4、恋愛小説
夕闇の迫る頃、カイは北1区の墓地に来ていた。冷たい風が外套の隙間から入り込み、彼は小さくくしゃみをする。何度も死線をくぐってきたとはいえ、寒さに弱いのだけはどうしようもない。
オーサンを埋葬した場所には立派な墓石が建てられていて、そこには彼の名と共に『誇り高き息子、忘れ難き友』という言葉が刻まれていた。こんな時間の墓参りになったのは、カイがさっきまでキペルの街を巡回していたからだ。
ガベリアが甦ったことで混乱が起きていると思った街は、意外にも普段通りの生活を営んでいた。あちこちで話題にはなっているものの、勝手にガベリアへ行くと獄所台に送るという脅しが効いているのか、無謀な真似をしようとしている市民はいなかった。
第三隊と第四隊が市民に紛れて同盟の人間を捜索している間、カイたち第一隊の隊員数名は制服姿でわざと目立つように街を巡回した。同盟の注意を引き付けるためだ。おまけとして市民の気も引いてしまい、ガベリアについて質問攻めに遭いもした。
しかしそれが功を奏し、同盟の人間を何人か炙り出せたとフィズから聞いていた。少なくとも一週間以内に、掃討作戦を実行するとのことだった。
「まだまだ、ゆっくり悼んでる暇は無さそうだぜ」
カイは言いながら墓の前に膝を着き、そこに花を供えた。他にも何人か来ていたのだろう。既に色とりどりの花が置かれている。
「カイ」
名を呼ばれて振り返ると、そこに第四隊の同期、レフ・エイドがいた。首にマフラーを巻き付けた私服姿で、手には花束を持っている。レフと話すのは、ナサニエルに脅された彼がカイを誘拐した時以来だ。ただレフはそのことについて謝ったし、カイも恨んでいないから、二人の間にわだかまりはなかった。
「レフか。任務、終わったのか?」
「うん。夜の人に引き継いできたところ。……愛されてるね、オーサン」
レフはそう言って、手にした花束を供えた。それからしばらく目を閉じて祈りを捧げると、カイに顔を向ける。
「本部に戻るなら、一緒にどう?」
「そうだな」
二人は連れ立って墓地を後にした。夜闇に沈んでいく街に、ぽつぽつと明かりが灯り始める。仕事を終えた人々が路地を行き交い、賑やかなバル街に吸い込まれていく。平和そのものの光景だ。二人は屋根の上を本部に向かって走りながら、それを眺めていた。
「外出禁止時刻って、無くなるのかな」
レフが切り出した。ガベリアの悪夢以降、魔術による殺人事件が発生しはじめ、リスカスでは市民の夜11時以降の外出が禁止されていた。
「魔力の秩序が戻ったからな。もう魔術で人が殺されたり、傷付けられたりはしないはずだし。街から同盟が一掃されたら、なくなるかもしれない」
「頑張らないとね。一度は同盟に手を貸した僕が、言えたことじゃないけど」
レフは目を伏せた。まだ気にしているようだ。
「さっさと忘れろよ、そんなもん」
カイは笑い飛ばし、建物が途切れたので一旦地上に降りた。中央1区の端辺りだ。ここから本部までは10分とかからない。
人と馬車の行き交う大きな通りを横切り、また建物の屋根に乗ろうとしたときだった。背後で激しい馬の嘶きと、何人かの悲鳴が聞こえた。
二人が振り返ると、一頭立ての馬車の馬が激しく暴れている所だった。高級そうな馬車のキャビンは左右に大きく揺れ、車輪は今にも外れそうなほどに軋んでいる。前方の馭者台にいた馭者は既に、地面に放り出されていた。
「レフ、行くぞ!」
二人は馬車の元へ走った。カイがサーベルを抜く。馬と馬車を繋いでいる部分を切断すると、自由を得た馬は途端に走り出そうとした。
レフが悪戦苦闘しながら馬を宥め、馬の暴走事故という新たな問題は起こさずに済んだ。馭者は無事なようだったので、カイはキャビンの中を覗く。乗客はさぞや怖い思いをしたことだろう。
中にいたのはカイと同年代の少女と、その世話係と見える中年の女性だった。二人で抱き合い、怯えきった顔をしている。カイがドアを開けると、ひっと小さく悲鳴を上げた。
