39、二人の父親
「愛していたのに、暴力を振るったのか?」
ダリアを愛していたというナサニエルの告白に、ラシュカは当然の疑問を抱いた。彼の行為は、愛情の真逆にあるものだ。
「違う。愛し方が、分からなかっただけです」
ナサニエルは否定した。そしてすぐ、萎れた花のように頭を垂れ、こう続けた。
「言葉でどれほど愛していると言っても、体を重ねても、まだまだ足りない気がした。彼女を痛め付けることで、その足りない部分を埋めていたんです」
「歪んでいる」
残念ながらラシュカには到底、理解出来そうにない心理だった。
「そうでしょうね。とても、まともな人間とはいえない」
ナサニエルは自虐的に笑った。
「しかし、ダリアを痛め付けることで快楽を得たことは一度もない。それは本当です」
ラシュカはじっと、項垂れたままの彼を観察した。既に自警団の隊員から尋問を受けた今、彼が嘘を吐く必要はない。とすれば、今言ったことは真実なのだろう。
ダリアもまた、そんな彼を受け入れていた。ラシュカが彼女の働いていた娼館に話を聞きに行ったとき、彼女の仲間たちは口々に『ダリアは幸せそうだった』と言ったのだ。
――逃げなよって言ったけど、あの子は聞かなかった。
ダリアの友人であるカミラも、そう言っていた。
「それで、その内にオーサンが生まれたと」
「はい。最初は他の客の子供ではないかと疑っていましたが……赤子の顔を見て、私の子供だと確信しました」
その言葉を聞いて不意に叫びたくなったのを、ラシュカは奥歯を噛み締めて堪えた。頭では分かっていても、心で嫉妬が渦を巻く。目の前にいるこの男こそがオーサンと血の繋がった父親で、自分は、一時期を育てただけに過ぎないと。
「どう思った」
ラシュカは呻くように尋ねる。返答次第では、殴ってやろうと思っていた。
ナサニエルは顔を上げ、悲しげな微笑みを浮かべて言った。
「生まれて初めて、あんなに愛しい存在があることを知りました」
「それなら、どうしてダリアと一緒にオーサンを育てなかったんだ。金も家もあったはずだ。彼女の最期を知っているか? 娼館のような場所で働き続けたら、どうなるかくらい、分かるだろう」
冷静でいようと思っても、声には怒りが混じる。流石に、ナサニエルもそれに気が付いたようだった。
「あなたが怒るのも、もっともです。ですが、理解してもらえませんか。一緒にいれば、愛し方の分からない私はいつか、ダリアやオーサンを殺すかもしれない」
底のない暗い目が、ラシュカを見つめていた。
「だから去った。それだけです。金は定期的に送りましたよ。彼女は一つも手を着けていなかったようですが。銀行を調べてもらえれば分かります」
理解は出来ないが、ラシュカにとって納得のいく答えではあった。ナサニエルにとって愛情を補う行為が痛め付けることなら、いつか二人の命を奪う危険は十分にある。そうなる前に自制出来ただけ、良かったのかもしれない。
ダリアがその金に手を着けなかったのは、彼女なりのプライドがあったからか、オーサンの為に貯めておいたからか……。今となっては知るよしもない。
ラシュカは長く息を吐き、こう尋ねた。
「では、同盟に入ったのは何故だ。あなたは腐っても元魔導師だろう」
「自暴自棄、ですね」
感情のない声で、ナサニエルは言った。
「ダリアが死んでからは何年も、ただ自分が死なないようにだけ生きていた。そんな日々の中で、誘われたから、入っただけです。それは尋問でも話しました」
ラシュカはふと思った。彼がダリアの死を知っていたのなら……。
「彼女の墓は、もしかしてあなたが?」
「私以外に、誰が建てるというんですか。ダリアに身寄りは無いし、娼館の人間はそこで働く女性たちを物としか思っていない」
そこで初めて、ナサニエルの瞳が揺れた。やはり彼女を愛していたという言葉に、偽りはなかったようだ。
ラシュカは一度、彼から視線を外す。その墓の隣にオーサンが眠ることになると告げるのは、あまりにも残酷な気がした。
ナサニエルはオーサンのことを『愛しい存在』と言った。ラシュカとしては、それを聞けただけで十分だったのだ。
黙り込んでいると、ナサニエルの方から核心を突いてきた。
「ラシュカ・メイさん。あなたは最初に、オーサンのことについて話したいと言っていましたが」
「ああ……」
ラシュカは、意を決した。
「あなたは今でも、あの子を愛しているのか?」
「自分でも良く分かりません。一度しか会ったことがないので。今ではほとんど……他人のような気もします」
ナサニエルは淡々としていた。これからオーサンの死を告げるに当たって、それが良いことなのか悪いことなのか、ラシュカには分からなかった。
「オーサンは、元気にしていますか?」
続く質問が、ラシュカの胸を抉った。彼は弾かれたように立ち上がり、ナサニエルを見下ろす。その目に、涙を滲ませて。
「オーサンは立派な魔導師になった。あの子はガベリアを甦らせるための任務で、昨日……死んだ」
