23、ロット・エンバー
子供のはしゃぐ声が聞こえる。目を閉じていても、弾けるような笑顔が頭に浮かぶ。唐突に、何かが腕の中に飛び込んでくる。
ロットは目を開けた。どこまでも続いて見える丘には一面、色とりどりの花が咲き、空は薄いベールに覆われたように白く輝いている。
これが天国というものだろうか。ロットはぼんやりと考えた。案外、人が想像する通りの場所なんだな、と。
視線を下げると、ロットの腰に手を回してぴたりとくっついている女の子がいた。6歳くらいだろうか。明るいブロンドの巻き毛に、見覚えがあった。
不意に彼女は顔を上げ、薄い瑠璃色の瞳でロットを見つめた。
「どうしたの、パパ。今日は眼鏡してないんだ」
「マーガレット……」
娘の名を呼んだのは何年ぶりか。余りにも昔過ぎて、現実味が無かった。マーガレットはぱっと顔を輝かせ、もう一度ロットに抱きついた。
「パパ、帰ってきてくれたんだね。ママも待ってたんだよ」
そう言って、後ろを振り返った。ロットはその視線の先を追う。
一人の女性がこちらへと歩いて来る。マーガレットはロットの手をぐいぐいと引いて、その女性の元へ向かった。
「おかえりなさい、ロット」
女性はロットの前で立ち止まり、目を潤ませながら微笑んだ。凛とした瞳の美しい女性だった。マーガレットと同じ明るいブロンドを後ろで束ね、形の綺麗な耳には、その昔、ロットが贈った真珠のイヤリングが揺れている。
「ミケル」
ロットは名を呼ぶのと同時に、腕を伸ばして彼女を抱き締めた。誰よりも守りたかったはずなのに、守れなかった人。初めて家族と呼べた存在。言葉の代わりに涙が溢れるのを、止めることが出来なかった。
「……すまなかった。俺だけが生きて、お前たちを逝かせてしまった。許してくれ」
ミケルの華奢な肩が、震えた。
「あなたのせいじゃない。あなたは精一杯、私たちを守ろうとしてくれた」
「それに、俺はエヴァンズを――」
「言わなくていい」
ミケルはなだめるように、ロットの背中をさすった。
「私は分かっているよ、ロット。あなたの苦しみを、ちゃんと知っているから」
彼女は幼い頃、孤児院でロットと共に過ごしていた。彼がそこでエヴァンズにどんな目に遭わされたかも知っている。何度も助けようと思ったが、幼い子供には結局、何も出来なかった。
孤児院が閉鎖されて一度は離れ離れになったが、大人になってから偶然再会し、二人は共に生きることを決めたのだった。
「もう苦しまなくていい。終わったんだよ、全部」
「こんな俺を、許してくれるのか」
腕をほどき、ミケルはロットの顔を見つめた。そして不意に、くすりと笑った。
「許すに決まってるでしょ? 馬鹿な人」
ロットよりも年下なのに、彼女は時々こんな風に彼を子供扱いした。それを思い出して、ロットも思わず頬を弛ませる。
「あ、やっと笑ったー」
マーガレットが嬉しそうに飛び跳ね、丘の向こうへ駆けて行く。
「走ると、転ぶぞ」
ロットはつい、口に出した。マーガレットは慌てん坊でよく転ぶ子供だった。私に似たのね、とミケルはいつも笑っていた。
「大丈夫。上手に走れるようになったから」
ミケルはそう言って、我が子の背中を見送る。彼女が言う通り、マーガレットは野を駆ける馬のように軽やかに走っていた。二人は並んで、マーガレットが楽しそうに走り回るのを眺めた。
「口の利き方とかも、あなたに似てきたんだよ。理屈っぽいというか……。毎日あなたと一緒にいたわけじゃないのに、不思議だね」
ミケルの細い指がそっと、ロットの手を握った。伝わる体温が、久しく感じたことのない安らぎを彼に与える。
「俺はそんなに理屈っぽいか」
「とっても。気付いてないの?」
「人に言われたことは……、あるな」
ロットは思い出す。近衛団にいた頃、エイロンに指摘された。「真面目な上に理屈っぽいときたら、女に好かれないぞ」と。
ぷっと吹き出して、ミケルはロットの腕に寄り掛かった。
「変なの。あなたって、しっかり者なのか抜けてるのかよく分からない」
「ミケルの前だけだ。……俺は誰にも、素顔を見せられなかった」
瑠璃色の瞳、凄惨な過去、本心――全てを隠してここまで来た。そして自分の手で終わらせた。魔導師としても人としても、罪を犯した。
「これから一生、監獄の中かもしれない」
ロットが呟くと、ミケルは握る手に力を込めた。マーガレットは気難しい顔をしながら花畑に屈み込み、何か作っているようだ。
「どんなあなたでも、愛しています。私たちはずっと側にいる。何年でも何十年でも、この世界で待っているから」
何かを完成させたらしいマーガレットが、勢いよく走ってくる。
「パパ! これ、あげる!」
彼女から差し出されたのは、可愛らしい花冠だった。これを作っていたようだ。
「しゃがんで。ね、ほら」
言われた通りロットが地面に膝を着くと、マーガレットは花冠を彼の頭に乗せた。疲れ切った顔にはかなり不釣り合いだったが、マーガレットは満足したようだ。
「頑張ったパパに、プレゼント!」
「そうね。パパは頑張った。……だからもう、頑張らなくていいの」
ミケルの言葉がロットの心に沁みていく。彼は俯き、地面にいくつも滴が落ちていった。
マーガレットが彼に抱き着き、次いでミケルも地面に膝を着いて、彼を抱き締めた。
「私たちはそのままのあなたを愛している。辛くなったら、思い出して」
「……もう一度、顔を良く見せてくれ」
ロットは顔を上げて二人の頬を撫で、愛しい顔をその目に焼き付けた。これから監獄で過ごす長い長い年月の間、決して忘れないように。
二人は微笑んでいた。強い風が吹き、ロットが閉じた目蓋の裏でも、その顔は消えずに残っていた。