1、微笑みの下
「無事に、終わったか」
午後になって隊長室を訪れたエスカに、机の向こうからイーラが尋ねた。オーサンの埋葬のことだ。
エスカは彼女の机に置かれている毒々しい液体の入った瓶を見ながら、頷いた。
「はい、粛々と。……具合が良くないんですか、隊長。その飲み物、レナ医長が調合した栄養剤ですよね」
イーラは無言のままエスカを見つめた。それからすっと立ち上がり、応接用のソファに移動すると、正面の席を彼に示した。
「改まった話ですか?」
エスカは指示された通りに腰を下ろした。
「私が改まっていない話をしたことがあるか。……まあいい。時間がないから単刀直入に言う。お前に第二隊の隊長を引き継ぎたい」
「はい?」
流石のエスカも、思わず聞き返した。
「引き継ぎたい……って。あなたが隊長を辞めるということですか?」
「辞めざるを得ない。これから死ぬ人間が、隊のトップにはいられないだろう」
イーラは淡々とそう話し、エスカが口を挟む前にこう続けた。
「致死性刻時病。かなり進行している。私が思うに、3ヶ月持つかどうかだ」
「そんな……」
エスカは言葉を失った。博識な彼には、致死性刻時病がどんな病気なのか分かっていた。治療法がない、ということも。
「そんなに情けない顔をするな、エスカ。今すぐ代われと言っているわけじゃない。それに、お前なら出来ると見込んで――」
「違う。隊長が心配なんですよ、俺は」
エスカが少し強い口調で、イーラの言葉を遮った。
「隊長の役割をこなせと言うのなら、こなしてみせます。でもそれとこれとは別です」
「珍しく感情的だな。いつも気取っているくせに」
エスカは驚いた。歯が見えるほど大きく笑うイーラを見たのは、これが初めてだったからだ。いつもと違う彼女の態度は、死に臨む者の覚悟を感じさせる。第二隊に入って13年間、隊長としての彼女を見てきたエスカには、それで十分だった。
「……一週間くらいは、猶予がありますよね」
表情を引き締め、そう言った。
「話が早くて助かる。そうだな、病院のベッドから指示を出すことになるかもしれないが。第二隊の隊員たちをまとめるのは簡単だろう。今までと同じだ。隊長の仕事については、ここにまとめておいた」
イーラは目の前のテーブルに置いてあった赤い装丁の本を、こつこつと指で叩いた。それから目を伏せ、今までエスカが聞いたこともない台詞を言った。
「……すまないな、エスカ。お前に負担ばかりかけて。これから父親になるというのに」
「やめてください。隊長に謝られるなんて、怒られるより怖いですから。それに俺が子供なら、全力を尽くさない父親なんて、嫌です」
エスカは笑った。もし誰も見ていないのであれば、本当は泣きたい気分だった。自分がその強さに憧れた人の弱音ほど、辛いものはない。
イーラは視線を上げ、そんなエスカの心を読んだかのように微笑んだ。
「二度目はないから安心しろ。……さて、隊長の心得として一番大切なのは、よその隊長と仲良くすることだ。出来るな?」
「フィズ隊長以外となら」
エスカはさらりと言った。イーラが睨み付けた。
「冗談ですよ。で、目下の任務はありますか? 副隊長として最後の、という意味で」
個人的な感情はどうあれ、隊長になるという覚悟は決めていたのだった。
「これを」
イーラは上着のポケットから折り畳んだ紙を取り出し、エスカに渡した。
「読んだらすぐに燃やせ。私が7年間、守り続けた秘密だ」
紙を受け取ったエスカの顔が、驚愕の表情へと変わった。目が二度、三度とその文章を読み直す。やがて紙は燃え上がって消え、彼は視線を上げた。
「……つまり、隊長は二重に嘘を吐いていたと。俺に教えたということは、ついに、事が動くんですね?」
「ああ。覚悟は出来ているか?」
エスカは不敵な笑みを浮かべた。
「副隊長最後の仕事としては、悪くありません」
雑巾を絞る手はあかぎれだらけで、そこに冬の冷たい水がしみる。まだうら若いその女性、ユーシア・ラットンはバケツに映る自分の顔を眺めながら、あの人もこんな絶望の目をしていた、と思う。
