20、共に
「なんでオーサンが」
ルースに事実を伝えられたカイは飛び起きようとし、小さく悲鳴を上げた。まだオルデンの樹の枝は脇腹に刺さったままだ。止まっていたはずの血が、傷口からじわりと滲み出す。
「お願いだから動かないで、カイ」
ブロルが慌てて彼の肩を押さえ付けた。カイは額に脂汗を滲ませながら、すがるような目でルースを見る。ついさっきまでそこで話していたのに、死んだ――などとは到底信じることが出来なかった。
「本当にもう駄目なんですか。助からないんですか。セルマがガベリアを甦らせれば、間に合うんじゃ――」
「カイ」
思わず、ルースは声を震わせた。冷静でいようと努めていたのに、やはりカイのそんな顔を見てしまうと決意が揺らぐ。経験を重ねたつもりでいたが、自分も弱い人間なのだと思い知った。
「僕だって信じたくはない」
「……なんで」
一言そう言って、カイはその目に涙を溢れさせた。言葉は出ないのか、出せないのか、血が滲みそうなほどに噛み締めた唇の間からは、小さな呻きだけが漏れる。
オーサンとの思い出がカイの頭を駆け巡った。魔術学院で敵対していた最初の頃。少し打ち解けて、身の上話をしたときのこと。
自警団に入ってからは話す機会も減ったが、お互いのことはいつも気にしていた。口は悪く、乱暴者で、傍若無人だったが、オーサンは心から信頼出来る大切な友人だった。
彼は本部襲撃の際、セルマを連れて逃げてくれた。ナサニエル・ファーリーに誘拐されて酷い目に遭ったときも、真っ先に駆け付けてくれた。恥を捨てて本気で心配していたあの顔を、カイははっきり覚えている。
「俺の、大切な友達なんです」
嗚咽を押し退けて、言葉がカイの口を衝いた。涙に揺れる瞳の奥に、微かに力が宿っていた。
「オーサンの……亡骸は」
言いたくない言葉だったのだろう。カイの顔は一瞬、苦痛に歪んだ。
「無事なんですよね」
「ああ、無事だ。穏やかな顔をしているよ」
「一緒に帰ります。キペルへ」
「もちろん、僕たちもそのつもりだ」
ルースが強く頷くと、カイは泣き笑いの表情で言った。
「あいつ、パパが大好きだから。パパにおやすみって言ってもらわないと、俺たちがどれだけ祈ったって安らかに眠りませんよ」
目を閉じてもまだ眩しいくらいの光が、生温い風と共にセルマを包んだ。キペルの洞窟に初めて入ったときと同じように、清廉な空気が鼻腔を充たす。
「セルマ」
タユラの声が、すぐ側で聞こえた。
セルマはゆっくりと目蓋を開く。何もない、白い空間だった。そしてそこに、今まで声しか知らなかった彼女の姿を見た。
「あなたが……」
セルマは息を呑んだ。月光のように輝く銀色の長い髪と、空を思わせる蒼い瞳。自分を極限まで磨いたらこうなるんじゃないか、とセルマが思うほど、二人の顔立ちは良く似ていた。彼女は他の二人の巫女と同じく、青いドレスのような装束を纏っている。
タユラは腕を伸ばし、細い指先でセルマの傷だらけになった頬に触れた。すると一瞬にして傷は塞がり、かぎ裂きでぼろぼろになった服も元に戻っていた。
「私がその服を着ることが無いように、貴女もこの服を着ることは無いでしょう。セルマ、私たちは別の道を選び、違う未来へと繋げなければならない」
違う未来――それこそが、タユラが遥か昔から望み続けたものだった。そのために慣例を破ってセルマを人の営みの中に置き、愛を学ばせ、痛みを覚えさせた。そして彼女はついに、ここへ辿り着いた。
タユラはそっとセルマの両手を握る。氷のように冷たいその手に、セルマは胸が苦しくなるのを感じた。なぜ、巫女たちの手はこれほどに冷たいのだろう。
「この手は私たちの心を表します。私たちは永い間、固く心を閉ざさねばならなかった。オルデンの樹を制し、リスカスを守るために」