「え……?」
ナサニエルは言葉を失い、茫然とラシュカの顔を見た。外の物音も聞こえない地下室に、沈黙だけが流れた。
ラシュカは心を落ち着けるようにゆっくりと呼吸し、辛い言葉を塞き止めようとする唇を剥がした。
「リスカスのために殉職したんだ。明日の10時、国葬が執り行われる。あなたが出席することは出来ないだろうが、知らせておこうと思っていた」
「……はい」
掠れた声が答える。ナサニエルは視線をラシュカの顔と虚空の間で行ったり来たりさせ、最終的に、深く俯いて床を見つめた。
「……今、分かりました」
その声が震えていた。
「何がだ」
「私はあの子を愛しています」
そう言った直後、ナサニエルの瞳から落ちたものが、彼の膝の上に染みを作った。
「そうか……。それが聞けて良かった」
自分の顔も彼と同じようになっているのだろうと思いながら、ラシュカは言った。彼に対する嫉妬も憎しみも、今は消えていた。
「あの子が両親に愛されて、眠りに就けることが分かったから」
そして彼はナサニエルに背を向け、部屋のドアに手を掛けた。背後で、小さな嗚咽が聞こえた。
「あなたがいなければ、私はオーサンには出会えなかった。それは感謝しています。ほんの十数年、それでも私は、オーサンの父親として過ごせて幸せだった。……葬儀の前にあの子に会いたいのなら、拒否はしない。自警団にもそう伝えておく」
そう言い残し、ラシュカは部屋を出た。
ドアの脇に、フィズが険しい顔をして立っていた。一部始終を聞いていたのだろう。彼の目は、微かに赤い。
「いいのか?」
フィズは尋ねた。
「はい。私はオーサンの父親ですが、彼も間違いなく父親ですから。フィズ隊長、よろしくお願いします」
ラシュカは目元を拭って微笑み、小さく礼をしてから、フィズの横を通り抜けていった。
慌ただしい獄所台本部にも、午後の穏やかな陽が射していた。廊下でその陽を背に浴びながら、刑務官のハーリックは『審理局』の札が掛かるドアの前で、じっとその時を待っていた。
朝、自警団本部から戻った彼は、イーラの伝言を刑務局長のコールに伝えていた。今回のことでレナ・クィンが尋問を受ける前に、コールが尋問を受けて全てを話せと。レナとの関係が持続的なものではなく、今回の件のみであったことを証明するためだ。
審理局で行われる尋問での自白は、かなりの効力を持つ。選りすぐりの審理官たちは、巧みな魔術による尋問によってほとんどの真実を引き出すことが出来るからだ。例え対象が廃人寸前になってでも。
コールが審理局に入ってから、30分は経った。尋問にしては長い方だ。ハーリックは忙しなく廊下を歩き回る。
その時、足音と共にドアの取っ手が動いた。ハーリックは駆け寄り、審理官に腕を掴まれるようにして出てきたコールを支えた。
「局長……」
コールは額に脂汗を浮かべ、目の焦点が定まっていないような表情をしていた。顔色は蒼白だ。ハーリックは思わず、審理官に強い視線をぶつけた。
「ずいぶん長かったようですが」
ハーリックよりも年上に見える審理官は、不愉快そうに目を細めて答えた。
「内容が内容だろう。念入りに調べる必要があった。違法なことはしていない」
ここが獄所台でなければ違法だ、と言いたいのを堪えて、ハーリックはコールを支えながら廊下を進んだ。コールはずっと無言だったが、局長室に入って椅子にもたれると、ようやく口を開いた。
「すまないな、ハーリック。あれほどとは……」
コールは目を閉じ、深く息を吐いた。この短時間で顔がやつれたように見える。審理局の尋問は、彼ですらそうなるくらいのものであったらしい。
「話すべきことは話した。後は、総監の判断だ」
「レナは、大丈夫でしょうか」
「心配しなくていい。総監の頭は事前に柔らかくしておいた」
コールは目を開け、弱々しく笑った。
「それ、どういった意味なのでしょうか」
ハーリックが自警団本部に行く前にも、コールはそう言っていた。
「人の心理というものは複雑だ。自分の信念に立場という鎧を着せている人間は……、いや、これは第二隊の極秘技術だから、話せないな」
はは、と笑うくらいの余裕は出てきたらしい。ハーリックは腑に落ちないながらも、ほっとした。
「さすが、あのイーラの上官だっただけ、ありますね」
「イーラか。美人だったな」
コールは懐かしむように言った。
「秘密を守る能力にかけては、抜きん出ていた。今も一人で、リスカスがひっくり返るような秘密を抱えているんだろう。第二隊長としてな」
「そんなに、ですか」
「第二隊は容姿がいいだけで務まる隊じゃないよ、ハーリック。心理的な負担はどの隊よりも大きい。イーラほど長く隊長を勤めていられるのは、本当は驚くべきことだ」
「なるほど……」
ハーリックはコールの言葉に納得しつつ、今朝会ったときに彼女がふらついたのはそのせいかと考える。疲れていただけならいいが、と不意に不安が過ったのだった。