5、私の騎士
デマン家はカイが見たこともないような大豪邸だった。荘厳な玄関を入ると、そこでパーティーでも出来そうなくらいの大広間が目に入る。使用人たちが忙しなく行き交い、帰ってきたフローシュに恭しく挨拶した。
カイは身分がばれないように、服をその辺の店で買った有り合わせの物に変えていた。私服を取りに一度本部へ戻りたいと言ったが、フローシュが許さなかったのだ。今のカイはどう見ても街にいる普通の少年で、使用人たちの怪訝な視線が刺さった。
「レンダー!」
フローシュが大きな声で誰かを呼ぶと、階段から執事らしき男性が降りてきた。燕尾服に白い蝶ネクタイで、夜の礼装だ。これから主人の夕食の給仕に当たる所だったのかもしれない。40代くらいとカイは見た。隙の無い雰囲気がどこか、近衛団のレンドルに似ている。撫で付けた黒髪のせいだろうか。
「フローシュお嬢様、遅いお帰りでしたね」
レンダーはそう言ってから、カイに会釈をした。彼の視線はほんの一瞬、顔をかすめただけだ。不躾な視線を相手に向けないのは、さすが上級の使用人だとカイは感心した。
「大通りで突然、馬車の馬が暴れたのよ。ああ、怪我はないわ。彼が助けて下さったの。カイ・ローリス」
フローシュは間違えたわけではない。わざと偽名にしたのだ。
「丁重にお礼をして差し上げてね。それと、彼は今日から私の従者よ。そのようにして頂戴。いい? 私の、よ。お屋敷の雑務なんか、あんまりやらせないで」
「かしこまりました」
レンダーはフローシュのわがままにも嫌な顔一つせず、軽くお辞儀をした。カイだったら絶対に口答えをするところだ。
不思議なのは、レンダーがカイのことについて一言も尋ねないことだった。突然連れてきて従者にすると言われたら、誰だってその人物を怪しむものではないのだろうか。
「準備が出来たら私の部屋へお願い」
フローシュは颯爽と去っていった。
「……では、こちらへ。カイ・ローリス」
レンダーは微笑み、優雅な動作でカイを案内する。大広間から繋がる長い廊下の壁には絵画や置物などが飾られているが、どれも屋敷の雰囲気に合うようによく吟味された物で、大富豪の家にありがちな下品さを少しも感じさせない。
辺りを見るカイの視線に気付いたレンダーが、こう言った。
「古いお屋敷ですから、手入れが大変なんです。雇用人は多いほど助かるのですが、きちんと仕事をしてくれる人を見付けるとなると、中々……。雇用人の管理責任は、全て私にありますから」
カイにも、執事というのは大変な仕事らしいというのは分かった。自分もその雇用人に入るのならば、少なくとも、彼に迷惑はかけないようにしたいと思った。
「ああ、忘れていました。私はこの屋敷の主人、ジェイコブ・デマン氏の執事をしております、ケビン・レンダーです。名乗りもせず失礼を」
レンダーはそれから少し難しい顔をした。
「あなたをお客様として扱うのか、従者として扱うのか、難しいところですね」
「従者としてで結構です。……あの、私のことを詳しく聞いたりはしないんですか? どこの誰だか知れない人間なのに」
カイは思わず聞いてしまった。レンダーは微笑み、こう答えた。
「フローシュお嬢様の人を見る目は確かです。それにこうして話しているだけでも、あなたが誠実な人だということは分かりますから。……ところで、馬が暴れたというのは?」
「詳しくは分かりませんが、誰かが魔術を使って馬を暴れさせたようです。自警団が調べています」
レンダーはさっと表情を険しくした。
「故意にですか。それはご主人様に報告しなくては……。とにかく、お嬢様を助けて頂いたことには感謝します。ありがとうございました」
「当然のことを……いえ、たまたまですから」
うっかり自分が自警団の魔導師だと言ってしまいそうになり、カイはひやりとしたのだった。
レンダーは廊下の右側にあるドアを開け、中へ声を掛けた。
「セオ、新しい仲間だ」
それからカイを部屋の中へ入れる。従者と思わしき少年が一人、テーブルでお茶をしていた。今は休憩時間らしい。彼は慌てて口元を拭って、立ち上がった。
アクセサリーとして連れ回される少年従者の例に漏れず、彼の容姿は美しかった。年はカイと同じくらいで、艶のある栗色の髪も、陶器のように滑らかな肌と紅い唇も、まるで人形のようだ。ただ少し細身で、病弱な雰囲気があった。
「食べこぼし」
レンダーが指摘すると、少年は立派に誂えた濃緑色の衣装の前を手で払い、クッキーの屑を落としながら苦笑した。
「彼はここの奥様の従者で、セオドリック・リブル。あなたの先輩になります」
レンダーが説明すると、セオはにこりとカイに微笑み掛けた。
「セオ、カイ・ローリスだ。今日からフローシュお嬢様の従者になる」
「よろしくね。僕もひと月前にここへ来たばかりなんだけど」
