15、再び
13歳、高等魔術学院に入学したルース・ヘルマーは早々に挫折を味わいそうになっていた。
「気を抜くな! やり方は教えたはずだ。集中しろ、さもないともっと重くなるぞ!」
学院の校庭で、教官が新入生たちを相手に怒鳴り散らしている。入学翌日に彼らに課されたのは、10Kgの重りを背負って走る訓練だった。魔術を使って軽量化すれば、何のことはないただの持久走だ。
だが、疲労が溜まれば集中力は落ちてくる。集中力が落ちれば魔術は解け始め、重さはどんどん増してくる。まさに地獄のような訓練だった。
「どうした、家に帰りたいか? 構わんぞ、着いてこられないなら帰れ! クソガキどもが!」
教官の口の悪い檄が飛ぶ。生徒と共に走る彼の背にも、50Kgの重りが背負われていた。しかし、彼の精悍な顔には汗すら浮かばず、その重さを感じさせない足取りで歩を進めている。
ルースは歯を食いしばって堪えた。ただでさえ家族に心配をかけているのに、こんなところで諦めるわけにはいかない。
何とか集中力を保ち、重さを削ろうとする。50人いた新入生は次々と脱落し、グラウンドに残っているのは既にその3分の2程度だ。
「終了! 最後まで残った者は集合!」
教官が笛を吹き、皆、満身創痍で教官の前に整列した。
ルースの前に、赤毛の女子生徒が並んでいた。顔を真っ赤にし、肩で荒く息をしている。今にも倒れそうだと思って見ていると、彼女は口元を手で押さえ、突然しゃがみ込んだ。
ルースは目を見開いた。彼女が押さえた手の隙間から、血が溢れてきたのだ。
「えっ、……教官! ダイス教官、大変です!」
ルースは大慌てで教官を呼んだ。
「何事だ! ……なんだ、鼻血か」
駆け付けてきた教官は焦ることもなく女子生徒の前に屈み、顔にすっと手を翳す。女子生徒がおもむろに手を離すと、驚いたことに、もう出血は止まっていた。
「具合は大丈夫か? 大丈夫なら立て、ミネ・フロイス」
その女子生徒、ミネはすぐに立ち上がった。
「よし。……拭いておけ、返さなくていい」
教官はポケットから紺色のハンカチを出すと、それをミネに押し付けて去っていった。意外と優しい教官なんだ、と見ていた生徒たちは驚いていたが、恐ろしいので口には出さなかった。
「大丈夫……?」
ルースは小声で聞いてみた。ミネは血で汚れた口元を拭きながら、恥ずかしそうに笑う。
「うん。教官呼んでくれて、ありがとう」
そう言って、ハンカチを大事そうにポケットへ入れたのだった。
学院の寮は二人部屋だった。ルースの相棒はクラウス・ヴィットだ。彼は話が上手く、割と大人しいルースでも初日から仲良くなっていた。
「いやー、初日からあの訓練はきつかったな。死ぬかと思った。大丈夫か、ルース」
ベッドに倒れ込んで動けないルースに比べ、クラウスはまだ余裕がありそうだ。黙々と、入寮したばかりで散らかっている部屋の片付けをしている。
「これ、大丈夫に見える……?」
弱々しい声で尋ねる。
「見えない」
クラウスは快活に笑った。裏表がなくて、気持ちのいい人だとルースは思う。これから2年間共に生活するのだから、これは運が良かった。
「にしても、あの子、鼻血出すまで頑張るなんてすごい根性だよな」
ミネのことを言っているのだろう。ルースは少し顔をしかめた。
「あんまり言わない方がいいよ、鼻血なんて……。女の子なんだから」
そう言うと、クラウスはにやけ顔を隠さずにルースを見た。
「優しいな。あの子のこと、好きになった?」
「え?」
「ルースの好み? なんか分かる気がする」
「違うって……」
否定すればするほど勘違いされそうで、ルースは答えに窮した。別に惚れてなどいない。ただ、可愛い人だと思ったのは事実だ。
「明日話し掛けてみようぜ。な?」
「いいって、別に」
止めるだけ無駄だった。翌日、クラウスは早速ミネに絡んでいったのだ。
それが切っ掛けで、三人は徐々に仲良くなっていった。ただ、月日が経つにつれ、ルースはミネからクラウスに向けられる感情がもはや友情ではないことに気付いていた。
彼はどこかやるせない気持ちを抱えていた。クラウスが鈍感で、ミネの気持ちに全く気付かないからではない。
秘めた思いを明かせないまま、三人は無事に二年生に進級した。