「大丈夫ですか? 怪我は?」
「だ、だい、じょうぶよ。何が起きたの?」
少女が舌をもつれされながら答えた。その品の良い身なりと口の利き方からして、どこかやんごとなき家柄の娘なのだろうとカイは思った。
「馬が暴れたんです。無事なら良かった」
そう言って、腰の抜けた馭者に手を貸そうとキャビンに背を向ける。
「ねぇ、あなた! 私の騎士!」
少女が声を上げ、カイはぎょっとして振り返った。私の騎士なんて台詞は、夢見勝ちな少女が読む恋愛小説にしか出てこない。
「は?」
「あなたが助けてくれたのでしょう」
少女は優雅な動作で馬車を降り、カイの前に立った。レフはきょとんとした顔でそれを見ている。
「お名前は? 自警団の方よね」
「……カイ・ロートリアンです」
「カイ、ね。私、フローシュ・デマンと言うの」
その少女、フローシュはカイの手を両手で握って、目を輝かせた。
「悪いようにはしない。あなた、私の従者になって下さらない?」
「何を言っているんですか?」
カイは真顔でそう返した。自分は魔導師だ。警護ならまだしも、誰かに付き従うために仕事をしているわけではない。
「とりあえず、馬が暴れた原因を調べないといけないので」
そう言って背を向けようとすると、フローシュは素早くカイの腕に抱き着いた。
「行かないで、お願い」
カイが驚きながら顔を見ると、彼女の目には涙が浮かんでいた。ただの泣き落としかと思ったが、指先が食い込むほど必死に腕を掴んでいるところを見るに、そうでもないようだ。何か事情があるのだろうか。
そうこうしている内に、二人の隊員がやってきた。レフがいつの間にか本部に連絡していたらしい。彼は隊員たちに状況を説明し、一人は馬の検分、一人はカイの方へ歩いてきた。
なんと、エスカだった。何故わざわざ彼が来たのかは不明だが、カイは心からほっとした。これで、とりあえずフローシュに腕は離してもらえそうだ。
「自警団のエスカ・ソレイシアと申します。お怪我はありませんか、ミス・フローシュ・デマン」
エスカは微笑みながらそう言った。大抵の人なら、恐らくはそれだけで彼に絆されるはずだ。
「あら、私をご存知なの?」
驚いた様子のフローシュだったが、残念ながらカイの腕は掴んだままだった。
「ストロオイルと言えばデマン商会ですから。リスカスで五本の指に入るくらいの利益を上げていらっしゃる。お名前は当然、存じ上げています」
エスカはすらすらと話す。ストロオイルとは、リスカスのほとんどの照明に使われる油のことだ。従来のように嫌な臭いが無く、煤も付かず、おまけに明るい。開発者のリバリストロ博士の名を取って、ストロオイルと呼ばれていた。
市場のストロオイルの8割は、そのデマン商会が扱っているものだ。カイも辛うじてそれを思い出した。
「……一度、私の部下を放して頂いても?」
困り顔のカイを見てエスカが言うが、フローシュは首を振って拒否した。
「この方、私の騎士なの。その勇敢さを見込んで従者になって頂きたいのだけれど、駄目かしら。あなた上官なのでしょ。許可して下さらない?」
「従者……、彼をですか?」
エスカはじっとカイを見た後、驚くべきことを言った。
「いいでしょう」
カイが目を剥いた。それには構わず、エスカが付け加える。
「が、しかし」
「何かしら」
「魔導師が警護ではなく従者として付くというのは、我々の沽券に関わります。つまり、彼が魔導師であるということは絶対に伏せて下さい。それを約束して頂けない限りは、許可出来ません」
「大丈夫よ。約束する。もし破ったら、私、下着姿で街を走り回ってみせても構わなくってよ」
フローシュはそう言ってのけた。世話係の女性が「お嬢様、とんでもない!」と悲鳴のような声を上げたが、彼女は毅然としていた。
意外と気骨のある少女なんだな、と感心している間に、カイがフローシュ・デマンの従者になることは決定事項になっていたのだった。