22、ミネ・フロイス
爽やかな風が頬を撫で、花の香りが鼻をくすぐった。
ミネは目蓋を閉じたまま考える。これは夢だろうか。私はどこに立っているのだろう。足の裏に、朝露に濡れた草を踏みしめているような感覚があった。
感覚、そう、両方の足に。
ミネは弾かれたように目を開き、脚を見た。
膝から下は義足だった右脚。だが、今は違う。病衣の下に覗くのは、紛れもない人間の脚だ。色とりどりの花が咲く地面を、自分の足が踏みしめている。
「うそ……」
ミネは思わず、屈み込んで右脚に触れた。感覚がある。足先も、思い通りに動かすことが出来る。
「治った。治ってる!」
驚きと喜びで思わず言葉が出る。その拍子に、バランスを崩して尻餅を着いた。
誰かの手がすっとミネの前に差し出される。彼女は顔を上げ、更なる驚きに目を見開いた。
「……クラウス」
懐かしい、しかし1日足りとも忘れたことのない顔がそこにあった。
クラウスは18歳の姿のまま、自警団の制服を着てそこに立っていた。秀でた額に掛かる栗色の髪も、優しい微笑みもそのままだ。
「クラウス」
ミネはもう一度、彼の名を呼んだ。実体を持つ彼が目の前にいることが信じられなかった。やはり夢なのか、もしくは自分が死んだのか。
花の咲き誇る丘はどこまでも続き、空は薄いベールで覆われているかのように、ぼんやりと白く輝いている。天国とはこういうところなのだろうか。
「夢でも幻でもないよ、ミネ。ほら」
クラウスは笑って、ミネの手を握る。幻なら感じることのない、確かな体温をミネはそこに感じた。
そのまま力強く引き上げられ、ミネはクラウスと向き合う形で立った。薄茶色の瞳が、当時と同じようにまっすぐミネを見ていた。
「ガベリアは甦って、オルデンの樹に繋がれていた魂は解放されたんだ。俺はやっと、こうして君に会うことが出来た」
クラウスの指先が優しくミネの髪に触れた。
「……あなたが助けてくれたんだよね」
ミネの声が震えた。
「あの日、命懸けで、私を」
「当たり前だろ?」
クラウスは笑った。
「ミネは俺の大切な仲間だ。後悔なんてしてない」
「でも」
「俺に伝えたいことがあるって、話してただろう。あの約束、忘れたことなんてなかった。聞かせてくれよ。もう、7年経っちゃったけどさ」
クラウスは両手をミネの肩に置き、真剣な目で彼女を見る。ミネは思わず目を逸らした。7年前、否、もっと以前から抱き続け、しまい込んできた感情が、痛いくらい心臓に早鐘を打たせている。
長い年月の間に、ミネの背は少しだけクラウスに近付いていた。それでも、まだ彼の方が大きいことには変わりない。逞しいその腕に包まれることを、何度想像しただろう。悪夢の前にも、彼が消えたその後にも。
深呼吸して心を落ち着けてから、ミネはクラウスと視線を合わせた。
「私、自分が一人前の医務官になったら伝えようと思ってたんだ。あの頃はまだ未熟だったから。いつかあなたに追い付いたら、そのときにって」
「俺はそんなに立派な人間じゃないぜ。ミネの目にそう映ってたなら、まあ悪い気はしないけど」
そう言って笑い、すぐに真剣な顔に戻った。
「俺からすれば、ミネの方がよっぽど立派だった。……卑怯だったよな、俺も」
「卑怯? どうして?」
「俺からも伝えたいことがあったのに、ミネから先に言わせようとしていた」
戸惑ったように、クラウスの手は彼女の肩から離れた。
「それだけはずっと、後悔していた」
「私はね」
ミネは目に滲んだ涙を拭い、微笑んだ。
「あの頃は鈍感に見えたかもしれないけど、今は違うんだよ」
「大人になったもんな」
クラウスはそう言って、しげしげとミネの顔を眺めた。
「綺麗になったと思う。生きて一緒に過ごせたら、まだまだ変わっていくのを見られたんだけど。……やっぱり、ミネから聞かせてくれるか。それが約束だったからさ」
少しだけ頬を染めたクラウスの言葉に、ミネは頷いた。
「私、クラウスのことがずっと好きだった」
語尾が震え、止まったはずの涙がまた彼女の目に溢れた。二度と伝えることは叶わないと思っていた言葉、飲み込んだまま一生過ごすと思っていた言葉を、やっと本人に伝えることが出来たのだ。
「ううん、ちょっと違うかな。今も、好き。これからもずっと」
ミネはそう付け加えた。この気持ちが過去形でないことは、間違いなかった。
次の瞬間、彼女の体はクラウスの腕の中にあった。
「知ってたよ。だから俺は卑怯なんだ」
彼の声も、微かに涙混じりだった。
「長い間、苦しめることになって悪かった。俺もミネのことが好きだよ。自分の命を捨てても守りたいくらいに、大切な人だ」
「あなたはちゃんと、守ってくれたよ」
ミネの腕が、そっとクラウスの背に回った。
「だから私は生きている。こうやって、あなたの腕の中にいる。本当にありがとう。でも……わがままを言えるなら、一緒に生きたかった」
ミネは体を離し、泣き濡れた顔で、同じ状態になっているクラウスを見つめた。
「生き返ったりは、しないんだよね」
分かり切ったことを、尋ねずにはいられなかった。
「ああ。どんな魔術でも、ガベリアが甦ったとしても、それは出来ない」
クラウスは答えた。
「ミネは現実で、俺はこの世界で生きる。大丈夫。ずっと側にいるよ」
彼は微笑み、その手でミネの頬を拭った。
「それに、ミネの側にいるのは俺だけじゃない。鈍感じゃないなら、もう気付いてるんだろ? ルースのこと」
ミネは頷き、また一つ二つと涙を溢した。
「私も卑怯だね。ずっと気付かないふりをしてたんだから。悪夢の後、気が狂いそうになった私を支えてくれたのはルースなのに」
病院の精神棟に入れられ、発狂寸前の仲間の姿を見るのは辛いことだったはずだ。しかし、ルースはいつもミネの側にいた。頻繁に面会に来ては、泣き叫ぶミネの手を握って一緒に涙を流し、優しい言葉を掛けた。
後になってミネは思う。仲間を支えるという義務感や友情だけで、果たしてそんなことが出来るのか。答えは否だ。
「私は、彼にひどいことをしてきた」
「ルースもミネの気持ちは分かっているよ。俺なんかよりずっと周りを見ていて、賢い男だ」
クラウスは優しく言って、ミネの両手を握った。
「俺はそっちの世界でミネと一緒に生きていくことは出来ない。それが現実だ。だから前を向いて欲しい。最後まで言わなくても分かるよな。大人なんだから」
「意地悪だね、クラウス」
ミネがふっと笑みを溢すと、クラウスも満面の笑顔になった。
「それ、俺が一番好きな顔。ミネにはずっと笑っていて欲しい。今まで苦しんだ分、ちゃんと幸せになってくれよ? 俺がいなくても、きっと出来るから」
最後の言葉が切ない響きを残す。ミネの頬を、静かに涙が伝った。
「ここでお別れしても、いつか、また会えるよね」
「ああ、必ず。……ミネ、少しだけ目を閉じて」
ミネが言われた通りにすると、クラウスの手が彼女の前髪をそっと掻き分けた。そして、彼はその額に優しく口付けをした。
――これだけ覚えておいて。ミネが幸せなら、俺も幸せだからな。
風と共に、クラウスの言葉がミネの耳を掠めていった。