34、血の繋がり
カイとクロエは中庭に出て、少しだけ冷たい風に吹かれながら並んで遊歩道を歩いた。流石にこの騒動の中で悠長に散歩している隊員はおらず、中庭はがらんとしている。
抜けるような青空も、緑を繁らせる木々も、そこで囀ずる鳥の声も、ガベリアが甦る前と何も変わらない。同じ景色を見ているはずだった人が、何人かいないだけだ。
空虚な気持ちは拭えない。しかし、今はそれを忘れておかないと、カイの思考は止まってしまいそうだった。彼は自分を励ますように小さく息を吸って、口を開いた。
「あのさ」
隣で、クロエが身構えるような気配を感じる。
「お前の父親のこと、まだ気にしてるのか?」
「え……」
クロエは口ごもる。図星だったようだ。
カイの視線を頬に感じつつも、クロエは俯いた顔を上げることが出来なかった。彼の目に冷たいものを見てしまうのではないかと思うと、怖かったのだ。
カイは立ち止まり、クロエに向き直った。
「クロエ、ちゃんと俺の目を見てくれ」
クロエは恐る恐るカイの目を覗いた。向けられていた眼差しは、予想に反して優しいものだった。
「もう十分だろ。自分を責めるのはさ。クロエは何も悪くないし、俺だって恨んでない。これからも友達でいようって言ったの、あれ、嘘じゃないからな」
カイはそう言って、笑ってみせた。
「友達なんだから、そろそろ、おかえりって言ってもらいたいんだけど」
「……おかえり」
クロエも笑ったが、その声は震えていた。必死で涙を堪えているのが傍目にも分かる。
カイは一瞬迷った後、不器用に彼女を抱き寄せた。ルースやエスカだったら、実に自然にやるんだろうなと思いつつ。
「ただいま。ずっと心配してくれてたって、フロウさんから聞いたよ。ありがとうな」
「ずっと祈ってた。二人とも、無事に帰ってきてほしいって。……ごめん。オーサンに、もう泣かないって約束したんだけど」
カイの腕の中で肩を震わせながら、クロエは言葉を絞り出した。二人とも、が叶わなかった悲しみはカイも同じだ。ただそれを上手く言葉には出来ず、代わりに、彼女の背を軽く叩いた。
「クロエも、夢であいつに会えたのか?」
クロエが頷くのが分かった。
「そっか。素直だったか?」
「うん。素直なオーサン……、なんだか気持ち悪かったよ」
カイはぷっと吹き出し、クロエもさっきとは違うふうに肩を震わせた。笑っているのだろう。
しばらくして体を離した彼女は、素早く頬を拭って真剣な表情でカイを見た。
「私、オーサンの修復を手伝ったんだ。辛いけど、最後まで向き合いたかったから。彼、今は病院の特別室にいる。ラシュカさんがゆっくりお別れ出来るようにって、医長が配慮してくれたの。葬儀、明日だもんね。……カイ、会いに行く?」
「ああ。あいつがパパの元に帰れて満足してるのか、この目で確認しなくちゃならないからな」
特別室は病院の最上階にあった。どこかの屋敷の客室と言われても疑わないくらい、部屋の中は広々としていて、調度品もベッドも高級そうなものが揃えてある。大きな窓の他に天窓も付いていて、明るさは十分だった。
その病室らしからぬ部屋の真ん中で、オーサンはベッドに眠っている。側の椅子ではラシュカが俯いていた。今は私服姿だ。流石に、今日は非番にしてもらったようだった。
ドアがノックされ、ラシュカは顔を上げた。彼の目元はまだ、微かに赤かった。
「……はい」
ラシュカは立ち上がってドアまで行き、ゆっくりとそこを開ける。そして、その人物の姿に目を見開いた。
「カミラ……。どうしてここに?」
オーサンの母親の友人で、一時期、幼いオーサンの面倒を見ていた女性だ。ラシュカに彼を預けて以降、一度も顔を見せたことはなかった。
カミラは美しい貴婦人とでも形容出来るような身なりと雰囲気で、そこに佇んでいる。彼女はラシュカの顔を見て泣きそうな顔をし、深々と頭を下げた。
「あなたがお怒りになるのは分かります。ですが、どうか、お許しになって下さい」
以前はわりと粗雑だった言葉遣いも、今はその容姿に違わぬ上品さになっていた。ラシュカは困惑しつつも、彼女がどこか高貴な家に嫁いだのだろうと考える。オーサンを育てていた頃はやつれて美人の面影も無くなっていたが、彼女は元々、ラシュカも惚れるほどの器量良しだ。引く手は数多あるだろう。
「……オーサンのことを聞いて?」
ラシュカはそう尋ねた。カミラが会いに来るとしたら、理由はそれしかない。カミラは顔を上げ、憔悴した表情で頷いた。
