10、純粋
使用人部屋の少し固めのベッドに仰向けになりながら、カイは欠伸とも溜め息ともつかない長い息を吐いていた。
(忙しない1日だった……)
時刻は夜の11時を回り、カイはやっと従者の仕事から解放されたのである。夕食の給仕の手伝いやら後片付けやら、やることは山のようにあった。フローシュはカイに屋敷の手伝いはさせるなと言っていたが、どうもデマン家は人手不足で、そんなわがままは通らなかったようだ。
デマン家の屋敷には主人であるジェイコブ・デマンの他に、その妻と、長男のユーゴと妹のフローシュ、ジェイコブの弟夫婦とその娘が住んでいた。それだけで使用人たちが世話をする対象は7人だが、加えて客人の世話もしなくてはならないとなると、目の回る忙しさだった。
こっそりと本部に報告のナシルンを送って、あのごてごてした従者の服を脱いだ頃には、カイは気疲れでへとへとになっていた。
セオはあの細い体で毎日これをこなしているのかと思うと、尊敬の念が芽生えてくる。今日だって彼は、常に愛想よく、無駄な動きなく立ち回っていた。カイはといえば、グラスを一つ割ってしまい、執事のレンダーに顔をしかめられていた。
(少なくともあと一週間はこれが続くのか?)
そう思うとカイは暗澹たる気分になった。しかし、フローシュと共にファルンと闘うと言ったのは自分の口である。投げ出すことは出来なかった。
「あの人ね、今度のパーティーには気合いが入っているらしいわ。レクール家、あるでしょう? 近衛団長の家系。あちらのお嬢様を、何処かの男性とくっ付ける気でいるのよ。そうすればファルンは仲介料を取れる。あの人、本当にお金のことばかりね……。
そしてその男性はレクール家と繋がりが出来るし、もし子供が出来て、その子に魔導師になれるほどの魔力があれば、ね? 将来、その子は報奨金が貰えて、親はそのお零れに預かれるのよ。お互いに嬉しいことになるのだわ」
フローシュはパーティーについて、さらりとそう話していた。レクール家のお嬢様、とは、現在近衛団にいるウィラ・レクールのことだ。
「私、出来たらその計画を潰してしまいたいのだけれど」
フローシュはそう息巻いていたが、具体的な方法を考えているわけでは無さそうだった。カイはこのパーティーのことも合わせて本部に報告してある。
明日からどうしようかと考えていると、不意に、隣の部屋から咳き込む音が聞こえた。セオの咳に違いないのだが、それが中々治まらないので、カイは心配になってくる。どうも、同期のレフが極限状態になったときの咳の発作に似ているのだ。
カイはベッドを降り、部屋を出た。セオの部屋をノックするが、返事はなく、咳の音が聞こえるだけだ。
「セオ、入るぞ」
思い切ってドアを開けた。寝間着姿でベッド脇の床に座り込み、激しく咳き込むセオが目に入った。
「大丈夫か!」
カイは彼に駆け寄り、その背中をさすった。顔を真っ赤にしたセオは、苦しさのあまり涙を流しながらも頷いてみせる。
「とりあえず落ち着くんだ。ゆっくり数を数えて、ゆっくり……」
医務官がレフにそうしていたのを真似ただけだが、セオの咳は段々治まってくる。やっと普通の呼吸が出来るまでになると、セオはぐったりと背中をベッドに預けた。額には汗が浮かんでいる。
「……ありがとう、カイ。心配させてごめんね」
彼は弱々しい笑みでそう言った。
「謝らなくていい。咳が出るのは、いつもなのか?」
「そんなことはないんだけど。嫌なことを思い出したりすると、たまにね」
セオは目を伏せ、唇を結んだ。カイにはそれが、これ以上は話したくないという彼の意思表示に見えた。
「……水、持ってくるよ」
カイは立ち上がったが、セオは目を伏せたままだった。
廊下に出て、奥にある台所へと向かう。日中は人が忙しなく走り回っている厨房も、今はしんとしていた。カイは窓からの月明かりでコップに水を注ぎ、セオの部屋に戻る。
セオはベッドに腰掛け、俯いていた。視線はじっと床を見つめている。
