20、離脱
デマン家の朝はいつも通りの忙しさだった。昨夜の騒ぎは当事者たちしか知らないらしく、またレンダーも、何事もなかったかのように振る舞っていた。
しかしながら、セオが抜けた分の穴は大きかった。あの細い体でこの仕事量をこなしていることに改めて驚きながら、カイは早足に廊下を歩く。そこへフィルが駆け寄ってきて、隣に並んだ。
「奥様に聞いた。昨日は、マスロ家の文学サロンに行ったそうだ」
フィルが小声でそう言うと、カイはいつものように眉根を寄せた。
「文学サロン? 暇な貴族が集まって、中身のないお喋りをするっていう――」
「その言い方はやめろ。それよりもだ、そこにはセレスタ・ガイルスの妻と執事が来ていたらしい」
カイは目を見開いた。
「セレスタの? もしかして、その妻か執事のどっちかが、セオに魔術を掛けた犯人か」
「妻ではないだろう。あれは家柄が良いだけの、ただの世間知らずだと奥様も言っていた」
「結構、言う人なんだな……。じゃあ、執事か」
「ああ、恐らく。話を聞く限り、その執事はミスター・レンダーとも顔見知りではあるらしい。彼を殺そうとする理由も、何かしらありそうだ」
フィルがそう言ったとき、遠くで玄関の呼び鈴が鳴っているのが聞こえた。
「俺は奥様の所へ戻らないと。カイ、誰が来たのか、確認しておいてくれ」
「分かった」
カイは玄関へと急ぐ。扉が見える位置で柱の陰に身を潜めていると、レンダーが階段を駆け降りてくるのが見えた。
彼が扉を開けた先にいたのは、上品な身なりをした20歳くらいの青年だった。彼は礼儀正しく帽子を取り、レンダーに微笑む。もしや第二隊の隊員かとカイが思う程度に、青年の顔は整っていた。
「ご無沙汰しております、ミスター・レンダー。アルノ・ワースです」
青年の言葉に、レンダーが目をしばたく。
「アルノお坊ちゃんでしょうか。これは、ご立派になられて……。最後にお会いしたのは」
「5年前かな。変わりないようで安心したよ、レンダー。今日は突然だけど、ユーゴに会いに来たんだ。手紙のやり取りだけでは、友情も薄れてしまうというものだからね」
アルノは親しげに言葉を崩す。以前からこの家とは親交のある人物なのだと、カイにもなんとなく分かった。ユーゴとは、フローシュの兄だ。
「ユーゴ様もちょうど、いらっしゃいます。喜ばれると思いますよ」
レンダーは微笑み、アルノの横で静かに立っている執事に顔を向けた。こちらも、実に見目麗しい男性だ。
「私の記憶が正しければ、初めてお会いしますね」
「ワース家の執事をしております、カレン・イリーです。初めまして、ミスター・レンダー」
カレンに差し出された握手の手を取り、レンダーは言った。
「お会い出来て光栄です、ミスター・イリー。さ、アルノお坊ちゃんも中へ」
レンダーは二人を伴って階段を上がっていく。途中、不意にカレンが振り返り、柱から顔を覗かせていたカイと思い切り目が合った。
ぎくりとしたカイだったが、カレンは間違いなく、彼に向かってウインクしてみせたのだった。
温かな陽射しに反して冷たい風が吹く中、中央1区の外れにある共同墓地にエヴァンズ・ラリーの棺はひっそりと埋葬された。葬儀も無ければ、墓穴に花を投げ入れる者もいない寂しい埋葬だ。
エヴァンズには親類縁者と呼べる者がほぼいなかった。唯一見付かった親類も埋葬に立ち会うことは拒否したため、仮の第四隊長となったブライアンと部下数名が立ち会う次第になっていた。
「あんなの、掘り返されて、荒らされてしまえばいいんですよ」
墓堀人が棺に土をかけていくのを見ながら、隊員の一人が暴言を放った。今までの鬱憤は相当なものであったらしい。
