24、ルース・ヘルマー
温かい風が花と草木の香りを運んでくる。懐かしい、故郷の匂いだ。
ルースは目を開けた。そして目の前にいた人たちの姿に、思わず声を上げた。
「お父さん……、お母さん……」
自分と同じく長身な父、顔がそっくりの母。ガベリアの悪夢で失われた彼の家族が、そこに立っていた。
「ルース、亡霊じゃないのよ、私たち」
ぱっと花が咲いたように笑ったのは、母のチェリーだ。ルースが幼い頃からずっと見てきた、懐かしい笑顔。百合の花のように可憐な佇まいも、昔のままだった。
「そりゃ、驚くだろう。俺だって驚いてる」
父、デオは無愛想に言って、逞しい腕でチェリーの肩を抱いた。昔から職人気質で、感情を表に出さない無口な父だった。それでもルースは、彼の不器用な言葉の一つ一つに、ありったけの愛情が込められているのを知っていた。
「俺たちにこんな男前な息子がいたか?」
デオがまじまじとルースの顔を眺めると、チェリーはくすりと笑った。
「どう見ても私たちの子でしょう。もしかしてまた背が伸びたのかしら。……やだ、泣いてるの?」
「泣いてないよ」
ルースは顔を逸らした。否定はしたが、必死に涙を堪えたせいで目は赤くなっている。
「ルース」
デオの呼び掛けに、ルースは顔を向けた。
「俺はお前が魔導師になることをずっと反対していたが……、間違っていたよ」
そしてルースに一歩近付き、その肩に手を置いた。
「良く頑張ったな。自慢の息子だ」
あまり笑わない父が、笑っていた。それだけで、ルースにはその想いが全て伝わっていた。
家具職人の父を恥ずかしいと思ったことは一度もなかった。むしろ尊敬さえしていたが、子供のルースには、その堅実な生き方がつまらなく見えてしまった。せっかく魔力があるのだから、上を目指したい。そう思い、父の反対を押し切って魔術学院に入った。
それからはたまに家に帰っても、ルースはデオとまともに口を利かなかった。チェリーが間を取り成しても、お互いに頑固なせいで全て無駄な努力になってしまう。悪夢で二人が消えて、ルースがそれをどれほど後悔したか分からない。
堪えていたものが、止めどなく彼の頬を伝っていた。
「僕は、ずっと謝りたかった。親不孝なことをしてごめんって。二人がどれだけ僕を心配してくれていたのか、今なら分かるから」
「子供に謝られることほど辛いものはないのよ、ルース」
チェリーはルースの手を握って、そう言った。
「ありがとう、でいいの。こういうときはね。子供をずっと側に置いておきたいのも愛情だけど、その子が自分で選んだ道を一人で行かせるのも愛情。あなた、私たちにとっても愛されてるのよ」
「分かってるよ。分かってる……」
その先は涙に混じり、言葉にならなかった。必死で駆け抜けた7年の重みが、ここで溶け出しているかのようだった。
デオがそっと、ルースとチェリーの肩を抱き寄せた。
「でかくなったもんだ。昔は片手で担げるくらいだったのに」
「あのね、子供はいつまでもちっちゃくないの。ルースだってもう25歳なんだから」
チェリーは笑いつつ、こっそりと目元を拭う。それから、ルースの腕を軽く叩いた。
「ほら、いい大人がいつまで泣いてるの。ここで終わりじゃないんだからね」
「そうだな。立派な魔導師には、まだまだやることがあるはずだ」
デオが笑い、腕をほどいてルースと向き合った。
「ルース、今のガベリアは空っぽだ。人が住んで本当の意味で甦るまでは、忙しいだろうな」
ルースは頷いた。
「そうだね。大変なのはきっと、これからだ」
「私たちはずっと、あなたの側にいる。寂しくなったら鏡を見てご覧なさいよ。あなたの顔は私似だけど、笑うとね、お父さんにそっくりなんだから。ほら、笑って!」
チェリーに頬をつつかれて、ルースは笑った。今までのように冷めた笑みではなく、弾けるような笑顔で。
デオとチェリーは顔を見合わせ、ほっとしたように微笑んだ。
「僕は大丈夫。もう、一人前の魔導師だから。やり遂げてみせるよ」
ルースは二人に、そう約束した。ここで終わりではない。やるべきことは山のようで、気が遠くなる。それでも胸の奥には希望が光っている。
強く風が吹き、彼の視界に花弁を舞い上がらせた。微笑む二人の顔が残像となり、風と共に消えていった。
「ずいぶん格好付けたな、ルース」
背後で聞き覚えのある声がし、ルースは振り向いた。
「クラウス……!」
家族と同じくらいに会いたかった人が、そこにいる。クラウスはルースの前に来て、いたずらっ子のような笑みを見せた。
「俺が泣かせてやろうと思ってたのに、もうそんな顔になってるのか。女子が引くぞ」
「久し振りに会えたのに、一言目がそれか?」
ルースもつい、笑った。感動の再会などというのは、クラウスとの間には少し馴染まないような気がした。
「副隊長か。早い出世だな」
