18、繋ぐ光
レンダーは妻が近衛団員であったという以上のことは語らず、床に横たわるセオのために、毛布を持ってくると言って部屋を後にした。
その背中をフローシュが涙目で見送っていた。やがて彼女はその瞳を、セオの側に膝を着くカイに向けた。
「当時のレンダーを見ていたから、私は知っているのよ。悪夢が起きて、彼がどれだけ辛い思いをしたのか。冷静に振る舞っていたけれど、人の見ていないところではこっそりと何度も泣いていたわ。でも、彼の気持ちが分かるだなんて言うつもりはないの。私には愛する人を失った経験なんて、ないんだもの……」
「経験しない方がいいですよ」
カイはフローシュから視線を逸らして、そう言った。
「絶対にしない方がいい。あなたみたいに優しい人なら、経験しなくたって人の痛みは分かるはずです」
その言葉を側で聞いていたフィルは、微かに表情を歪めた。父親も親友も、そしてセルマさえも失ったカイの気持ちは、察して余りあるのだ。
フローシュも何か察したように小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。
沈黙に包まれた部屋にセオの穏やかな寝息が響く。しばらくしてレンダーが毛布を手に戻ってきた。次いで、窓の外に人影が現れる。ベランダに誰か立っているようだ。
「ルカさん!」
フィルが駆け寄り、窓を開けた。するりと身を滑り込ませたルカは、驚きの表情を浮かべるレンダーとフローシュに一礼して言った。
「こんな場所から失礼致します。医務官のルカ・ミリードです。表玄関から入ると騒ぎになるかと思いまして。患者は」
ルカはセオに目を向け、素早く彼の側に寄った。そしてその腕を取り、フィルが掛けた魔力の封印の上から、更に魔術を掛ける。うっすらと浮かんでいた鷲の印が、今度はくっきりと赤くなった。
「思考操作の魔術はこれで大丈夫です。もう誰かを襲うということはないでしょう」
ルカはレンダーにそう説明してから、セオを詳細に診察する。痩せているのが少し気になったが、他に異常は無いようだった。
「特に問題ありませんね。じきに目を覚ましますが、操られていた間のことは覚えていないと思います」
レンダーは安堵の息を吐き、言った。
「その方がこの子にとってはいいでしょう。私も咎める気はありません」
「あなたも怪我をしていますよ」
ルカは立ち上がり、レンダーの側に寄って彼の手を取る。手の甲の切り傷をルカが指先で一撫ですると、傷は跡形もなく消えていた。
「凄いですね、魔術というものは……」
レンダーは自分の手を見つめ、独り言のように呟いた。フローシュが一瞬、悲しげに唇を噛んだのを、カイは見逃さなかった。
ルカがレンダーに事の詳細を説明し、カイたちに潜入続行の指示を伝えて本部に戻った頃には、既に日付が変わっていた。
魔術が解けたとはいえセオを一人にするのは不安だったので、カイは自分のベッドに彼を寝かせ、目が覚めるまでフィルと交代で見守ることにした。
初めはレンダーが自分の部屋にと言ったのだが、それでは彼が休む暇がない。疲労困憊で倒れてしまっては大変だ。使用人を束ねる彼がいないとデマン家の仕事が回らないのは、カイもフィルも、この短期間で身に染みていた。
「魔術を掛けた犯人は、最初からミスター・レンダーを襲わせるつもりだったのか、それとも屋敷の人間なら誰でも良かったのか、どっちなんだろう」
フィルが自分のベッドに腰掛けながら、ぐったりと椅子にもたれるカイに尋ねた。
「セオはわざわざミスター・レンダーがいる部屋に入って行ったんだから、前者だろ。思考操作の魔術が使えて、なおかつ、このタイミングで彼を消したい人間って……」
カイは眉間に皺を寄せた。フィルも難しい顔で答える。
「恐らく魔導師として登録されている人間ではないって、ルカさんは言ってたな。魔術の痕跡を登録簿と照合すれば、すぐに分かってしまうから。ミスター・レンダーも誰かに恨まれるような覚えはないって言うし、一体誰なんだ」
