32、滴
ロナーの手記には、ブラット、もといロットの瞳が類い稀な瑠璃色であることと、エヴァンズが彼に対して行った罪が記されていた。思わず目を覆いたくなるような内容に、彼女自身も書くことを躊躇ったのだろう。文字の先端には、インクの染みがいくつも見られた。
ロットはロナーに対して、自分の被害の内容を語った記憶はなかった。話したくもなかったし、話せばただでは済まないとエヴァンズに脅されていたからだ。従って、エヴァンズが具体的に何をしたのかについては推測で書かれている。
代わりに、彼女はロットがエヴァンズと会った後の様子や怪我の状況を詳しく記していた。院の職員、特に男性に触れられることを極端に嫌がり、部屋に閉じ籠る。急に暴力的になる。顔や手足には新しいアザがいくつも。洗濯の時に気が付いたが、彼の下着には血が――手記を読み進めたロットは目眩を覚え、両手で顔を覆った。
「……ロット」
彼の向かいに座るレンドルが、憔悴した表情で言った。
「エイロンがこの資料を隠した理由は、理解出来ます。私が先に見付けていても、これがあなたのことだと分かれば同じようにしたでしょう」
ロットは顔を覆ったまま、無言だった。レンドルの後ろに立つイーラは口を挟まず、石像のように動かないロットを見つめていた。
手記の内容が何であれ、それが彼を殺人者に変えるほど深く傷付け、苦しめたことに間違いはない。35年。その苦痛は余りにも長かった。今ここでそれを見せろと迫ることは、イーラにはどうしても出来なかった。
「イーラ隊長、少しだけ、聴取を私に任せて貰うことは出来ますか」
レンドルが彼女に顔を向けた。ロットの様子は相変わらずだ。彼はレンドルをここへ呼ぶ理由に、自尊心という言葉を使った。団長のエディトではいけなかった理由は……女性だからではないだろうか。だとしたら、同じく女性である自分がこの場にいては埒が明かない、とイーラは考えた。
「構わない。ロット、リゴットは残していってもいいか?」
聴取に記録係は不可欠だ。
「……はい」
くぐもった声でロットは答える。イーラはレンドルに頷いてみせ、静かに部屋を出ていった。
レンドルは改めてロットに向き直り、口を開いた。
「あなたがエヴァンズを殺したのは、これが理由なんですね」
「はい」
ロットはすっと息を吸って、ようやく顔を上げた。その目が、微かに赤くなっていた。
「正確に言うならば、それだけではありませんが。エヴァンズが報復のためにエイロンを同盟に潜入させたり、口封じでベイジルを葬ったりしたことは確かに許せません。しかしこれがなければ、殺すことまではいかなかったでしょう」
彼の目の奥に、何かが暗く光った。
「これは言わば、個人的な報復なんです。私の幼い心はエヴァンズに殺された。だから、相応の罰を与えた」
「後悔はしていない、と?」
「はい」
何の躊躇いもない答えだった。リゴットがペンを止めて、困惑したようにレンドルを見る。犯した罪に対して反省のない者には、獄所台でも重い審判が下される可能性が高いからだ。
「そのままを記して下さい」
レンドルは彼にそう言って、続けた。
「ロット、自棄を起こしているわけではありませんね?」
「はい。正しく裁かれるためです。私は、エヴァンズを殺したことについては後悔していません。それ以外は全て後悔していますし、償うつもりでいます」
潔さすら感じさせる表情で、ロットは言った。どんな内容であれ、本人の自供を変えさせようとしてはならないのが聴取の基本だ。レンドルは頷くしかなかった。
「分かりました。続けましょう。あなたが先程口にした、ロナー先生とは誰のことですか」
「私がいた孤児院の、世話役の女性です。エヴァンズのことを獄所台に告発すると言っていましたが、その数日後、馬車の転落事故で亡くなりました。恐らく、エヴァンズがやったのだと思っています」
ロットは机の上で、関節が白くなるほど拳を握った。年月を経ても薄まることのない怒りを、レンドルはそこに感じ取った。