王宮の地下、重々しい鉄の扉の隙間から、彼を見た。本来そこへ入れられるべき気の触れた王族でも、犯罪者でもない人物。9年前、第二王女の侍女見習いをしていた12歳のユーシアは知っていた。その人物が、王族を守る近衛団員であると――。
「ユーシア!」
苛立った声が彼女の名を呼ぶ。階段が抜けるかと思うくらいの足音を立てながら、家政婦長の女性が降りてきた。美人だが険のある顔をしていて、ユーシアよりはだいぶ年上だった。
「はい、ミセス・エコルド」
ユーシアは胃の痛む思いで彼女の前へ急ぎ、軽く膝を折って挨拶した。同じ使用人でもエコルドの地位は特別であり、屋敷の女主人と同等に接しなければならない。礼を失すると、どんな罰を受けるか分からなかった。
「ご主人様がお戻りになったのよ。部屋であなたを呼んでいる。その薄汚いエプロンは外しなさい、ボンネットも!」
エコルドはヒステリックな声を上げた。今日は殊に、虫の居所が悪いらしい。
「かしこまりました」
従順なユーシアの態度に溜飲が下がったのか、エコルドはフンと鼻を鳴らして去っていった。
屋敷の主人はこの一ヶ月近く、何処かへ姿を消していた。親戚の家だとか、旅行だとか噂されていたが、誰も詳しいことは知らないようだった。
ユーシアはエコルドに言われた通り、埃で汚れたエプロンとボンネットを外し、茶褐色の髪を撫で付けて身なりを整えた。この髪を「馬の鬣みたいで好きよ」と第二王女に誉められたのは、遥か昔のことだ。
愛らしいその王女のお世話をしているはずだったのに、何故自分はこんな場所にいるのか……。そう思いながらユーシアは階段を上り、主人の部屋の前に立った。ドアをノックすると、入れ、と短い返事が聞こえる。
「失礼致します」
ユーシアは部屋に入り、窓の前に立っているその男を見た。60歳は越えているはずだが、黒々とした髪やしゃんとしたその佇まいのせいか、年齢ほど老いては見えない。
冷たいものが背筋を駆け上がるのを感じながら、ユーシアは膝を折って挨拶した。
「お帰りなさいませ、ミスター・ガイルス」
「ああ。こっちへ」
セレスタ・ガイルスは微笑みながら、彼女を手招いた。
側に寄りたくない。ユーシアはとっさにそう思った。彼の笑顔は偽物だ。その後ろに、悪魔のような顔が隠れている。彼女はこの9年間、その悪魔に支配され続けてきた。
「ユーシア」
セレスタの微笑みが消える。同時に、ユーシアの顔が青ざめ、唇が震えだす。
「反抗は良くない。そうだろう」
「は……い……」
ユーシアの返事はほとんど声にならなかった。彼女はその場に硬直し、視線が宙を漂っている。端から見れば何が起きているのか理解出来ない光景だが、魔導師であれば、セレスタが彼女に尋問のようなことをしていると分かるはずだった。魔術で精神的に追い詰めているのだ。
「事実を整理しておこう。現状、思わぬ客人が来ないとも限らない。……お前は王宮の地下で、何も見ていない」
ユーシアは頷いた。
「この屋敷で働くことにしたのは自分の意思だ」
「はい、ご主人様……」
「私は良い主人で、お前には親切にしている」
「もちろんです……」
ユーシアの目からは涙が溢れ、呼吸は荒くなっていた。これが自警団の尋問であれば、即刻中止しなければならない状態だ。しかし、セレスタは続けた。
「お前は人見知りで、表には出たがらない。だからずっと、屋敷の中で過ごしている。外になど出るつもりがない。そうだな?」
「仰る通りです」
「いいだろう、行け」
魔術が解かれ、ユーシアは床にくずおれた。彼女は苦しい呼吸を何とか落ち着けて立ち上がり、逃げるように部屋を後にした。
地下にある粗末な自分の部屋で、ユーシアは鏡を覗く。絶望の目が見返してきた。
ここから逃げ出したくとも、ユーシアにはそれが出来なかった。セレスタによる長期間の躾が、彼女の思考から逃げるという選択肢を奪っていたのだった。
彼女はベッドに倒れ込み、ぼんやりと考えた。
(これはきっと天罰なんだわ。悪魔のやっていることを、私は何もせずに、ただ見ていただけなんだから……)