7、悪人
フローシュの口からセレスタ・ガイルスの名が出てきたことに、カイは驚愕していた。しかも、その息子ファルンに彼女は狙われていると言うのだ。
「どういうことですか?」
カイが尋ねると、フローシュは一度ドアに寄って聞き耳を立て、椅子に戻ってきた。そして声を潜める。
「今から言うこと、誰にも言わないで、自分の胸に秘めておいて下さる?」
「はい」
フローシュはカイの目をじっと見て、そこに嘘が無いことを確認してから話し出した。
「順を追って話すわね。まず、私はファルン・ガイルスの婚約者なの」
「え。フローシュさんて、いくつですか?」
結婚するにはまだまだ若いように見える。リスカスでは、男女共に最低でも17歳を越えなければ結婚は認められない。
「15歳。だからまだ、結婚せずに済んでいるの。あちらがずいぶん年上というだけで、私は結構嫌なのだけれど。だって36歳よ? 私のお母様と4つしか違わないなんて!
嫌な理由はそれだけじゃなくて、ファルンはきっと、この家の財産目当てだから。あの人には、彼のお父様のように莫大なお金を手に入れるあてが無いんですから」
カイが首を捻ると、フローシュはこう言った。
「近衛団長の一族に限っては、近衛団員になれば国王から報奨金が支払われるの、ご存知?」
「まあ、聞いたことはあります」
そんな下世話な話は、自警団の中でも口にする者は少ない。が、全くいないわけではないのだ。カイも小耳に挟んだことがある。幼い頃から全てをなげうって王族に尽くすのだから、当然といえば当然と思っていた。
「ファルンはね、魔力はあっても、魔導師になれるほどではないのよ。だから今は実業家をやっている。それなりに利益は上げていらっしゃるようだけれど、報奨金に比べたら、恐らくちっぽけなものよ。
あの人は私と結婚して、いずれはデマン商会を乗っ取るつもりだと思う。私の妄想じゃないわ。今だって少しずつ、ファルンが商会の経営に関わってきているの。あの人がやり手だということは認めます。実際、商会の取引先は増えている。でも」
フローシュは良家の子女がこんな顔をするのかと思うくらいに、顔をしかめた。
「あの人は悪人よ。見た目も良くて品行方正で、私にもとっても優しいけれど、少し話せば本性が透けて見える。それなのにお父様も周りの人たちも、爪の先ほども疑いはしないのだわ。私、このままだと気が狂いそうよ。
彼には何度も何度も、しつこいくらい、結婚の話はお断り申し上げました。それでも取り合ってくださらないから、この間ついに、私にはあなたが怖い人に思えますと言ってしまったの。一瞬だけれど、目の色が変わったのを見たわ。
そして今日、馬車の馬が暴れたでしょう。自分に歯向かうなというあの人の脅しに違いないわ。ねえ、カイ。信じて下さる?」
そう言って、じわりと目に涙を滲ませた。
「俺は信じますよ」
カイはそう言った。
「ファルン・ガイルスが、悪人だという話」
セレスタが近衛団長という役目の裏でクーデターを企てるような人間なら、その息子もなきにしもあらずだ。
フローシュはぱっと顔を輝かせて、カイの手を取った。
「あなた、やっぱり私の騎士だわ」
「その呼び方はちょっと……」
「あ、そうね。子供っぽいのは自覚しているつもり」
フローシュは咳払いをして手を離し、真顔に戻った。まだ話すことはあるらしい。
「ファルンが悪人だって思うのはね、私の単なる想像ではないのよ。あの人は二年前に恐ろしいことをした。私はそれを知っているの」
「恐ろしいこと、ですか」
「そう。私のお友だちに、ミミという女の子がいたの。ミミ・ベルシュ。ベルシュ家は何世代も続く名家よ。お父様同士の仲が良くて、ミミと私は同い年だし、小さな頃から良く遊んだわ」
そう言ってから、フローシュは一瞬、遠い目をした。
「ある日、私とミミがこのお屋敷で遊んでいるところに、ファルンがお客様としてやって来たの。そのときはとてもいい人だと思った。お話も上手いし、色んなことを知っていて、素敵な紳士だと。それから何度かお会いするうちに、私よりも、ミミが彼に懐いていたわ。二人でお散歩したり、出掛けたりもするようになって。
でもファルンが来てから、だんだんミミが大人びていくように見えて怖かった。ものの言い方とか態度とか、それももちろんなんだけど、女らしくなっていったというのかしら……。まだ13歳よ?