「なるほど。だから、自警団の事故処理票が」
レンドルが手記の下になっている書類を指差す。ロットがページを捲ると、彼が言う通りのものがあった。原本ではなく写しのようだ。
事故の詳細欄には、馬が急に暴れたため、馬車が橋から落下、乗客の女性ロナー・ウリエと馭者一名が死亡とある。事故処理の担当者は、ガベリア支部第十一隊エヴァンズ・ラリーとあった。
自らが魔導師となった今、ロットには分かる。馬に魔術をかけて暴れさせ、その事故の処理を自分で行うのがいかに簡単なことか。誰にも怪しまれず、ロナーの口を封じることが出来る。
「……エイロンが、ここまで調べたのでしょうか」
「恐らくは。これだけではエヴァンズの殺人を裏付ける証拠にはなりませんが、出来るだけのことはしたかったのでしょう。彼は、そういう人でした」
レンドルの言葉には悲しみが滲んだ。ロットと同じように、彼にとってもエイロンは尊敬する上官だったのだ。
「ロナーさんの手記は完全に処分しても良かったはずです。重要な証拠ではありますが、あなたの恥辱を曝すことになるし、何にせよ既に時効で罪には問えない。それでもエイロンがこれを残しておいたのは、きっと、あなたの苦しみを無かったことにしないためです」
ロットは俯き、小さく唇を噛んだ。苦しみを無かったことにしない。あの高潔なエイロンならば、きっとそう考えただろう。しかし、彼のその正義が他でもない自分のためであったことが悲しく、やりきれなかった。
レンドルはふと、机の上に置かれた前回の聴取記録に目を落とした。そこにはロットが、エイロンを殺そうとしていた理由について黙秘していることが記されている。
「あなたがエイロンを殺そうとしていたのは、……彼を救うためですね」
レンドルはそう問い掛けた。ロットは、素直に頷いた。
「苦しみ抜いた彼を、この手で楽にしたかった。しかし、自分からはどうしても言えませんでした。それがどれだけ驕った考えなのか、自分でもよく分かっていますから。……あなたから訊いてもらえて、少し楽になりました」
そして彼は肩の力を抜き、小さく笑った。
「近衛団で、あなたの部下でいられたことを誇りに思います。抜けた後もこうして迷惑をかけてしまいましたが」
「イーラ隊長が聞いたら、その素直さに驚くでしょうね」
レンドルもかつての仲間の顔で一瞬だけ微笑み、また真顔に戻った。
「その手記、彼女に見せても大丈夫ですか」
「ええ。ただ、私のいないところで読んで頂ければ。彼女がどんな顔をするのか想像は付きますが、それを見るのは辛い。いずれエディトの耳にも入るでしょうが、……うら若い女性に聞かせたい話ではありません」
「彼女は別に若くはありませんが」
レンドルの返しに、思わず吹き出したのはリゴットだ。二人の目が向くと、彼は申し訳なさそうに会釈した。少しだけ部屋の空気が和らいだようだった。
レンドルはまた前回の聴取記録に目を落とし、最後の方を指で辿りながら言った。
「エイロンがクーデターの前後で何をしていたか。これは、改めて私が調べましょう。彼の名誉のために。結果があなたの耳に届くかどうかは別として……」
獄所台の監獄は基本的に、面会は禁止だ。手紙のやり取りは可能だが、必ず検閲が入る。ロットが自警団の人間とはいえ、捜査内容の書かれた手紙など渡すことは出来ないだろう。
「はい。お願いします」
ロットは深々と頭を下げ、しばらくそのままでいた。レンドルは立ち上がり、彼に声を掛ける。
「私はこれで最後とは思っていません。ロット、また会いましょう。何年後になっても、必ず」
「……はい」
震えた声がそれに答えた。レンドルは頷き、それ以上は何も言わずに部屋を後にした。
扉が閉まる。ロットはまだ顔を上げずにいる。いや、上げられないのだとリゴットは思う。記録係として、これを記すべきなのだろうか。逡巡し、彼はペンを置いた。
一つ、二つと、ロットの膝の上には滴が落ちていた。