30、戒め
廊下の窓から燦々と射し込む朝陽に背を向け、レナは地下への階段を下りていく。通路の突き当たりに、扉が現れる。何の変哲もないその扉が彼女の目に殊更重々しく映るのは、中で待つ人物が誰なのかを知っているからだ。
レナは扉を開け、静かに中へ入った。ノックも、声を掛ける必要もない。返事をする者はここにはいない。
薄暗く殺風景な部屋の中央には、検死に使うための台が備え付けられていた。常に空いているのが望ましいその台の上には、残念ながら、自警団の外套で覆われた人物が横たえられている。
遅れて部屋に入ってきた医務官のルカが、クリップボードに挟まった書類をレナへ差し出した。
「医長、これを」
書類には『遺体検案書』とあった。氏名、オーサン・メイ。検案の同意についての欄には、父であるラシュカ・メイのサインがあった。
レナは無言でそれを受け取り、オーサンの死を告げられたときのラシュカを思い出す。彼は冷静だった。その両目こそ赤くなっていたが、粛々と受け入れていた。それは魔導師としての覚悟が成せる業なのか、それとも――。
「始めよう。少しでも綺麗な状態で送ってやりたい」
思考を振り払い、レナが言った。遺体は時間が経てば当然のように腐敗が進む。数日間は魔術で現状を維持出来るが、既に腐敗したものを元に戻すのは不可能だ。
「はい」
ルカがレナの向こう側に周り、天井から下がるランプを灯して、亡骸を覆う外套をゆっくりと外す。穏やかな表情で目を閉じるオーサンが、目映い光に照らされた。
辛うじて意識を取り戻したエスカから、ルカはオーサンの死についての詳細を聞いていた。そして彼はその後、すぐに眠りに落ちた。事実を伝えなければならないという責任感だけで、意識を保っていたのかもしれない。
同期として、ルカは彼の気持ちを無駄にしたくはなかった。検案に立ち会うことにしたのは、それが理由だ。
「これだな」
レナはオーサンの胸に残る傷痕を指差した。直径5センチ程の孔が、前から後ろに貫通している。ちょうど、心臓を貫く位置だ。
「恐らくは即死だ。その場に医務官がいたとしても、助けられたかどうか……。もう少し詳しく調べる。服を」
レナはルカと二人で、オーサンの上衣を脱がせた。皮膚に細かい擦過傷はいくつかあるが、どれも致命傷ではない。その他様々な箇所を観察したが、やはり心臓を貫いたその孔が死因で間違いはなかった。
レナは検案書にペンを走らせる。冷静に、とはいかなかった。彼女はラシュカの若い頃を知っている。彼がどれほど苦労してオーサンを育て、そして深く愛していたか――取り落としたペンが、床の上を転がった。
「医長……」
「気にするな。疲れているだけだ」
そう答えたレナの目が、微かに光ったように見えた。
「修復と保存をする。可能な限り完璧に」
「はい。最善を尽くします」
ルカはそう言ったが、正直なところ、不安だった。彼は仲間の遺体を修復した経験が無い。これほどまでに心が重く、悲しみに胸を締め付けられるとは想像していなかったのだ。
沈んだ彼の顔を見たレナが、こう言った。
「仲間の遺体を前にすれば、誰でも辛いものだ。病気ならまだしも……」
彼女の視線がオーサンの傷痕に向く。そこにある、理不尽な死を噛み締めずにはいられない。
「……すみません」
ルカは背を向けて目頭を押さえ、溢れそうになるものを必死で堪えた。泣いている場合ではない。どれだけ辛かろうと、医務官として最後まで向き合わねばならないのだ。
しばらくして、彼は台に向き直った。
「大丈夫です。始めましょう」
「吐きそうになったら、あれがある。無理はするなよ」
レナは部屋の隅を顎でしゃくった。床にブリキのバケツが置いてある。
「私の苦い経験からだ。床にぶちまけるよりはましだからな」
彼女の言う苦い経験とは、9年前に行ったベイジル・ロートリアンの遺体の修復に他ならない。彼の余りにも惨たらしい損傷に、レナは人生で初めて、人前で吐いたのだ。恥やプライドで塞き止められるものではなかった。
「分かりました」
ルカは目を閉じて深呼吸し、決意を固めた。
しかし、オーサンの胸にぽっかりと開いた傷口は、そう簡単には塞がらなかった。オルデンの樹の魔力がまだ生きているせいなのか、単に傷が大きすぎるのかは分からないが、レナですら額に汗をかくほどだ。
そしてルカの集中力がふと、切れた。青白いオーサンの顔、塞がらない孔から覗く骨と肉――一度は飲み込んだはずの現実が何倍にもなって彼を襲い、バケツに走らせた。
「上で休憩してこい、ルカ」
踞ってげえげえと嘔吐く彼の背中に、レナが声を掛ける。
その時、部屋の扉が控え目にノックされた。
「……失礼します。クロエ・フィゴットです。入ってもよろしいでしょうか」
ルカは慌てて口元を拭い、レナを振り返った。自分でもこの状態なのだから、クロエがオーサンの遺体を見たりしたら――
「入れ」