クラウスはルースの襟章をじっと見て、感心したように言った。
「それなりに苦労はしたよ」
「だろうな。ルースは真面目すぎるから、不真面目な俺が一緒にいるくらいでちょうどいい」
「消えたくせに」
「あー、そういうこと言うわけ?」
クラウスはけらけらと笑い声を上げた。ルースは冗談を言い合っていた学生時代を思い出す。授業や訓練は厳しかったが、彼と一緒に過ごした時間はそれを忘れるくらいに楽しかった。
不意に、クラウスは真剣な表情になった。
「俺さ、本当は知ってたんだよ」
「何を?」
「ルースがずっと、ミネのことを好きだったってこと」
「……そうだろうとは思ってた」
ルースは苦笑した。
「変に気を遣われてるのは、僕だって分かってたよ」
「え、そうなの?」
クラウスにとっては意外らしかった。
「二年生の頃、何かにつけて僕とミネを二人きりにしようとしてただろ。さすがに分かるよ」
「……迷惑だったか」
「ふざけるなと思ってた」
クラウスがぎょっとした顔になったので、ルースは付け加えた。
「それは冗談だけどさ。ミネが可哀想じゃないか。彼女は君のことが好きだったのに。それも知ってたんだろ」
「まあ、うん……」
それからしばらく考え込んで、クラウスは言った。
「今思えば、誰かが正直になれば良かったんだよな」
「そうだよ。そうしたら、悲しむのは僕だけで済んだ」
「また格好付けて。でも、ルース。お前がいてくれて良かった。今までずっとミネを支えてくれて、ありがとうな。……いや、俺のものみたいな言い方は良くないか。友達としてだ、友達として」
「分かってるよ」
ルースは笑った。今さら、彼に嫉妬などしない。
クラウスは言いにくそうに口を閉じたり開いたりした後、こう言った。
「ルースはまだ伝えてないんだろ、ミネに。好きだって」
ルースの顔が少し険しくなった。
「余計なお世話だ。そんな残酷なことが出来ると思うか? 7年だぞ。ミネが苦しんだ時間は」
声に少々怒りが混じる。それほどの長い間、彼女の傷を癒せなかった自分への怒りでもあった。
「同じだけお前も苦しんだ。もういいだろ」
クラウスは真剣な顔でそう返した。
「俺は死んだ。それはもう覆らない事実だ。だからルースにもミネにも、前を向いて貰いたいんだよ。そのために、俺を抜きにして、ちゃんとミネと向き合ってほしい」
一気に言ってから、彼はこう付け加えた。
「悪いが、俺はもう、言ったからな」
「……ミネに会ったのか?」
「ああ。けど、何を話したかは秘密だ。この世界にもルールってものがある。本人に聞いてみろ」
クラウスは意地悪く笑う。ルースが顔をしかめた。
「聞けると思うか、僕が」
「昔なら無理だけど、今なら出来ると思う。ちゃんと大人になってるんだよ、お前もミネも。羨ましいな」
クラウスの言葉に切なさが混じった。彼はこれからも永遠に、年を取ることはない。
「羨ましいなんて……。君が消えて僕とミネがどれだけ辛かったか、分かってないだろう」
ルースの目が、うっすらと涙で曇っていた。
「分かってるさ。大の男がそんな顔するくらいなんだから」
クラウスは申し訳なさそうに言った。
「そこはお互い、言いっこなしにしようぜ。俺だって辛かった。どれだけ二人に会いたかったか。言い出したらきりがない。こうやって会えたんだから、それで良しとしよう。これからに向けて、一区切りだよ」
「一区切り……か」
上を向いて涙を堪え、ルースは呟いた。そういえば、ガベリアにいた頃の友人であるミックも同じことを言っていたと思い出す。
――大切な人たちがもう戻って来ないなら、ちゃんと、さようならを言って区切りを付けたい。最近はそう思うようになったんだ。どんな魔術でも時間は戻せないし、俺たちはこの世界で生きていくしかないんだから。
そう、生きていくしかないのだ。ルースは深呼吸し、クラウスに顔を向けた。
「僕は魔導師として、これから忙しくなる。クラウスのことなんか思い出さないかもしれないよ」
「それでいいさ」
クラウスがにやりと笑った。
「もう君に遠慮なんかしない。もし僕がミネにこっぴどく振られたら、笑ってくれ」
「指差して笑ってやるよ。俺の勝ちだって」
「まあ、あと数年はかかると思うけど」
「その間に取られちゃうぜ、他の男に」
「その辺の男よりはミネに好かれている自信がある」
ルースの言葉にクラウスは吹き出し、声を上げて笑う。つられて、ルースも満面の笑みになった。
「それなら、大丈夫だな。任せたぞルース。これからは誰よりも幸せになってくれ。それが友人としての願いだ」
「ああ、必ず」
「寿命が尽きたら会いに来い。どうなったか、逐一聞かせてもらうから」
二人は顔を見合せ、どちらからともなく手を突き出した。拳と拳が触れ合う。ルースが笑い、クラウスも笑う。
優しい風が、ルースの涙をしっかりと乾かしていった。