36、家族
本部の地下にある一室から、エーゼルがブライアンに支えられるようにして出てきた。エーゼルの細面が青ざめて見えるのは、通路の薄明かりのせいではない。
「……医務室に戻るか?」
ブライアンは彼にそう尋ねた。本人が希望したこととはいえ、病み上がりの心身には相当堪えたのではないかと心配になったのだ。
しかし、エーゼルは首を横に振った。
「大丈夫です。何とか、受け止めています……」
そう言って目を閉じ、何度か深呼吸する。彼はついさっきまで、犯罪者となった兄のアーレン・デミアと面会していた。そしてアーレン本人の口から、全てを聞かされていたのだった。
エーゼルの反応は、この若さにしては冷静だった。本心はどうあれ、彼は声を荒らげることも、涙を滲ませることもなく、静かにアーレンの話を聞いていた。それが死地に赴いた後だからなのか、アーレンの殺人の動機に納得出来たからなのかは分からない。
二人は無言で階段を上がり、窓から陽が射し込む地上階に出た。人気のない廊下は静かだ。地下牢の監視をする隊員以外、ここへは近寄らないのだから、当然といえば当然だった。
眩しさに目を細めながら、エーゼルはブライアンに顔を向け、力のない声でこう言った。
「俺、今回のことで実感しているんです。どんなに立派な人間でも、憎しみに足を掬われることがあるんだなって」
「そうだな……」
エイロンを初めとして、ロットにアーレン。彼らが犯罪者となったのは全て、誰かへ向けた憎しみが発端だ。
やはりエーゼルは、アーレンに似て聡明な青年だとブライアンは思う。直情的な部分もあるにはあるが、こんな状況に置かれても冷静に本質を見ている。彼を第一隊に入れたロットの目利きは、間違いなかったようだ。
「魔導師として、それを自覚しておくことが大切だ。立場も名誉も、信念や大義も、憎しみ一つで易々と捨てられるものだから。俺だって例外とは言えない」
半分は自分に言い聞かせるように、ブライアンは言った。一歩間違えれば自分もそうなっていたかもしれない。幸いにも憎しみより先に諦めが来たから、エヴァンズのような人間の下で副隊長などというものをやっていられたのだ。
「ブライアン副隊長でも、ですか」
意外さをもってエーゼルは尋ねた。彼からするとブライアンは温厚で、人を恨むような人間には見えなかった。
「ああ。今のところ、捨てたのは髪の色くらいで済んでいるけどな」
ブライアンは冗談を言ったつもりだったが、エーゼルはそうは受け取らなかったらしい。深刻な顔で言った。
「エヴァンズ隊長の下にいたせいですよね。俺が自警団に入った四年前、ブライアン副隊長の髪、そんなに真っ白ではなかったはずです」
「俺がちょうど副隊長になった頃だな。忙しくて寝る暇もなくて、気付いたらこれだから、自分でも驚いたよ。……髪の色といえば、君も元々その色じゃないだろう?」
今のエーゼルはブロンドだが、地毛は黒髪だ。ブライアンはアーレンに昔の写真を見せてもらったことがあるから、それを知っていた。
「そうなんですけど、ルース副隊長に憧れて、染めてます。副隊長、兄に少し似ていたから。……未練がましいですよね。俺は心のどこかで、いつも兄を追っていたんです。魔導師になったのだって兄の影響だし」
憂鬱な表情をし、エーゼルは地下へ続く階段を振り返った。
「こんな再会になるとは、思っていませんでした。ブライアン副隊長、兄は……獄所台からは、死ぬまで出られませんよね」
そう呟く彼の声は、少しだけ震えていた。ブライアンは逡巡したが、ここで気休めを言うのは誰のためにもならない。アーレンが犯した罪は、間違いなく重いのだ。
「そうだな。ただ、俺たちは真実を知っている。アーレンがどんな人間だったかも、なぜ罪を犯したのかも。それを忘れずに生きていくしかない」
エーゼルは涙で薄く曇った目を、ブライアンに向けた。
「魔導師として正しくあるため、ですか?」
「それもあるが、もっと単純だよ。俺は一生アーレンの友人で、君は一生、彼の弟ということだ」
「分かりやすくて、いいですね」
ふふ、とエーゼルは笑いを溢した。その拍子に涙が一つ、頬を滑り落ちる。彼はそれを素早く拭うと、姿勢を正して言った。
「では、まだやることが沢山あるので、行きます。ブライアン副隊長、ありがとうございました!」
ぱっと敬礼して、エーゼルは廊下を駆けて行く。これからもまだ辛いことが続くはずだが、彼は大丈夫だろう――走り去っていくその背中を見て、ブライアンはそう確信した。
病室のドアがノックもなしに開く。窓際に立って外を眺めていたナンネルが振り返るのと、駆け寄ったエスカが彼女を抱き締めるのは同時だった。
最後に彼の温もりに触れてから何ヵ月も経っているように感じて、ナンネルは胸が詰まった。言葉が上手く出てこない。