「やめなさい。生前どんな人間であろうと、死者は冒涜すべきではないよ」
ブライアンは諭すように言うが、それが上辺だけの言葉であることは自分でも分かっていた。彼自身、エヴァンズは死後ですら冒涜されるべき人間だと思っているからだ。隊員もそれを感じ取ったのか、それ以上は何も言わなかった。
彼らは墓地を後にし、本部へと戻った。ブライアンは埋葬が終わったことを報告しに、イーラの元へ向かう。
隊長室の机の向こうで椅子にぐったりともたれるイーラは、姿勢を正す気力も無いようだった。今までに見たこともないその弱々しい姿に、ブライアンは少なからず動揺した。
「イーラ隊長、医務官を――」
「大丈夫だ。会話するくらいの元気はある」
イーラは疲れた顔で笑ってみせた。
「ここまでになってしまうと隠しようもないな。……とりあえず、報告を聞こうか?」
「はい。先ほど、エヴァンズ隊長の埋葬が終わりました」
「そうか、ありがとう」
そう言ってイーラは目を閉じ、深呼吸した。少し気力を取り戻したのか、彼女は椅子の背から体を起こし、ブライアンに向き直った。
「この話をするのはお前が最後だ、ブライアン。フィズやルースには、さっき話した。察しはついているんだろう、私が何か悪い病気なのだと」
「……はい。ただの疲労でないことは、見れば分かります」
イーラは頷き、単刀直入に言った。
「致死性刻時病だ。もう長くは持たない。座っているのもやっとの状態だ。従って、隊長の座もエスカに譲る。一大事が控えたこのタイミングで退くのは、私だって悔しいさ。だが、今の状況は病人が指揮を取れるような生易しいものではない」
「そんな……。長くは持たないなんて」
ブライアンは思わずそう口にしたが、弱音が溢れそうになるのだけは堪えた。イーラの覚悟は、彼女の目を見れば分かる。
「私がいなくても問題ないさ。お前もエスカも、ルースだって、既に隊を引っ張っている。自信を持て」
そう言われても、ブライアンの表情は晴れない。
「私は実力も統率力も、隊長たちには遠く及びません」
「誰だって最初はそんなものだ。確かに、隊長と副隊長では責任の重さが違う。それでも誰かがやらなければならないんだ。いいか」
イーラは机の上に身を乗り出した。
「隊長があのエヴァンズだったから、第四隊の副隊長はひっきりなしに変わっていた。だからお前は自信が無いんだろう。自分は、誰もやりたがらない役目を押し付けられただけだと」
ブライアンにとってそれは図星であり、返す言葉が無かった。イーラはじっと彼の目を見ながら、こう言った。
「勘違いするな。お前を第四隊の副隊長にしたのは私だ」
「イーラ隊長が……?」
「そうだ。エヴァンズの下でも、信念を曲げずにいられる人間だと思ったから。結果として正しかったじゃないか。第四隊が腐らずにここまできたのは、お前のおかげだ。髪がそんなふうになってしまったのは申し訳ないと思っているが」
イーラは決まりが悪そうに目を伏せる。ブライアンはおもむろにその白髪を掻き、力が抜けたようにふっと笑った。
「これは私も予想外でしたよ」
「だろうな」
イーラも笑い、椅子に背を預けて目を閉じた。
「私の責任でもあるから、元に戻るまでは見守らせてもらおう……」
「隊長?」
「すまない。レナを呼んでくれ」
そう言ったきり、イーラは静かな寝息を立て始めた。
ブライアンの連絡ですぐに、病院からレナと運び屋のオリエッタが来た。レナは素早くイーラを診察し、不安な顔で見つめるブライアンに言う。
「心配するな。燃料切れみたいなものだ。こいつはそんなに簡単にくたばる女じゃない。……行くぞ」
イーラを連れ、レナとオリエッタは病院へと消えた。