「お前らもついに二年生か。クソガキが成長したものだな」
一年次の担任教官――エイロン・ダイスは、廊下で顔を合わせたルースにそう声を掛けた。
「教官にはお世話になりました。ダイス教官が担任じゃなかったら、僕は今頃ガベリアに帰ってます」
ルースは微笑んで、軽く頭を下げた。本心からの言葉だ。
「俺のおかげだと思っているなら、とんだ勘違いだ。そんなにお前らに目を掛けたつもりはないからな」
鼻で笑いつつも、エイロンの目の奥には優しさが垣間見える。
「まあ、俺もあと少しで学院を去る。思い出にはなったぞ」
「え? どういうことですか?」
「俺はそもそも臨時で雇われた教官だ。3年契約でな。お前たちの進級を見届けたら近衛団に戻るつもりだった」
ルースは目をしばたいた。寝耳に水の情報だ。
「そんな……」
「寂しいか? 甘ったれた野郎だな。そのままじゃ卒業も危ういぞ」
エイロンは笑い、ルースの肩を叩く。
「無事に卒業出来たら、いつか魔導師として会おうじゃないか。旨い酒でも飲みながら、お前の苦労話でも聞かせてくれ」――
「それ、いつも持っているな。お気に入りか?」
ミネがおもむろにポケットから取り出した物を見て、フィズが言った。紺色のハンカチだ。
「大切なものなんです。これを見たら、辛いときでも励まされるような気がして」
ミネはそれで目頭を押さえた。ルースの無事が分かり、ほっとして涙が出てきたのだ。
「泣いている場合ではないですね。私は私の仕事をしないと」
「そうだな。俺からの情報で元気が出たなら何よりだ」
フィズが表情を弛めたそのとき、第三隊の副隊長が小走りにやってきた。
「隊長、上長会議の準備が整いました」
「分かった、すぐ行く。じゃあ、ミネ、くれぐれも無茶はするなよ」
そう言って、フィズは早足に大会議室へと向かった。
会議室に入るなり、フィズは舌打ちをする。スタミシアも含めた各隊の隊長、副隊長が勢揃いして円卓を囲む中に、ロットの姿があったからだ。
一体どの面下げて、と飛び掛かりたいのをぐっと堪えて、フィズは冷静に話す。
「おい、ロット。納得のいく説明をしろ。お前の単独行動で何人も怪我人が出ている。何が起きた? ルースは誰に襲われた? なぜ巫女の洞窟にいるんだ」
ルースの霊証を確認するため、第一隊の隊長室に忍び込んだことは隠そうともしない。他の隊長や副隊長たちは、巫女の洞窟という言葉にややざわめいた。
「それをこれから、皆に説明するところです。お怒りなのは分かりますが、どうか」
ロットは手で椅子を示した。フィズは何か言いたげな表情のまま、どさりとそこに腰掛ける。
会議室が異様な緊張感に静まったところで、ロットが立ち上がって口を開いた。
「皆、揃いましたか。本題に入りましょう。ガベリアの巫女の首飾りが見付かりました」
先程よりも大きいざわめきが起こる。
「滅びたはずではないのか」
隊長の中では最年長である、第四隊のエヴァンズが言った。萎びた老齢の容姿に反して、その身から放たれる威圧感は相当なものだ。
「そんなものは存在するわけがない」
「いいえ、存在したのです。私がこの目で確認し、キペルの巫女イプタに渡しました。彼女は、間違いなくガベリアの巫女のものだと」
どこで、誰が見付けたのか、と質問が飛ぶ。エヴァンズは眉間に皺を寄せた。
「まだ巫女に謁見しているのか。貴様はもう近衛団の団員ではないだろう」
「おっしゃる通り。ですが、悲劇が繰り返されようとしているときに、そんなことを気にしている場合でしょうか」
「悲劇?」
「はい。説明しますから、皆、どうか口を挟まずに。首飾りを拾ったのは、セルマというスラム街の少女です。おそらく16歳。彼女が首飾りを持っているのを、偶然、我が隊のルースが発見した。そして保護し、本部へ連れてきた。
医務室で彼女が話したことを要約すると、首飾りはカムス川周辺で拾い、それを手にした際、ガベリアの悪夢の光景を見た。
加えて、セルマは寝言でこう呟いたそうです。『グベルナ・クアブス・ターアル・ニアコ』と。イプタによると、これは古代ガベリア語。意味は……」
全員の顔を見回してから、ロットは言った。
「ガベリアの悪夢は再び来たれり」