セオは握手の手を差し出す。カイはその手を取り、驚いた。恐ろしく冷たい手だ。
「カイ・ローリスです。よろしく……」
顔に出なかっただろうかと気にしながら、カイは手を離した。セオは微笑んだままだ。
レンダーはちらりと壁の時計を見て、早口に言った。
「背格好は同じくらいだから、今日のところはお前の服を一着貸しておいてくれ。使用人部屋に案内して、色々教えてあげて欲しい。着替え終わったら、お嬢様の部屋に。私はこれから仕事があるから」
「かしこまりました」
「食事はゆっくり食べるんだぞ、セオ。喉に詰まらせたら大変だ」
そう言い残し、レンダーは部屋を出ていった。
「……優しい人だよ、ミスター・レンダーは。安心していい」
セオはそう言って、テーブルからクッキーの乗った皿を取ると、カイに差し出した。
「どうぞ。僕、食べすぎるといけないから」
「そんなに細いのに?」
嫌なことを言ってしまったと思ったが、セオは気にしていないらしかった。
「こう見えて食い意地が張ってるんだ。君、お腹空いてるでしょう?」
「まあ、うん……。ありがとう」
カイは遠慮がちに、クッキーを一つ摘まんだ。さっきのレンダーの言葉といい、このセオも何か訳ありなのではないかと思いながら。
台所などがある屋敷の一角に、使用人の部屋が並んでいた。来訪者の目に付かない奥の方だ。部屋は余り広くはないが、暮らすのに不愉快ではない程度に調えてある。簡素なベッドが2つ並び、小さな机と、壁にはクローゼット。カイが案内されたのは、今は誰も使っていない部屋のようだった。
「カイはここを使って。僕は隣の部屋。今、服を持ってくるから」
セオはカイを部屋に残して出ていき、数分で戻ってきた。彼は手にした衣装をどさりとベッドの上に投げ出して、説明を始める。
「これがシャツ。首元にはクラバットを巻く。昼は色付きのもので、夜は白に変えるのがしきたりなんだ。で、これがベスト。上着には皺を作らないように。ズボンは、うーん、カイにはウエストがきついかなぁ……。とりあえず着てみて」
「あ、うん」
カイは言われた通り着替えようとして、ぎくりとした。首に魔導師の認識票を掛けたままだ。セオに見られるわけにはいかない。
「ちょっと、あっち向いててくれるか」
「意外とシャイなんだね。分かった」
セオはくすくすと笑って背を向けた。カイは大急ぎでシャツを変え、事なきを得た。従者の服は上着もズボンも濃緑色で地味だが、刺繍やボタンは金色で豪華だ。随分ごてごてしているなと思いつつ、セオに声を掛ける。彼は振り向き、カイの姿を眺めてにこりと笑った。
「大丈夫そうだね。似合ってるよ。でもクラバットは、こう」
カイが適当に巻いていたクラバットを巻き直して、セオはじっとカイの髪を見た。
「跳ねてる」
「癖毛なんだ。どうしようもない」
「でも、そのままだと従者として格好が付かないというか……。ちょっと待ってて」
セオはまた部屋を出ていき、櫛と小瓶を手に戻ってくる。
「僕はあんまり使わないんだけど、これで何とかなるかも」
小瓶に入っているのは整髪料らしい。セオはそれをたっぷりと手に取り、カイの髪に揉み込んで櫛を通す。カイは壁に掛かっていた鏡の前に立ってみて、思わず吹き出した。
「これ……」
七三分けがこれほど似合わないということがあるのだろうか。オーサンが見たら腹を抱えて笑うところだと思い、不意に胸がちくりと痛んだ。
「そんなに笑わなくたって。似合ってるよ?」
セオは大真面目に言った。少なくとも、カイを見慣れていない人間にとってはおかしくない姿らしい。
「行こうか。お嬢様が待ってる」
そして二人は部屋を出て、長い廊下を歩き、フローシュの部屋へ向かった。ドアの前まで案内すると、セオはまた後でと言ってその場を後にした。
カイがノックをする前に、ドアが開いた。
「あら、いいじゃない。私の騎士さん」
フローシュはさっきとは違う服に着替えて、まとめてあった鳶色の髪は下ろしていた。お金持ちの女性は一日に何度も着替えると噂には聞いていたが、それは本当らしい。
部屋にカイを招き入れ、ドアを閉めた途端、彼女は真顔になってカイに向き直った。
「強引にこんなことをして、怒っていらっしゃる?」
「……別に。何か事情があるのかと思ったので」
「さすがね。私、あなたが魔導師じゃなかったら、こんなふうにはしなかったわ」
フローシュは初めて会ったときとは違った顔を見せていた。夢見勝ちな少女ではなく、賢く、聡明な顔だ。
「守ってほしいと思ったの。だって、相手も魔力があるんだもの」
「どういうことですか?」
カイは怪訝な顔をする。フローシュは椅子に腰掛け、落ち着きなく自分の腕を擦った。
「私、狙われてるの。今日の馬車の事故だって、きっとあの人の仕業よ。ファルン・ガイルス。元近衛団長の、セレスタ・ガイルスの息子」