9、ご主人様
ルースの言葉を聞いたエスカは数秒黙り込み、視線を遠くに遣った。記憶を辿っているらしい。しばらくしてから、彼はこう言った。
「確かにな。被害者はロイ・エラン、加害者はケース・リービー。この盗難届にある名前と一緒だ。だがな……、ロイの方は年齢が矛盾するぞ」
エスカは指先で、空中に青白く発光する文字を書きながら話す。
「被害者のロイ・エランは現在37歳だ。獄所台へ行けるのは、魔導師歴20年以上の人間だけだろう? つまり、彼らが獄所台へ行った9年前、ロイは28歳、魔導師歴はまだ12年ということになる。あり得ない。俺が見た異動の記録では、ロイ・エランはケースと同期の46歳のはずだ」
「じゃあ、盗難届を受理したロイと、今回ケースに襲われたロイは別人ってことですか? 同姓同名?」
ライラックが困惑する。
「現状、同姓同名としか言えないが……、偶然とは思えないな」
エスカは既にナシルンを呼び寄せていた。
「襲われたロイ・エランは幸いなことに、まだ中央病院に入院中だ。話を聴くチャンスがある」
メッセージを吹き込んで飛ばすと、彼は不意に顔をしかめて指先で目頭を揉んだ。ルースが心配そうに尋ねる。
「大丈夫ですか、エスカさん」
「心配するな。俺だって、頭を使い過ぎれば目の奥が痛くもなるさ」
そう言って笑った。今はイーラの病気のことに加え、他にも色々と抱え込んでいることは伏せておくしかない。信頼する仲間とはいえ、今は話すべきときではないのだ。エディトはじっとエスカの横顔を見ていたが、何も言わなかった。
「……さて、まだライラックに説明していないことがあったな。1ヶ月前にユフィさんの店で起きた盗難事件、あれはエイロンの差し金だと俺は思っている」
「あっ」
ライラックが何か気付いたように声を上げる。
「つまり、セレスタに対する挑発ですか? あの店で何か事を起こせば、あそこにスター・グリスを隠しているセレスタはじっとしていられるはずがありません。エイロンが生きているうちは下手な真似は出来なかったでしょうが、死んだと分かった今なら……」
「ああ。セレスタはまずエイロンが生きていることを同盟経由で知り、その後にユフィさんの店で窃盗事件が起こったことを知る。彼は絶対に無関係とは考えない。その時点で、彼が保管していたはずの盗難届はエイロンに盗まれていたわけだから。
エイロンは一か八かの賭けで、あそこに盗難届を隠したんだ。全ての証拠がセレスタの手に渡るか、真相に辿り着いた俺たちの手に渡るか、というな。今回は俺たちの勝ちだったな。お前たちが文句も言わず、すぐに向かってくれて助かったよ」
一歩遅ければ、あの襲撃犯たちがスター・グリスと盗難届を手に入れていたかもしれないのだ。エスカが一息吐いたそのとき、ナシルンが飛んできて彼の肩に止まった。
「……襲撃犯について、スタミシア支部からの連絡です。先程尋問が終わりましたが、彼らは同盟の人間ではなく、ただの雇われ人だそうです。正体不明の男に金を積まれたと。二階にいるユフィさんを縛り上げた後、店に爆弾を仕掛け、導火線を窓から外に出しておけと指示を受けたそうです。ところが中にライラックたちがいたので、驚いて手元が狂い、爆発させてしまったと」
エスカの言葉に、エディトはしばらく考える素振りを見せてから、こう言った。
「ライラック、爆発の規模はそれほど大きくなかったのですね?」
「ええ。店は原型を留めていますし、私もかすり傷程度です」
「爆発の後は煙が凄かったと聞いていますが」
「視界が真っ白でした。恐らく、ゲボンの精製油を使ったんでしょう」
ゲボンという植物から精製した油は、燃やすことで煙幕効果を得られるのだ。同じく煙幕効果のあるジヤギスの精製油とは少し違って、意識を奪う効果はない。