その内にね、ミミは私と遊ばなくなった。病に伏していると、ファルンから聞いたわ。それにしても長いことお見舞いも断られていたし、変だと思って、こっそり彼女のお屋敷に行ったら……」
フローシュは下を向いて両手で顔を覆い、黙ってしまった。
「無理に話さなくても。ファルン・ガイルスが危険だということは、分かりましたから」
カイはそう言ったが、フローシュは大きく首を横に振り、顔を上げた。
「駄目よ。最後まで聞いて」
強い意思がその目に燃えているようだった。カイが頷くと、彼女は続けた。
「ミミには会わせて貰えなかったから、私は外からこっそり彼女の部屋を覗いたの。彼女はそこにいたけど、……お腹が大きかったのよ。つまり病気ではなくて、身籠っていたということ。
私も馬鹿じゃないわ。そうなるには、必ず相手がいるということくらい、分かっていた。あなたにも分かるでしょうけど……もっと直接的に言った方がよろしい?」
「いや、大丈夫。分かります」
「そう。私は、その相手がファルンだと思った。そうだとしたら、ミミが大人びた理由も説明がつくでしょう? 以前からそういう……手を出されていたならって。ああ、もう。殿方相手に私、何てことを話しているのかしら。お屋敷の誰かが聞いたら卒倒するわね。私がどれだけ恥を忍んでいるか、あなたは分かって下さらないと駄目よ」
上流階級の人間、とりわけ女性がいわゆる性的な話をするのは、庶民がその話で戯れるのとはわけが違って、非常に恥ずべきことなのだ。むしろ禁忌ともいえた。
フローシュがそこまでして話すのは、ひとえにファルンに関する真実を伝えたいからなのだと、カイも理解していた。
「俺は魔導師としてあなたの話を聞いていますから、恥じる必要はないですよ」
「そうね、今さらだったわ」
力が抜けたように笑い、彼女は続けた。
「ベルシュ家みたいに立派なお家で、未婚の、しかも13歳の娘が身籠ったなんて、とんでもない話でしょう? だから隠すことにしたのよ。ミミはきっと、相手がファルンだってこと、黙っていたと思う。本当に惚れているみたいだったから」
「でも、親しくしていたのを周りが知っているなら、疑われて当然なんじゃ?」
「疑ったとして、言えると思う? 近衛団長の一族に泥を塗るなんて、王族に泥を塗るのと一緒よ。普通なら恐ろしくって、出来ないわ。
何にも出来ないうちにミミは子供を産んで……、いえ、産めなかったのね。赤ん坊が引っ掛かって出てこなくて、その内にどちらも死んでしまったわ。ずいぶん苦しんだって、ミミのお世話役がこっそり、泣きながら教えてくれた」
フローシュはそこで、大粒の涙を溢した。
「子供が子供を産むのは危険だって、後から知ったの。ミミみたいに赤ん坊が引っ掛かったり、体が耐えられなくて死んでしまうって。大人のファルンが、それを知らなかったはずがない。それなのに手を出して……。ミミはあの人に殺されたようなものだわ」
彼女は泣き叫びたいのを我慢しているのか、膝の上で、関節が白くなるほどきつく拳を握っていた。
カイはフローシュと初めて会ったとき、彼女が必死に自分の腕を掴んでいた理由が分かった気がした。
「私はファルンが怖い。一人で立ち向かうなんて、無理よ」
「じゃあ、一緒に闘います。あなたの従者として」
その言葉にフローシュが目をしばたいた、そのときだった。ドアがノックされ、外から女性の声が聞こえる。フローシュが返事をすると、一緒に馬車に乗っていた世話役の女性がおずおずと中に入ってきた。
「お嬢様……!」
泣き顔のフローシュを見て彼女は狼狽えたようだった。カイが何かしたと思ったのか、その視線が素早く彼に向く。
「ああ、アンナ。今ね、カイから感動的なお話を聞いていたところよ」
フローシュは椅子からすっと立ち上がり、凛とした顔をアンナに向けた。
「用件は何かしら?」
「お手紙でございます。ファルン・ガイルス様から」
アンナは一通の封筒を差し出す。
「またデートのお誘いかしら」
フローシュは微笑みながら受け取る。実に自然な態度だ。
「ファルン様はお優しいですからね。今度も、お嬢様が好きな舞台のお誘いではありませんか? お嬢様、以前はずいぶん楽しそうでしたもの」
なるほど、周りにはそう見えているのかとカイは思った。ファルンの本性とも、フローシュの本心とも真逆である。
「そう見えて? 冷静にしていたつもりが、隠し切れていなかったのね。ありがとう、下がって結構よ、アンナ」
アンナが一礼して部屋を出ようとしたところに、フローシュはこう声を掛けた。
「約束を忘れては駄目よ。カイが魔導師だということ、誰にも言わないように。破ったら、私と一緒に下着姿で街を走り回って頂くわ」
「とんでもない! 誓って、言いません」
恐ろしいものを見るようにフローシュを見てから、アンナはドアの向こうへ消えた。
フローシュは机からペーパーナイフを取り出し、手紙の封を切った。そして中の便箋にざっと目を通すと、眉間に皺を寄せてカイに差し出した。
「思い出したくなかったわ。パーティーがあるの。一週間後に、ガイルス家で」