14、待ち人
「そんなことをしていると額が凍るぞ、ミネ」
廊下の窓に額を押し付けて固まっていたミネに、フィズは優しく声を掛ける。窓一面に付いた霜は彼女の額の部分だけ溶けて、そこから水滴が伝っていた。
人一倍に怪我が多く医務室の常連だった彼は、ミネが新人の頃から彼女を知っていた。そして、脚を失った経緯も、病院の精神棟で廃人寸前になっていたことも、全てその目で見てきていた。
すぐ側にある、第三隊の会議室に急ごしらえで作られた医務室からは、誰の声も聞こえなかった。既に夜も更け、皆、眠っているようだ。
彼らの治療を終えたミネは一睡もせず、かれこれ一時間はこうして窓の外を見ていた。
「……何か、ルースについての情報は」
「それを伝えにきた。さっき、第一隊の隊長室に忍び込んだんだがな……地図上にうっすらとあったぞ。ルースの霊証」
ミネは身を翻し、思わずフィズの腕を掴んだ。
「本当ですか。ルースは今どこに?」
「何も無い場所だ。俺が思うに……あそこはキペルの巫女の洞窟だな」
「どうしてそんなところに」
「消えていた霊証が再び現れたことを考えると、死にかけたルースを、巫女が助けてくれたのかもしれない」
オーサンとセルマの二人は、ラシュカに続いて王宮の奥へと進む。豪華絢爛な廊下と堅牢な扉をいくつか抜け、通路は地下へと続いていた。
「俺はここまでだ。中に入ることは出来ない。後は二人で行きなさい」
灰色の石扉の前でラシュカが振り返る。扉に刻まれた絵が、壁に掛けられた松明の炎に揺れた。真っ直ぐな太い幹に数多の葉を繁らせた大木だ。
「この扉が巫女の洞窟へ続いている。中は迷路のようになっているが、君なら正しい道が分かるはずだ」
セルマに向かってそう言うと、今度はオーサンに向き直る。
「確実に何かが起きている。恐らくは」
「ガベリアの悪夢に関して、だろ。別に俺は怖くないよ、パパ」
オーサンはあっけらかんとしていた。
「カイに言わせれば、俺はイカれてるらしいからね」
「無茶をするなよ。これでも心配しているんだ」
「俺がいつ心配させるようなことした?」
「いつでもだろう。さ、行きなさい」
ラシュカは慈しみのこもった目でオーサンの背中を押したのだった。
扉の向こうは漆黒の闇だった。しかしセルマが足を踏み入れた途端、それ自体が発光しているかのように、石造りの通路が淡い光に包まれる。天井は低く、幅は二人がやっと通れるくらいだった。通路はまっすぐに数メートル続き、その先は二手に分かれているようだ。
「なんだこれ。君、魔術使えたの?」
「ううん。私にも分からない……。とりあえず、急ごう」
セルマは先へと進んだ。分かれ道に差し掛かるが、不思議とどちらを選べば良いのか分かる。
「右だ」
「まじで?」
オーサンは半信半疑で着いていく。次の分かれ道も、セルマは迷わず進んでいった。まるで誰かに呼ばれているかのように。
小走りに進みながら、ふと、オーサンが尋ねた。
「今さらだけどさ、君って、何者?」
「そんなこと聞かれても分からない。私が知りたいくらいだ」
「生まれも育ちも、スラム街?」
ずけずけと聞いてくるオーサンに少し顔をしかめつつ、セルマは答えた。
「そう。物心ついたらあそこにいて、親が誰かも分からない」
「へえ。俺と一緒じゃん」
「一緒? だって、あんたの親って」
「パパは、俺の親じゃないよ」
ぎょっとするセルマを見て少し笑いながら、オーサンは続けた。
「俺は最初から父無し子ってやつだ。それに加えて、小さい頃に母親が病気で亡くなった。そして母親の友達が、パパに俺を預けた。パパはまだ23歳とかそれくらいだったかな。それでもこうやって育ててくれたんだから、感謝してるよ」
「本当に、全く関係がないのか?」
「それはそうだ。第一に、顔と性格が違いすぎる。君だって最初は驚いてたじゃないか。……性格という点じゃ、パパには相当な苦労を掛けたと思っている」
