35、重い男
第一隊の隊長室に、主の姿はない。
机の上には畳まれたロットの制服が、彼が逃亡した日のまま置いてある。静寂が身に沁みるような部屋の中で、ルースはそれに触れ、瞬きすら忘れたかのように動きを止めていた。
――ルース、お前はこれからも自警団を率いていくことになるだろう。正しい道を行きたいなら、過ちを知ることも必要になる。
ロットの言葉を思い出す。その過ちとは、彼自身の過ちなのか、それとも、この世界に生きる人間の過ちなのか……。どちらにせよ、これまでに明らかになった真実から、ルースはそれを嫌というほど知った。
悪に堕ちようと思えば、人はどこまでも堕ちることが出来る。そしてそれに対する復讐も底無しだ。エヴァンズは堕ちる所まで堕ちていたし、ロットもエイロンも、立ち止まろうとはしなかった。
(どこかで止められていたはずなんだ……)
副隊長としてロットに近い場所にいた分、ルースは自責の念に囚われる。実質的な自警団の長、第一隊の要、そして自分やカイが心の支えにしていた人。ガベリアが甦り、そこに目を向ける余裕が出来てしまうと、その喪失感が何倍にもなって襲ってくるようだった。
今朝9時頃に目が覚めたルースはすぐに、自分がいない間に起きたことについてライラックに報告をさせた。彼はもう少し休めと渋ったが、ルースは聞かなかった。
中央3区での銃撃戦や、エーゼルの兄であるアーレン・デミアのこと。エーゼルは今頃、犯罪者となってしまった兄と対面していることだろう。その心情を思うだけで胸が苦しくなる。死んだと思っていた兄が生きていたという喜びを打ち消すほどに、その現実は辛い。
「……ルース、ここにいたんだね」
背後の声にルースは振り返った。そこにミネが立っている。制服姿だが、その上に白衣は羽織っていないし、いつも後ろで束ねてある髪も下ろしたままだった。
「ミネ、具合は?」
ルースが少し目を見開く。彼女が病院で意識を取り戻し、悪夢で失った脚も元に戻ったということは他の医務官から聞いていた。すぐにでも会いに行きたかったが、副隊長としての責任感が彼を本部に足止めさせたのだ。
「見ての通り。色々診察を受けて、病院から急いで来たから、こんな格好だけど」
ミネは照れたように頬を掻いた。
「てっきり、あなたはまだ寝てるかと思って、医務室に……」
言葉が終わるより先に、ミネの頬に伝うものがあった。彼女は口をつぐんだまま、ルースに近付く。そして彼の胸元を軽く掴んで、そこに額を寄せた。
「ちゃんと帰ってきてくれたね、ルース」
涙混じりの声が、胸元で聞こえた。
「信じてたけど、やっぱり、すごく怖かった」
「それは僕も同じだ」
ルースの腕がミネの背に回り、彼女を強く抱き寄せた。その体温を噛み締めるようにゆっくりと閉じられた彼の目から、静かに雫が零れた。
「君が無事で良かった。本当に……」
「セルマと、あなたたちのおかげだよ。命懸けでガベリアへ行ってくれたから。どれだけありがとうを言っても足りないくらい」
ミネが顔を上げようとすると、彼女を離すまいとしているかのように、ルースの腕に力がこもった。
「……ごめん。もう少しだけ、こうさせていて」
彼の声は細く、消え入りそうなほどだった。再会に感動して、ではないことは、残念ながらミネにも伝わってくる。
「ルース……。辛いんだね」
ミネは手を伸ばし、小さく震える彼の背中をさする。同じ経験はしていなくても、今回の事でルースの心に刻まれた傷は想像が出来た。
ロットのことだけではない。恩師であるエイロンも仲間のオーサンも、彼の目の前で死んだのだ。人の死ほど心の平穏を奪うものは無いと、ミネもよく分かっている。
言葉でも魔術でも癒し得ぬものは、一体、何が癒してくれるのだろう。自分がその存在になれればどんなにいいかと思いながら、ミネはルースの腕が緩むまで、じっと黙っていた。
しばらくしてルースは腕をほどき、ミネの顔を見る。彼の顔に浮かんでいたのは、少し困ったような微笑みだった。
「もう大丈夫。格好悪いところ見せたね。幻滅した?」
「まさか。私の方が、あなたに何十倍も格好悪いところ見せてる」
ミネは苦笑した。ルースには7年前、発狂寸前になっている自分の姿を見られているわけだ。人生で一番の醜態を晒したに等しい。
「それでも側にいてくれたでしょう。私だって、どんなルースを見ても側にいるよ。これからもずっと」
ルースは何度か目をしばたいて、言った。
「そんなこと言って、後悔しない? 君が思っているより僕は、何というか……重い男だよ」
「しない。絶対に」
間髪入れずに、ミネは答えた。
「重いのは当たり前。だって、それだけ色々なものを背負ってきたんだから。でもこれからは、私にも半分背負わせて。そうしたら重くはないでしょう?」
「そんなことしたら、クラウスに殴られそうだ」
ルースはそう言って、少しだけ笑う。ミネの顔が微かに緊張したようだった。
「ルースも会ったんだね。クラウスに」
「ああ」
二人は視線を合わせたまま、数秒押し黙った。相手がクラウスと何を話したのか、想像したのだ。
「……クラウスはあなたのこと、周りを良く見ていて賢い男だって言ってた」
何と言うべきか迷って、ミネはそう切り出してみた。
「僕からしたら、クラウスの方がよっぽど賢いけどな。悪知恵が働くって意味だけど」
そう話すルースの表情は優しかった。ミネはそこに昔の、花が咲いたように笑う彼を見た気がして、不意に目頭が熱くなる。
「結果がどうなったか、逐一聞かせろなんて言うんだから。たぶん、分かってるくせに」
「何の結果?」
ミネは首を傾げる。ルースは同じ方向にちょっと首を傾げ、お茶目に笑ってみせた。
「僕がミネに、好きだって告白した結果、かな」
「……そんなふうに、さらっと言っちゃうの?」
ミネは彼から顔を背けて、両手で目頭を押さえた。視界が曇るのは悲しいからではない。嬉しいのだ。
今、目の前にいるのは、紛れもなく悪夢が起きる前のルースだった。そうでなければ彼はこんなことはしないし、言わないはずだ。
「じゃあ、もう一度」
ルースの手がそっとミネの頬に触れ、顔を正面に向かせる。彼の目は、刺さるほどに真剣だった。
「僕らもいい大人だから、それなりの言い方をしたい」
「うん……」
ミネは悪夢以降、ルースの顔をこれほど真っ直ぐに見たことはなかった。否、見られなかったのだ。その目の奥にある闇が恐ろしいのと、彼への後ろめたさで。
しかし、今のルースの目には光がある。それに、ミネ自身の後ろめたさもない。自分はこの世界で一緒に生きていくことは出来ない、だから前を向いてほしい――クラウスの願い通りに生きようと決めたのだ。
「たった一言なんだけどね。……ミネ、愛してる」
ルースの言葉が十年分の熱を持って、ミネの耳に届く。満面の笑みと、頬を滑る涙がそれに答えた。
「私もだよ、ルース」
ミネは頬を拭いながら次の言葉を探す。待っていてくれてありがとうなのか、こんなにも待たせてごめんなのか……。迷っている間に、ルースの手が彼女の両肩に掛かった。
――今だけ、全部忘れておこう。
ミネは静かに目を閉じ、彼がそっと、自分の唇を塞ぐのに身を任せた。