「なるほど。……あの現場の近くには、セレスタの手の者がいたはずです。頃合いを見て導火線に火を点け、店を爆破する。そして煙に紛れてスター・グリスを回収する。爆破という手段を取ったのは、煙幕を作るためと、床板を剥がす手間を省くため。それと、床下から何かを回収したという事実を自警団に明かさないためです。
セレスタは、既に我々が彼に辿り着いていることを知らなかったのでしょう。自分の正体を隠すために素人を使わざるを得なかったとはいえ、我々のことを知っていたのなら、こんな浅はかな計画は立てないはずです」
エディトは窓の外に目を遣った。そこには静かな夜の闇が広がっている。
「しかし、今回の件で向こうにも分かってしまいましたね。さて、次はどう動いてくるか……」
「ご主人様、お食事の準備が整いましたが」
自室で窓の外を見ていたセレスタに、執事のマルク・ワイスマンが声を掛けた。40歳は確実に越えているが、年齢不詳の感がある男性だ。身なりも容姿も上級の使用人として申し分なく整っているが、その少し落ち窪んだ眼窩に光る目は、不穏なものを感じさせなくもない。
「悠長に食事をしている場合か、マルク」
セレスタは振り向き、彼に冷めた視線を送った。
「あれは自警団の手に落ちた。エイロンが仕組んだことか……? 奴らは遅かれ早かれ私に辿り着く、もしくは既に辿り着いているだろう」
無論、あれとはスター・グリスのことだ。マルクもそれを分かっているようで、小さく頷いてから答えた。
「しかし、分かっておいでなのでは。彼らはご主人様に手を出すことは出来ません。現行犯でもない限り、元近衛団長であるあなた様を確保することは不可能です。王族を連行するようなものですから」
「気休めが上手いな、マルク」
セレスタは鼻で笑うが、マルクは表情一つ変えずに言った。
「事実でございましょう。あちらがどれだけ証拠を集めたところで、ご主人様が自白しない限りは、獄所台に送ることは出来ない。そしてその自白を取るための尋問も、ご主人様には拒否する権利があります。自警団は所詮、自警団なのですから」
「……お前が近衛団にいたなら、私ももっと動きやすかったんだがな。なぜ魔術学院を中退したりした? 無事に進級も出来ていたんだろう」
「正しい人間に囲まれていると、吐き気が致します」
マルクは見る者をぞくりとさせるような、冷たい笑みを浮かべた。
「ご主人様の下で働く方が、魔導師として人に誉め称えられるより、よっぽど光栄だと感じております」
「世辞はいい。今後はもっと慎重に動け。私の権威がなければ、お前はいつでも自警団に連行される立場だ。それと、同盟の動きも控えさせろ。今は自警団も目を光らせている」
「かしこまりました、ご主人様。……ときに、ファルン様のことなのですが」
「なんだ」
セレスタは眉をひそめた。マルクが息子のことを話すときは、いい話だったためしがないのである。
「一週間後にパーティーを予定されております」
「またあの下世話なやつだろう。やめさせられないのか? ガイルス家の品格が落ちる」
ファルンの開くパーティーとは、表向きは社交の場だが、実際はやんごとなき身分の独身男性たちが結婚相手を探すためのものである。長いことセレスタは黙認して来たが、一年に一回が半年に一回になり、今では二ヶ月に一回になっていた。それは流石に多すぎる。
「しかしながら需要があるのです、ご主人様。先々月は2組、縁談が纏まっておりますし」
「今は誰であれ、他人を屋敷に招くのは危険だ。特に、ユーシアの存在が自警団に伝わると厄介なことになる」
「パーティーの間、彼女はいつも地下に押し込めてありますが」
「今後はパーティー以外もそうする必要があるかもしれない。いや、彼女が部屋から出る元気もない……のならそれでいいんだがな」
含みを持たせた言い方で、セレスタはマルクに視線をくれた。
「……かしこまりました」
マルクは深々とお辞儀し、部屋を後にした。