「ただいま、ナンネル。……どうして黙っていたんだ?」
エスカの声を頭の後ろで聞く。何が、とは聞かなくても分かっていた。お腹の子のことだろう。ナンネルはエスカの胸に額を押し付け、ゆっくりと口を開いた。
「命懸けで任務に当たる人を悩ませるほど、私は子供ではありません」
「相手を想い過ぎるというのも、こういうときは問題だな……。一人で苦しかっただろう。すまなかった」
「帰ってきてくれたのですから、それでいいんです」
ナンネルはそう言って顔を上げる。彼女を優しく見つめ返すエスカの顔は、少し憔悴しているようだった。無理もない、と彼女は思う。楽観的に見える彼でも、目の前で部下が死んだとなれば責任を感じずにはいられないのだ。
「泣いてもいいんですよ、エスカ」
ナンネルがエスカの頬に触れると、彼はそこに手を重ね、弱々しく微笑んだ。
「泣いていられないだろう。俺は副隊長だし、その子の父親でもある。……それより、具合は大丈夫なのか?」
「ええ、大丈夫です。今は私より、あなたの方が疲れた顔をしています。人の心配をしている場合ではないと思いますが」
エスカはふっと息を漏らし、肩の力を抜いた。
「俺も情けないな。これから先ずっと、君の尻に敷かれるのが目に見えるよ」
「ずっと、ですか」
「そうだろう? 家族なんだから」
「家族……」
遠い昔に聞いた言葉のように思う。ナンネルにとって唯一の家族とは、悪夢で消えた母親だけだったからだ。
「君と、その子と、俺で一つの家族だ」
そう言うと、エスカはもう一度ナンネルを抱き締める。それは今までのどんな抱擁よりも彼女の心を温かく包み、堪えていたものを瞳から溢れさせた。
「13年も一緒にいて今さらだし、ありきたりなことだけど、言わせてもらっていいか?」
エスカの言葉に、やや間があってから涙声が答える。
「なんでしょう」
「俺は自分の命に代えても、君とその子を守る。だから、死ぬまで側にいてほしい」
お互いに魔導師という立場だからこそ、その『命に代えても』が言葉通りの意味ということが分かる。これからも、幾度となくそんな場面が訪れるのだろう。心労は計り知れないが、それは今に始まったことではない。
彼の腕の中で、ナンネルが何度も頷いた。
「もちろんです。ずっと、側にいます」
「そう言ってくれると思った」
エスカの声は明るかった。彼は体を離し、ポケットからハンカチを取り出す。アイロンをかけて綺麗に畳まれたものだ。それをナンネルに差し出し、笑った。
「ハンカチは常に美しいものを、だろ? 君に教えられた」
13年前、くしゃくしゃのハンカチを差し出したエスカにナンネルが言った言葉だ。それが第二隊の掟、と。
「覚えていたのですか」
ナンネルも思わずふふっと笑みを溢し、それを受け取って目元を拭った。忘れかけていたが、エスカも元々は第三隊にいた荒くれ者なのだ。
「まあ、な。俺がナンネルに惚れた瞬間だし」
「ちょろい男なんですね」
彼女の物言いに、エスカは少々面食らった表情をした。
「ナンネル、そんな言葉を使うような人だったか?」
「あなたと一緒にいたら、こうなります。口が悪いという自覚がおありですか? フィズ隊長のこと、クソ野郎だなんて」
挑むような上目遣いで見られて、エスカは苦笑するしかなかった。第三隊にいた頃はフィズが嫌いで、陰ではクソ野郎と呼んでいたのだ。
「やめろ。君の口からは聞きたくない言葉だ」
「では――」
言い掛けたナンネルの口を唇で軽く塞ぎ、エスカは彼女を軽々と抱え上げ、流れるような動作でそのままベッドに寝かせる。
エスカは仰向けになった彼女に顔を近付け、真剣な目で言った。
「そろそろ休んでくれないと、俺も安心出来ない。今まで以上に自分を大事にしてくれよ、ナンネル」
「体調が良くなったら、仕事、続けるつもりなのですが。内勤ですし」
「駄目だ。俺が養うから、子供が産まれるまでは大人しくしていろ」
「自警団の給料は安いですよ」
すぐに言い返してくる彼女に、エスカも思わず表情を弛める。素直そうに見えて言うことを聞かないところも、彼がナンネルを好きな理由だ。
「それは同意する」
そう笑いながらナンネルの額に口付けし、エスカは身を起こした。
「じゃあ、行ってくるよ。まだやるべきことが残ってる」
「無茶はしないで下さい」
「ガベリアへ行くこと以上に無茶なことなんてこの世に無いから、大丈夫だ。とりあえず、寝てろよ?」
もう一度ナンネルに唇を重ねてから、エスカは身を翻して部屋を後にした。
ナンネルはゆっくりと体を起こし、彼が消えたドアを見つめる。悲しくもあり、微笑ましくもある気持ちで。
(涙を誤魔化すのが下手な人ですね……)
エスカが背を向ける前の一瞬、ナンネルは確かに、彼の目に光るものを見ていたのだった。