7、揺らめく闇
湖面が揺れる。ややあって、そこから勢いよくルースとブロルの顔が飛び出した。
「死ぬ、かと、思った!」
ブロルは息も絶え絶えに、必死でルースにしがみついた。手足がかじかむほど水が冷たい上に、彼は泳げないのだ。
「沈むから、力は抜いて。さもないと気絶させるよ」
ルースは半ば本気でそう言った。初めてブロルと出会ったとき、溺れかけていた彼が大いに暴れて、助けに入ったカイを沈めそうになった前科がある。ひっ、と小さく声を漏らし、ブロルはすぐに力を抜いた。
ルースはブロルの体を引っ張りながら急いで岸へと泳ぐ。やっとの思いでたどり着くと、水浸しになったはずの体は一瞬にして乾いていた。
「どうなってるんだろう、これ。それに……色が無い」
ブロルは辺りを見回す。厚い雲と不気味な明るさに包まれた景色は一面の灰色で、水の中にいたときは見えていたはずの月も無い。目の前にある大きな湖だけが、刺さるように鮮やかな瑠璃色をしていた。
「オルデンの樹の魔力なんだろうけど……、静かだね」
ルースが耳を澄ませてみるが、風の音すらしない。湖の周囲に生い茂る木々の間に、動物の気配も無かった。
「彼、一緒に来てくれてればな」
ブロルが言う彼とは、二人をここまで導いた白い鹿のことだ。
「仕方ないよ。ここへ入ったら、彼は魔力に負けて消えてしまうんだから」
「そっか。……カイたちも、どこかにいるんだよね。どうすれば合流出来るかな」
ブロルが言った。
「そうだね。目的地は同じ巫女の洞窟だけど」
ルースが言いかけた、その時だった。
微かな地響きを感じる。低く唸るような音は次第に大きくなり、やがてぴたりと消えた。
「ルース、あれ!」
ブロルが南の空を指差して叫んだ。
黒い火柱――そう呼ぶ以外に例えようがないほど禍々しいものが、遠くで、分厚い雲に届くほど高く揺らめいている。
「オルデンの樹だ」
ルースが言った。
「セルマたちが近付いたから、魔力が暴走しだしたのかもしれない。ここからそれほど離れていない場所だ。急ごう!」
二人は黒い火柱の方角へ、木々の間を縫って走り出した。
「あそこがガベリア支部だ。あの地下に、巫女の洞窟がある」
そう言って、エスカは遠くに見える黒い火柱を睨み付けた。
一同は西9区にいた。ガベリア支部がある中央区の、すぐ隣だ。彼らは運び屋が少ない地域に特別に設置されている『飛び駅』を使い、ここまで来ていた。
飛び駅を使えるのはもちろん魔導師だけで、それなりの魔力が必要とされる。悪用されないよう、点在するそれぞれの駅が一方通行で、どこからどこへ飛ぶかは魔導師しか知らない。
ガベリアが消えた今、それを覚えている者は数えるほどしかいなかった。エスカは貴重なその一人だ。
「ここから先に飛び駅はないから、歩いていくしかない」
「走って20分、ってところですか」
オーサンが目測で言った。住居の間を縫うように伸びる小道を使うと、到底その程度では着きそうもない。彼は屋根の上を走る気でいた。
「邪魔さえ入らなければ」
エスカが言った。
「ちょっと見てみます」
エーゼルが軽々と屋根の上に飛び乗り、周囲に目を走らせた。支部の方角には住居の屋根が続き、途中に広場があって、また住居が続く。キペルと同じように都市部は人口も多いのだ。そこから林を挟み、その向こうに小高い丘がある。支部はその丘の上にあった。
だが今は、揺らめく黒い火柱に飲み込まれて、その姿が確認できない。エーゼルは目を細めつつ、肌がひりつくようなその魔力に思わず息を呑んだ。
「……何もなさそうです。あの黒いやつ、かなり大きいですよ。支部が見えない」
エーゼルが下に向かって言うと、一同は屋根の上に飛び乗った。セルマはカイに背負われてだ。
全員が改めてその姿を目にし、一瞬、口をつぐんだ。あそこには巫女の力が無ければ間違いなく消えているくらいの魔力がある。
「……下ろして、カイ」
セルマはそう言って、カイの背から下りる。ここで皆に、言わなければならないことがあった。彼女が密かに決意したことだ。
「みんなは、あの林の辺りまででいい。そこから先は私一人で行く」
あの闇の中に入って、カイたちが無事でいられる保証がなかった。巫女であるセルマでさえあれを恐ろしく感じているのだ。頼みの綱であるタユラの首飾りも、既に壊れてしまった。
「馬鹿か」
皆が抗議するより早く、カイが怒ったように言った。
「俺たちが何のためにここまで来たと思ってるんだ? ただの道案内かよ。ふざけんな」
「でも、あそこに入ったら――」
「生きて帰るんだよ、俺たちは。最初っから死ぬ気になるな!」
カイは怒鳴った。
「間違っても、お前が一人で犠牲になればいいなんて思うなよ。巫女だろうが何だろうが、大事な仲間なんだ」
真剣な目がセルマを射抜く。
――お前が何か酷い目に遭わされるのを黙って見てろって言われたら、それは出来ないと思う。
出会ってすぐの頃、カイに言われた言葉だ。彼の目はそのときと同じだった。どんなときでも揺らぐことのない彼の信念に、涙が自然とセルマの頬を伝った。恐怖と絶望で凍えた胸がじわりと熱くなる。
「自分で選んだ仲間だろ、セルマ。忘れたか?」
オーサンが言って、にやりと笑った。
「ただ言われて着いてきたと思っているなら、改めて欲しい。ここにいるのは自分の意志だ」
エーゼルも言った。そしてエスカが、こう結んだ。
「俺たちみたいにまともな魔導師を舐めてもらっちゃ困るな。最初から死ぬつもりで戦うことを、覚悟とは言わない。……誰に言われたんだったか。とりあえず、行くぞ。ガベリアに夜明けが来るかどうかは、俺たちにかかっている」