなった。大丈夫だね」
ブロルはにこりと笑った後、時計に目を遣る。時刻は夜11時。カイは半日近く眠っていたことになる。
それからブロルは病室のドアに近付き、覗き窓から廊下を覗いた。
「あ、来たみたいだよ」
小声で言って、ドアを開ける。人影が素早く部屋に入ってくる。顔を確認する前に、カイはその人物にきつく抱き締められていた。
「ああ、良かった! カイ、私がどれくらい心配したか、お分かりになる?」
涙混じりの声が耳元で聞こえる。勢いにうろたえ、カイはその人物もろともにベッドに倒れ込んだ。「わあ」とブロルがすっとんきょうな声を上げた。
「フローシュ……」
カイは目を白黒させつつ、そう呟いた。
「やだ、ごめんなさい。病人なのに」
フローシュは薄明かりでも分かるくらいに顔を真っ赤にして、カイから離れる。その目には涙が光っていた。
「本当に、私……、カイが無事で良かった」
彼女の細い指が、カイの手を強く握った。カイはそこに、微かな震えを感じ取った。
「怖い思いをさせて、悪かったな」
目の前で人が死にかけるとどれだけ心臓が縮み上がるか、カイには良く分かっていた。それにフローシュがすぐに気付いてくれなければ、本当に死んでいたかもしれないのだ。
「あのとき、フローシュが助けを呼んでくれたんだろ?」
「必死だったのよ。どうしていいか分からなくて……。私の悲鳴を聞いた彼が、すぐに駆け付けてくれて」
フローシュは後ろを振り返った。いつの間にいたのか、そこに第二隊のカレンが立っていた。執事の格好は目立つからか、今は私服姿だ。
「カレンさん……」
「元気そうで安心したよ、カイ」
カレンは側に来て、にこりと笑いかけた。
「すみません。迷惑をかけてしまいました」
「謝るな。お前のせいじゃない。……さて、ゆっくり見舞いたいところなんだが、僕らはお忍びでここへ来ている。早々に帰らなければならない。お嬢様、お気持ちは分かりますが」
カレンはカイの手を握ったままのフローシュに、優しく声を掛ける。
「そうね。私、自警団とは何の繋がりもないことになっているのだから」
フローシュは名残惜しそうに手を離した。
「私の心配はなさらないでね、カイ。フィルとミスター・イリーがいらっしゃるから、大丈夫よ」
「ファルンのパーティーまでには、絶対に戻る」
カイがはっきりと言うと、フローシュは悲しげな顔になった。
「いいえ。私……、あなたのこと、少しだけ聞いたのよ。ガベリアに行っていたのでしょう? お願い、もう無理はしないで。あなたの心がぼろぼろになってしまうわ」
「どうしてそんなこと――」
カイが体を起こそうとしたとき、カレンがすっと腕を伸ばして彼の額に触れた。カイは目を閉じ、静かに寝息を立て始めた。
「ごめんなさい、カイ。でも私は、あなたが大切だから」
フローシュは頬に伝った涙を拭い、ベッドから離れた。
「後を頼んだよ、ブロル」
カレンがそう言うと、ブロルもこの状況を理解しているのか、特に動揺もせず答えた。
「うん。今は興奮させると危ないってレナ医長も言ってたけど、……ちょっと乱暴だね?」
「仕方ないさ。朝になれば目覚めるくらいの強さで眠らせておいた。起きたら謝っておいてくれ」
そしてカレンはフローシュを連れ、静かに病室を出ていった。
ブロルはカイに布団を掛けてやり、側の椅子に腰掛けた。普段はしかめ面のカイだからか、力の抜けたその寝顔はどこか幼く見える。
「もっと子供らしく過ごしたかったね、君も僕も……」
呟きながら、首に掛けていた樹の破片を目の前に翳す。透き通ったその破片が、ランプの明かりに煌めいた。
不意に、ブロルの心がざわめいた。
(カイの魔力……、これに全部、奪われたりしてないよね?)