オーサンは若干、目を伏せた。
「君も見たかもしれないけど、俺は残虐なことをすると気分が良くなる性質でさ。物心ついた頃からそうで、自分じゃどうしようもない。小さい動物や近所の子供をいじめてはパパに厳しく躾けられてた。丸一日、納屋の柱に括り付けられたりね。
最初は叱られる意味も分からなかったけど、何度も何度もパパが諭してくる言葉を聞いているうちに、自分が悪いことをしているって分かるようになった。おかしいことなんだって。あのまま育ってたらどうなっていたか、ちょっと恐ろしいよな。今ごろ何か犯罪を犯して、監獄にいたかもしれないだろ?」
そう問われて、セルマは言葉に詰まった。自警団本部から脱出する際、屋上から飛び降りて怖がっている自分を見て、オーサンは楽しそうにしていた。嗜虐的な部分はまだまだ残っているんじゃないかと思ったのだ。
「俺が魔術学院に入って、パパは自分の手を離れたら残虐さが増すんじゃないかってかなり心配してたけど、大丈夫だった。カイがうるさかったからさ。俺がちょっとでも他人に危ないことをしたら、すぐ飛んできて説教だ。『お前、ちゃんと人間の心あんのか!』って。それで何回喧嘩になったことか……。ムカついたけど、あれが無かったら俺は魔導師になれてないかも」
「あの人は、優しい人だと思う。ちょっと生意気だけどさ」
セルマが思わずそう口にすると、オーサンは吹き出した。
「確かにそれはある。カイはチビで生意気な野郎だ。腹立たしいから剣術でこてんぱんにしてやったもんだけど、今じゃあいつの方が強いみたいだし。それで、学生時代はあいつがいたからましだったけど、自警団の第三隊に入ったらもう、気性の荒い奴ばっかりで。なんだったら俺より残虐な奴がいるくらいだ。最近そっちに引っ張られてるから、気を付けないと」
「自覚しているうちは大丈夫だと思うけど。……まだ着かないのかな」
いくつ目になるのか分からない分岐点で、セルマは足を止めた。まだまだ、出口らしきものは見えない。
「簡単に辿り着いたら駄目だろ。巫女の洞窟なんだから。でもなんか」
オーサンは深呼吸する。
「空気が変わったよな。澄んでるというか」
「綺麗すぎて、緊張する感じだ」
セルマはごくりと唾を呑んだ。進むべき道は左だと分かっているが、足がすくんでしまう。
『怖がることはない。急ぎなさい』
不思議な声が彼女の頭の中に響いた。それに背中を押されたように、セルマは駆け出した。
進むほどに深い霧が立ち込めてくる。それが自分の爪先すら見えない程に濃くなったとき、突如、視界が開けた。
「……!?」
二人は立ち止まって、その光景に目を奪われた。
洞窟の天井は遥か高く、空まで繋がっているかと思うほどに突き抜けている。そこから、太陽の光とは違う淡い光が射し込み、中央に鎮座する巨大な物体に降り注いでいた。
「あれって……」
セルマは思い出した。ここへ続く通路の石扉に描かれていた木だ。しかし、目の前にあるのは普通の木ではない。幹も葉も漆黒で、艶があるのだ。まるで――
「あの首飾りの宝石みたい」
「左様。あれは黒水晶の樹です」
先ほどセルマの頭の中に響いたものと同じ声が、真横から聞こえた。二人が慌てて視線を移すと、青いドレスのような装束に身を包んだ人物がそこに立っていた。
キペルの巫女、イプタだった。頭にかかる薄いベールの向こうには、十七、八歳くらいの少女の顔がある。銀色に輝く長い髪がさらりと揺れ、彼女はぴりぴりと肌に感じるような清廉な空気を放ちながら、二人に近付いた。
オーサンは少し引きつった顔で、片膝を着いて頭を垂れた。神聖なものに対する礼儀だ。セルマもそれに倣おうとしたが、イプタはその前にすっと手を伸ばして、彼女の頬に触れた。
「貴女を待っていました、セルマ。……巫女の器を持つ者よ」