「はい。夫が、ペレディントンの社長をしておりまして」
ペレディントンとは、キペルの木製品を一手に担う大手商社だ。小さな食器や家具に始まり、家までも手広く扱っている。そして、棺も。
「従業員と夫が話しているのを、聞いたんです。国葬用の立派な棺が必要だって。自警団の、若い隊員が殉職したから。立派な棺には、名前を彫りますでしょう? その名前が……オーサン・メイだって」
カミラは必死に涙を堪えながら、唇を震わせて続けた。
「あたし、いても立ってもいられなくて、夫に事情を話してここへ駆け付けたの。あなたにあの子を押し付けて、こんなときだけ都合がいいと思うかもしれないけど、あたしはあの子を大切に思ってる。ほんの少しの間だけど、母親だったのよ」
彼女は貴婦人の言葉遣いも忘れ、ラシュカの腕を掴んで必死に訴えた。
「お願い、ラシュカ。オーサンに会わせて」
「……俺が拒否すると思うか? ほら、中へ」
ラシュカはドアを大きく開いて、カミラを迎え入れた。怒る理由などどこにもない。オーサンと出会わせてくれたことを、彼女に感謝したいくらいだった。
カミラは目を潤ませながら部屋に入った。すぐに、ベッドで眠るオーサンの姿が目に入る。彼女は立ち止まり、ラシュカに視線をくれた。本当にいいのか、と躊躇しているような表情だった。
「側で見てやってくれ。穏やかな寝顔だ」
ラシュカは優しく促す。彼女は頷き、ゆっくりとベッドの側へ寄った。
「オーサン……」
思わず声が漏れた。彼の寝顔は眠っているとしか思えないくらいに穏やかで、その頬にも唇にも、まだ生きているかのような血色があった。声を掛ければ目を開けて喋り出しそうなほどだ。クロエたちが、丁寧に修復した結果だった。
「こんなに立派な青年になってたんだ。あの小さかった子が……」
カミラは小さな子供にそうするように、優しくオーサンの頬を撫でる。不意に、彼女の瞳からいくつも滴が落ちていく。
「あなたを見捨てたりしてごめんね、オーサン。ずっとずっと、謝りたかった」
「見捨てたりなんかしていないだろう。ちゃんと、俺にオーサンを預けてくれた。多少の苦労はあったが、俺はこの子の父親になれて、間違いなく幸せだった」
ラシュカはそう言って、カミラに微笑んだ。
「それに、こうして会いに来てくれたじゃないか。この子のために泣いてくれる人が沢山いる。俺は、誇らしいよ」
「そうね……」
カミラはハンカチで目元を押さえながら、ラシュカに向き直った。
「あなたに預けたから、オーサンはこんなに立派な魔導師になれたのね。あたしが育てていたら、人の道を逸れたままだったかもしれない」
「そんなこともない……とは言い切れないか。俺でも手を焼いたんだからな」
ラシュカが笑うと、カミラもようやく笑顔を見せた。
「オーサンもきっと、あなたが父親で幸せだったね」
「そうだな」
ラシュカは思い出していた。矯正院を卒業したときの、オーサンの言葉だ。
――俺、血は繋がってないけど、パパの子で良かったよ。
その言葉だけで、ラシュカには十分だった。
「あのね、ラシュカ。こんなときに言うのも、心苦しいんだけど……」
カミラは言いにくそうに切り出した。
「なんだ?」
「明日がこの子の葬儀でしょう。お墓の場所、もう決まっているの?」
「ああ。いつでも行けるように、中央墓地にしようかと思っていたんだが……駄目か?」
「いいえ、駄目ではないんだけど。あたし、母親の横にこの子を眠らせてあげたいと思って。場所は分かってるの。たまに、花を供えに行ってるから」
ラシュカがはっとした表情になった。
「確かに、そうだな……」
「墓地は北1区にある。ここから、それほど離れていないでしょう? この子……口には出さないけど、ママが大好きだったから」
カミラはまた目に滲み始めた涙を、ハンカチで拭った。
「いつもは我慢していたのか何も言わなかったけど、寝言で何度も、ママって呼ぶのを聞いたわ」
それはラシュカも初めて知ったことだった。一緒に暮らしてから、オーサンは寝言でもパパ、パパと呼んでいた。それをどれほど愛しく思ったことだろう。彼の口から『ママ』という言葉を聞いたことは、ついに無かった。
「そうだったか。お前は我慢強い子だな」
ラシュカは手を伸ばし、オーサンの頭を撫でた。
「ママの隣なら、寂しくないだろう」
そう言いながら、彼はもう一つ別のことを考えていた。呪わしい血の繋がり――オーサンの実の父、今は自警団本部の地下牢にいる、ナサニエル・ファーリーのことを。