「魔導師ではないけど、魔力がある人間。思考操作が出来るなら、少なくとも魔術の基礎は学んでいるはずだ……」
カイははっとしたように顔を上げた。
「登録簿に登録されるのって、学院を卒業した人間だけだよな?」
「そうだけど」
「中退した人間は?」
フィルもカイの言いたいことに気が付き、目をしばたいた。
「もちろん登録されない。まさか、学院を中退した人間が犯人ってことか? ……範囲が広すぎる。俺たち、進級するときに学年の6割がふるい落とされてるんだぜ?」
「人に対しての魔術は二年生の中頃に習うだろ。少なくとも、そこまでは在籍していたはずだ。それなら絞れるんじゃないか?」
「なるほど。夜更かしすると頭が冴えるな」
フィルはにやりと笑い、早速ナシルンを呼び寄せた。
同時刻、本部の第一隊長室にはエスカとルースの姿があった。彼らの前の机には、分厚い魔導師の登録簿が置かれている。
エスカは手にした小瓶の中身を、登録簿の上に半分ほど垂らした。白い靄のようなそれは、セオに掛けられていた魔術の痕跡だ。
登録簿の表紙はひとりでに開き、次々にページが捲られていく。それは最後まで止まることなく、やがて、裏表紙がぱたんと虚しく閉じた。
「予想通りだ。犯人はこの中にはいない」
エスカがさも当然のように言い、小瓶の蓋を閉める。そのとき、フィルからのナシルンが二人の元に到着した。
メッセージを聞き取り、ルースにも内容を説明してから、エスカは呟いた。
「学院を中退した人間か……。あり得なくはないな」
「学院の過去の在籍者名簿は、本部にありますよね」
ルースが言った。
「あるにはあるが、この登録簿のように個々人の霊態は登録されていない。虱潰しに怪しい奴を拾い上げるしかないだろう。まあ、二年生の途中で辞める人間は中々いないはずだ。ある程度は絞れる」
「じゃあ、早速――」
部屋を出ようとするルースを、エスカは引き止めた。
「あのな、ルース。俺たちは副隊長、つまり指揮官だ。部下を上手く動かすのも仕事の内だぞ」
「……そうでしたね」
ルースは力が抜けたように、笑った。
「役目を忘れるところでした」
「現場で飛び回るのも悪くはないけどな。今は俺もお前も、役目に徹した方がいい。いざという時にくたびれ果てていたら意味がないだろう? 名簿の件は第二隊に任せろ。朝には結果が出るはずだ」
エスカは得意気な笑みを見せた。優秀な部下たちに任せれば、夜明け前には怪しい人物を絞れているだろう。
「分かりました。それと、一つ気になっているんですが」
「なんだ」
「デマン家の執事のレンダー氏は、悪夢で妻を失っていますよね。近衛団員だったと聞いています」
「言いたいことは分かる。ガベリア支部で俺たちが見た記憶、……あの中に出てきたチェルスという女性が、レンダー氏の妻なんじゃないか、ってことだろう?」
ガベリア支部に落ちていた近衛団のサーベル。そこに残されていた、悪夢が起きる瞬間の記憶のことだ。
ルースが頷いたので、エスカは続けた。
「その通りだと思う。当時ガベリアにいた近衛団員は、エイロンを除けば彼女一人だけだった。間違いないだろう」
二人はチェルスが最期まで誰かを守ろうとしていた姿を思い出し、それぞれに胸を痛めた。短い沈黙の後、ルースが口を開いた。
「僕たちが見た記憶を、いずれはレンダー氏に伝えるべきでしょうか?」
「それが慰めになるのか、傷を抉ることになるのか、……今の状況では後者だと思う。悪夢は、まだ完全には終わっていないんだから」
エスカはすっと息を吸い、その目に決意を浮かべた。
「悪夢を起こしたのはエイロンだが、彼一人の責任で終わらせることは出来ない。そこへ至るまでに、余りにも多くの悪意が積み重なっていた。セレスタを捕らえて、全てを明らかにする。出来るのはそれだけだよ、ルース。セルマはガベリアを甦らせ、リスカスに光を与えてくれた。ここから先は、その光を俺たちが繋いでいかないとな」