心を読んだかのように、タユラはその蒼い目でセルマを見据えた。
「だが、貴女は違う。私がそうであってほしいと願ったように、人と心を通わせることが出来る。それが痛みでも、苦しみでも」
「あなたたちだって、同じだ」
タユラを見返すセルマの瞳に、微かな光が煌めいた。彼女は言葉に熱を込めた。
「私たちと同じ人間だよ。辛いとか、苦しいとか、言葉にするのは許されなかったのかもしれないけど。心は死んでいない。絶対に」
「心は死んでいない……ですか」
タユラは呟き、目を伏せた。セルマは不意に、氷のようだった彼女の手が熱を持ったのを感じた。
「貴女を信じたことは間違いではなかった」
再び視線を上げたタユラは、悲しみと喜びをない交ぜにしたような、複雑な表情をしていた。
「だが、セルマ。私は貴女に、別れを強いなければならないかもしれない。ガベリアを甦らせるには――」
「私の大切な人たちが助かるのなら、私は消えてもいい」
はっきりと、セルマは言った。
「ガベリアへ入ってからずっと、覚悟はしていた。もちろんその人たちと一緒に生きていけるなら、それが一番いいよ。でも私は巫女なんだ。役目がある。私を信じて、命を懸けてくれた人たちがいる。それに応えたい」
――私はまだ、希望はあると思っている。貴方たちがそう思わせてくれた。
イプタは諦めなかった。
――それでも、私は貴女に託したい。ガベリアを甦らせ、オルデンの樹を元の姿に。この世界に生きる、愛する人々のためです。
パトイに、託された。
――お前なら大丈夫だ、セルマ。
カイは自分を信じてくれた。全ては、この世界のために。
「タユラ、力を貸してくれるか」
セルマはタユラの手を強く握り返す。蒼い瞳が、更に輝きを増した。
「ええ。貴女に、私の全てを託しましょう」
タユラはすっと手を引いて、セルマの胸元に揺れる水晶に触れる。光る羽虫がタユラの周囲を漂い出す。それは徐々に数を増し、二人を目映い光で包んでいた。
「私はこの空間から出ることは出来ない。故にセルマ、ここからは貴女一人でオルデンの樹に立ち向かうことになる」
タユラの言葉に、セルマは強く頷いてみせた。
「ここを出ると、貴女はガベリアの巫女の洞窟にいます。この欠片を樹の幹に嵌め込むのです。正面に、一部欠けている場所があります。きっと分かるはず。樹は今までよりも強く拒絶するでしょうが、貴女なら大丈夫です」
「やり遂げてみせる。私はガベリアの巫女だから」
その言葉にタユラは微笑むと、両腕を伸ばしてセルマを強く抱き締めた。
「私の魂は最期まで貴女と共にあります。ありがとう、セルマ」
羽虫の光が目も眩むほどに強くなる。セルマは目を閉じ、覚悟を決めた。この身が切り裂かれても、絶対に役目を果たしてみせる、と。
不意に光が消え、タユラの腕の感触も消えた。何かが軋むような音が響く中で、冷たい風が頬を撫でた。
「これが……」
目を開けたセルマが見たのは、視界一面を覆うように伸びた枝だった。オルデンの樹は高い天井にも届くほど、そして広い洞窟内を埋め尽くすほど縦横無尽に枝を伸ばし、それらは不気味に蠢いていた。
「……っ!」
セルマの顔目掛けて、鋭い枝の先端が飛んでくる。間一髪でかわし、枝はそのまま壁に突き刺さった。もし当たっていたら、間違いなく即死だ。
(何とかして近付かないと……)
セルマは壁際を走りながら、次々と自分を狙ってくる枝を避けるのに精一杯だった。樹の幹は洞窟の奥に見える。丸腰で近付くのは難しい。
セルマは腰に携えていたサーベルを抜いた。使い方は、念のためにとカイに少しだけ教わっている。
(もう少しだ。私は絶対に、諦めたりしない)
柄を握り締め、セルマは地面を蹴った。