「……どうぞ」
カイがコップを差し出すと、彼は顔を上げてにこりと笑った。
「ありがとう。カイは優しいね」
――優しい奴なんだな、あんた。私は友達でも何でもないのに。
出会ったばかりの頃、セルマに言われた言葉が頭に浮かぶ。
「……っ」
不意にずきりと痛んだのは、胸ではなく左の脇腹だった。オルデンの樹に刺された場所だ。カイはそこを押さえて、思わず顔をしかめる。
「カイ……?」
「大丈夫だ、何ともない」
背中に冷や汗が伝うのを感じながら、カイは無理矢理に笑顔を作った。幸いにも痛みは引いたようだ。
「夕食を食べ過ぎたのかもしれない。美味しかったし」
「それならいいんだけど……。慣れない場所で働いて、疲れてるんだよ。カイは従者として働くの、初めて?」
「うん。元々……逓信社の配達員だから」
逓信社はリスカスの郵便配達を担う公的機関だ。エスカから、そういう設定にしろと言われていた。魔導師はリスカスのほとんどの住所を覚えているから、怪しまれた時にも切り抜けられるだろうと。
「配達員かぁ。一日中走り回る大変な仕事だね」
セオはコップに口を付けてから、カイに椅子を勧めた。話をすること自体は、嫌ではないらしい。カイは彼と向き合うようにして椅子に腰掛けた。
「そうでもないよ。慣れればさ。……セオは、従者をやって長いのか?」
カイは遠慮がちにそう尋ねた。もしかするとそれが、さっき彼の言っていた『嫌なこと』に繋がるかもしれないと思ったからだ。
しかし、セオは特に表情を変えずに答えた。
「13歳からやっているから、3年かな? ここは二つ目のお屋敷なんだ」
「じゃあ、初等学校を出てすぐに?」
リスカスの初等学校は、基本的に6歳から12歳まで通うものだ。就職する者はそこで卒業だが、カイのように高等魔術学院やその他の学校に進学する場合は、追加で一年『予備課程』に通う必要がある。
平均して学年の半分は就職、半分は進学というのが現在のリスカスだった。セオのように、屋敷の使用人になる者は珍しくない。
「うん。僕みたいな孤児は、自分で稼がないと生きていけないからね」
セオはさらりと言った。カイの方が動揺したくらいだ。
「そうだったのか……」
掛ける言葉に迷い、そう言うしかなかった。
「こんな話を聞かされても困るよね。ごめん」
セオが申し訳なさそうな顔をしたので、カイは慌てた。
「そんなことはないよ。今まで色んな人の、色んな人生を見てきたから……」
それはもちろん魔導師として、なのだが、セオは配達員として経験したものだと捉えたようだった。
「街には色んな人がいるもんね。カイは優しいから、きっと、困っている人のことを他人事には思えないんだろうなぁ」
客観的に言えば図星だが、カイは無自覚だった。
「自分で優しいと思ったことはないけどな」
それが本心なのである。セオはくすりと笑った。
「本当に優しい人は、みんなそう言うんだね。ミスター・レンダーも同じだった」
確かに、レンダーは厳しくもあるが優しい人であった。グラスを割ったカイに顔をしかめはしたが、後でこっそり、落とさないように運ぶコツを教えてくれたのだ。
「彼は、ここで働いて長いのか?」
「15年以上にはなるんじゃないかな。お嬢様が生まれる前からいたみたいだし。ミスター・レンダーのお父様も執事で、ずっとここのご主人様にお仕えしていたみたい。お父様が病気で退任されてからは、ミスター・レンダーが代わりに、ということらしいよ。立派な人だと思う。僕はさ、いつかはあの人みたいになりたいな」
「執事になりたいってこと?」
「そう。従者も何年か真面目に勤め上げれば、執事になれるんだよ」
セオはまた、にこりと笑った。
「カイも目指してみたら? いい執事になれると思う」
「まさか」
誰かに仕えるなど、一番向いていない仕事だ。カイは苦笑しつつ、純粋なセオに対して身分を偽っていることに、ちくりと胸が痛んだのだった。