13、洞窟への招待
――どうすればいい。俺はこのまま死ぬのか?
カイは止めどなく血が流れる肩を押さえて、地面にどさりと膝を着いた。深く斬り付けられた傷口が燃えているかのように熱い。今まで味わったことのない感覚に目眩を起こしかけたが、爪が食い込むほどに拳を握り、彼は何とか意識を保った。
「このくらいで膝を着くとは。やはり場数を踏んでいないと、駄目だな」
クリシュターは嗄れた声で笑い、カイから奪ったサーベルを血振りした。
カイの数メートル先にはエーゼルがうつ伏せに倒れている。周囲の雪は赤黒く染まり、彼が息をしているかどうかも定かではなかった。
ここまで、僅か数分の出来事なのだ。あのルースがあっさりとやられてしまうほどの強さに、二人では敵うはずもなかった。
「ルースの足元にも及ばない。もしお前が私の教え子なら、落第だよ。彼は結局死んだが、もう少し粘ってくれた。……もう用は無い。大人しく死ね」
刹那、カイの眼前にサーベルが煌めき、風を切る音がする。もはや逃げる力は残っていなかった。
カイの首元を、生暖かい血が濡らしていった。
クリシュターはくずおれた彼を川まで引きずっていくと、ルースにしたのと同じように、冷たい流れの中へと放り投げた。
地面に倒れたエーゼルは、ばしゃりと水の跳ねる音で意識を取り戻した。雪の積もった地面は冷たいはずなのに、今は何故か生温く感じる。それが流れ出た自分の血のせいだと気付くまで、時間が掛かった。
頭をもたげようと試みるが、体はぴくりとも動かない。目を開いても、視界は霞んでいた。
「しぶといな」
嗄れた声と足音が近付いてくる。クリシュターが、まだエーゼルの息があることに気付いたのだ。
クリシュターは彼の側へ来ると、その足で勢い良く背中を踏みつけた。
「う……ぐっ……」
エーゼルの口から呻き声が漏れる。クリシュターは満足げにこう言った。
「後輩を助けようと身を挺したことは称賛に値する。無駄な足掻きではあったが。彼も、仲間を守ろうと足掻いていた」
「何……を……」
「お前たちの副隊長は、やはり素晴らしい。殺したのは惜しかった。だが、どれほど拷問しても決して私の仲間になると言わなかったのだから、仕方ない。彼の信念が彼を殺したんだ」
エーゼルは拳を握り締めた。魔術を使った拷問は、想像を絶する苦しみのはずだ。ルースがどんな目に遭ったか想像するだけで、気が狂いそうだった。
「安心しろ。お前にそんなことはしない。それだけの価値は見出だせなかった。今、楽にしてやる」
クリシュターは屈み込み、手にしたサーベルの先端でエーゼルの心臓の位置に触れる。
しかし次の瞬間、それは弾けるように手を離れた。
「……遅い登場だ、ロット・エンバー」
立ち上がったクリシュターの視線の先には、片手を彼に向けて翳したロットがいた。
「何故私を知っているのかと、野暮な質問はしない。貴様、魔導師だろう」
ロットはそう言って、翳していた手を素早く横に払う。クリシュターのフードが捲れ上がり、その醜い顔が顕になった。
彼の顔は左半分が黒く変色し、爛れて、原形を留めていなかった。変色している方の眼球は今にも転げ落ちそうな程に突き出て、ぎろりとロットの姿を睨んでいる。
「はっ。見覚えがあるか? この顔に」
クリシュターは爛れていない方の、精悍な顔を吊り上げて嘲笑った。ロットは動じることもなく彼を見返すが、その目の奥には微かに悲しみが浮かんでいる。
「エイロン・ダイス……。ガベリアの悪夢で死んだと思っていた。いや、こうなるくらいなら」
目を伏せ、噛み締めるように言った。
「死んでいてくれた方が良かった」
「口の利き方を忘れたか、ロット。近衛団にいた頃はずいぶん面倒を見てやったはずだ」
「思い出話は結構だ。今の貴様はもう、私の尊敬する上官ではない」
