26、託されたもの
ガベリアの林の中を、20人程の魔導師たちが駆け抜けていく。紺色の自警団、そこに白衣を纏った医務官、そして黒い獄所台の刑務官たち。
彼らは林を抜け、そびえ立つ透明なオルデンの樹を見、息を呑んだ。巨大な樹は朝日の輝きを浴びて、何事もなかったかのように穏やかに枝葉を揺らしている。傷を癒すかのような、軽やかな葉擦れの音が耳に届く。
次いで彼らは、地面に倒れている隊員たちを見付けた。ガベリアへ向かった5人と、ブロルだ。自警団の隊員たちは、倒れている彼らに急いで駆け寄った。息があることを確認して、それぞれに胸を撫で下ろす。
その中で、怒声が上がった。第三隊長のフィズだった。彼の前にはオーサンが冷たく横たわっている。フィズはオーサンの肩を揺すりながら、彼の名前を呼んだ。何度も、何度も。
医務官がフィズを止め、オーサンの生死を確認する。そして唇を噛み、ゆっくりと首を横に振った。
隊員たちは皆、しばし茫然とした。命懸けとは理解していても、心のどこかでは全員生きて帰ってくると信じていたのだ。
刑務官たちが集まってきて、フィズと言葉を交わす。彼らは顔を見合わせた後、静かに頭を垂れ、オーサンのために祈った。
意識のない隊員たちは担架に乗せられ、運ばれていく。フィズは苦痛に歪んだ顔で自分の外套を外し、オーサンの上にそっと着せ掛けた。
ミネは目蓋の向こうに眩しい光を感じて、目を覚ました。病室の窓から、朝日が燦々と彼女の顔に射し込んでいる。
ゆっくりと体を起こす。布団を捲る。右脚が、ある。
彼女はベッドを下りて歩いてみる。7年振りに地面に触れた右足、その床の冷たさに涙が溢れてくる。
レナが何事かと慌てて部屋に飛び込んで来た。彼女の脚が治っていることに気が付き、驚愕の表情で、彼女の顔と脚を交互に見た。
ミネは笑った。そして窓の外を見た。雲一つ無い青空が広がっている。彼女には分かっていた。夜は明けた。この先に、希望は繋がったのだと。
本部の医務室では、干渉包囲で傷を負った近衛団員たちが驚きの声を上げていた。失ったはずの手や足が元に戻っている。ベロニカが彼らの間を走り回り、傷を確認する。間違いなく治っている。
レンドルは未だ眠り続けるエディトのベッド脇に立った。そして気付いた。蝋のように青白かった彼女の顔に、血色が戻っている。穏やかな呼吸に合わせて、胸がゆっくりと上下している。
レンドルはエディトの手を握り、名前を呼んだ。目蓋がぴくりと動き、彼女は目を覚ます。視線がレンドルの顔を捉える。
エディトは微笑み、ゆっくりと体を起こしてこう言った。君との約束通り、戻ってきましたよ、と。
ベッド周りのカーテンは引かれたままで、それがレンドルの自制心を取り払った。彼はエディトを抱き寄せ、耳元で何か囁いた。エディトが頷き、口元が動いた。――私も、です。
ガベリアの悪夢で失われ、オルデンの樹に繋がれていた魂は、彼らの大切な人々の元へと帰った。夢か幻か、人々は現実とは別の世界で彼らに会い、愛を告げ、別れを告げた。
これまで朝日に照らされることの無かったガベリアの地に、光が満ちていく。緑が息を吹き返し、風が希望を運ぶ。
真っ白な鹿が、瑠璃色の湖、オルデンの瞳の側にいた。鹿が鏡のような水面を覗き込むと、そこには青年の姿が映っていた。白銀の髪に、瑠璃色の目。ブロルと同じ山の民族の姿だ。
「いつか運命の動く刻……」
青年の口がそう動いた。彼が話すのは、古代ガベリア語だ。
「あなたの言った通りになりましたね、ラウセ。僕はかけがえのない瞬間を見ることが出来た」
――見届けてくれましたか。
ガベリアの巫女、ラウセの声がそう答えた。タユラの前の巫女だ。
「ええ。永い旅でした」
――これほどの永い刻を経ても、貴方の心は変わらないのですか?
「もちろん。今でもあなたを愛しています」
青年は笑顔で答えた。ふふ、とラウセの笑う声が聞こえた。
――左様ですか。人間の愛とは、恐ろしいものです。
「あなたも人間ですよ、ラウセ。人の心をよく分かっている。……巫女が消えて、これからのリスカスはどうなるのでしょうね」
――オルデンの樹は、もう巫女がその力を抑えなくとも、理性を保つことが出来ます。魔力の秩序が乱れることはありません。
「平和になると思っていいのですか?」
――どうなるかは全て、人間に懸かっています。人間の心一つで、楽園が近付くこともあれば、地獄が口を開けることもある。私たちは託すのみです。これからを生きる人々に。
「僕は、大丈夫だと思います。真っ直ぐな魔導師たちをこの目で見てきましたから」
――私も、そう信じています。
風が吹き、湖面を揺らした。
「僕の役目もこれで終わりですね」
――ええ。貴方は使命を果たしました。
「やっと、あなたの側へ行けます」
鹿はゆっくりと、鼻先を湖面に触れた。彼の姿は、光の粒となって空へと消えていった。