レナは扉に向かってそう答えた。ゆっくりと部屋に入ってきたクロエの視線は、真っ先に台の上のオーサンに向く。彼女はきつく唇を結んだが、それ以上取り乱すことも、涙を流すこともしなかった。
「用件は何だ」
レナの問いに、クロエは視線を上げる。
「オーサンの修復を、手伝わせて下さい」
「クロエ」
ルカが思わず立ち上がった。
「医務官として何かしたい気持ちは分かるが、お前は同期だし、仲も良かったんだろう? 一生もののトラウマになるかもしれないぞ」
「大丈夫です」
クロエはそう言って台の前に進み、もう一度オーサンに目を落とした。彼女は無惨なその傷口を見ても、凛とした表情を変えなかった。
「オーサンがいたから、私は魔導師になれた。だから、彼の死に最後まで向き合いたいんです。医務官として」
レナはじっとクロエの顔を観察した。彼女が少しでも無理をしているのであれば、すぐに出ていかせるつもりだった。ルカが言うように、修復に関わったことがトラウマになる可能性がある。魔導師とはいえ、まだ16歳なのだ。
「医長、お願いします」
クロエから向けられた真剣な目の奥に、レナは悲しみを越えるほどの強さを見た気がした。
「……お前が並大抵ではない過去を乗り越えてきたことは知っているが、どうしてそこまで強くいられるんだ?」
レナの問いに、クロエはこう答えた。
「夢の中で、オーサンに会いました」
「夢?」
「はい。正確に言うなら、夢ではないのかもしれませんが。セルマが会わせてくれたんだと思います。だから私は、オーサンが帰ってくる前から……彼がもうこの世界にいないことを知っていました」
悪夢で消えた人々に夢の中で会ったという話は、レナも何名かの隊員から既に聞いていた。オルデンの樹に繋がれていた魂が帰ってきたと、彼らは口々に言った。
しかし、オーサンは悪夢で消えたわけではない。とすればそれは、クロエの言うようにセルマの計らいだったのかもしれない。
「そうだったのか」
レナは納得した。ラシュカが冷静に見えたのは、彼もきっと、夢の中でオーサンに会っていたからなのだと。既に別れを終えた彼が望むのは、オーサンが元の状態で返ってくることだろう。それをするのが、医務官としての自分達の義務だ。
「分かった。ただし絶対に無理はするな。遠慮しなくていい。お前の先輩は、ギブアップしたしな」
レナはそう言って、まだ顔色の悪いルカに視線を遣った。ルカは苦笑を返す。
「まだしてませんよ」
それから、台の前に戻ってきて言った。
「三人なら、その傷、塞げるかもしれませんね。やりましょう、完璧に。ラシュカさんが彼を待っていますから」
ルカが言ったように、三人の力で傷口は綺麗に塞ぐことが出来た。彼らの額には汗が浮かび、修復を始めてから既に二時間程が経っていた。
「後は細かい傷を綺麗にして、血色を出来るだけ戻す。最後に保存をすれば完了だ」
レナはそう言って汗を拭う。無惨な傷口が無いだけで、オーサンの顔の穏やかさが幾分増したような気がした。
三人は分担して、全身の傷を修復し始める。胸の傷に比べれば、いくらか簡単に治せそうだった。
ふと、右腕の修復をしていたルカが呟いた。
「これ、古い傷だな」
「どれだ?」
レナとクロエが、ルカの手元を覗き込んだ。上腕の真ん中辺りに、横一直線の古傷がある。鋭いもので裂かれたような傷だ。
「ああ、それか。見たことがある」
レナが言った。クロエはじっと、その傷を見ていた。
「わりと最近だ。オーサンが別の怪我で医務室に来たときに。古傷でも、今ならまだ魔術で綺麗に出来るぞと言ったんだがな。『戒めとして残しておきたい』と断られた」
「戒め……」
クロエが呟く。
「そうだ。確か『大切な人を泣かせたから』って」
「……その傷、私が付けたんです」
その言葉に、二人は思わずクロエの顔を見た。今まで強い意思を宿していた彼女の瞳が、涙で揺れていた。
「学生の頃、オーサンに教官がいないところで剣術の練習相手を頼まれて。そこで自分を失って、彼を斬ったんです。我に返って治療したけど、まだ技術が未熟だったから、綺麗に治せなくて……。残しておきたいなんて、どうして。ねえ、オーサン」
クロエは自分の頬に伝うものには構わず、オーサンに問い掛けた。
「あの時のことなんて、とっくに許してる。あなたは本当に優しい人だから」
――クロエの力を正しく使えば、色んな人を助けられると思うぜ。
オーサンのその言葉は、魔導師としての彼女を作った全てだった。医務官として、色んな人を助けたい。そして今は、誰よりも彼を。
何度か小さく啜り上げた後、クロエはごしごしと目元を拭った。
「私はもう泣かない。だから、この傷は残しておかなくても、いいよね」
彼女の指先がそっと、オーサンの腕に触れる。
「大丈夫。私はきっと、自分の力で過去と向き合っていける。ありがとう、オーサン」
――大好きだよ。
クロエが心の中で呟いた言葉と、その瞳から溢れた最後の一滴と共に、傷は綺麗に消えていた。