それを聞いたクリシュター、もとい、エイロンが大きな笑い声を上げると、喉の奥からひゅうひゅうと空気の漏れる音がした。
「でかい口を叩くな。お前が私の存在を知ったのも、大方、巫女に聞いたからだろう? 部下を危険に曝してまで、こそこそと何をしていた」
「話すつもりは無い。時間の無駄だ」
ロットの視線はエイロンの背後に向けられる。
「……っ!」
一瞬の出来事だった。無数のナシルンが隙間なくエイロンに群がり、倒れているエーゼルから彼を引き離す。
ロットはその隙を突いてエーゼルを救出し、あろうことか、彼を抱えたまま川に飛び込んだのだった。
近衛団の本部は王宮の敷地内にあった。ただ、そこへ繋がる太い橋の門は閉じられ、その前には見張りの魔導師が二人立っている。臙脂色の制服を着た近衛団員だ。
セルマは遠くに見える王宮の荘厳さと、近衛団員の隙の無い姿に気後れし、足を止める。だが、オーサンは構わず近付いて声を掛けた。
「こんばんはー。ちょっといいですか」
「……自警団の人間か。所属と名は」
近衛団員の一人は片手を腰のサーベルに添え、警戒しながら問う。茶髪をオールバックに撫で付け、かなり険しい顔をした、上背のある男だ。
「第三隊の、オーサン・メイです。……茶番はやめようよ、パパ。見れば分かるでしょ」
もう一人の近衛団員が、ぎょっとした顔でオーサンとその団員を見た。厳ついその男と優しげな風貌のオーサンでは、似ても似つかない親子だ。
「ラシュカさん、本当に?」
「本当だ。……パパと呼ぶな、オーサン。仕事中だ」
「ごめん、パパ。でも、ちょっとお願いがある」
そう言って、離れた場所にいるセルマを手招いた。オーサンの父、ラシュカに訝しむ視線を向けられらながら、セルマはおずおずと近寄る。
「その子は?」
セルマの服装はスラム街で着ていたものと一緒で、王宮に近付くには場違いと言わざるを得ない。彼が訝しむのも無理はなかった。
「自警団の重要参考人。今追われてて、安全な場所へ連れていきたいんだ」
「何の参考人だ」
「さあ。カイに頼まれただけだから、詳しくは知らない。首飾りを拾ったんだっけ?」
オーサンは他人事のように、セルマに話を振った。
「あ、うん……。それが何か重要なものだったらしくて、私は自警団に捕まった、んです。そうしたら今度は誰かが襲いに来て、ここへ逃げてきた……ました」
今まで丁寧な言葉など使ったことがないセルマは、ぎこちなくそう話した。
「首飾り……重要な……」
ぼそぼそと呟き、ラシュカは思案顔で5秒ほどセルマの顔を見つめた。それからこう尋ねる。
「黒い宝石が付いていたか?」
セルマは頷いた。
「あの首飾り、そんなに有名な――」
言葉を遮るように、どこからかナシルンが激しい羽音と共に飛んできた。首に近衛団を表す『G』のタグを着けている。
近衛団員に向けてのメッセージだ。当然ながらオーサンとセルマには分からない。メッセージを聞いたラシュカともう一人の近衛団員は驚いたように顔を見合わせ、同時にセルマを見た。
「……な、なんだよ」
「キペルの巫女、イプタが君を呼んでいるそうだ。着いてきなさい」
「巫女?」
セルマは困惑したようにオーサンを見たが、彼は大したことではないというふうに、肩を竦めるだけだった。
「丁度良かったじゃん。安全な場所に行けるぜ」
「でも、私みたいなのが巫女に近付いていいのか? スラム街育ちでも、巫女は神聖なものだって知ってるぞ」
「向こうが呼んでるんだから、問題ないだろ? ほら、早く行け」
セルマの背を軽く押したオーサンに、ラシュカが言った。
「お前もだ、オーサン。一緒に行くぞ」
「は? なんで?」
「洞窟で友人が待っているそうだ。つべこべ言わずに着いてこい」
ラシュカが歩き出すと、橋の手前の門がひとりでに開いた。セルマは不安そうに、そしてオーサンは不機嫌な顔で、彼の後を追った。