6、記憶の中に
「巫女の洞窟はガベリア支部の地下、つまり中央1区にある」
そう言いながら、エスカは先頭に立ってガベリアの街を進んでいく。一同は無言だった。色も無く、不気味な明るさに包まれた時間の流れない景色に、徐々に心を蝕まれ始めていたのだ。
「気をしっかり持てよ、お前たち。こんな序盤で魔力に当てられたんじゃ話にならない」
エスカが振り返り、励ましのような嫌味のような言葉を投げ掛けた。
事実、心が沈むのは景色のせいだけではない。ガベリアに満ちているオルデンの樹の魔力が、彼らの気力を奪っているのだった。
「そうですね。まだ先は長そうですし……」
エーゼルは気難しい顔で視線を宙に漂わせていた。調査のためにガベリアへ入り、消えてしまった兄を思い出しているのだろう。
「みんながみんな、エスカ副隊長みたいに楽観的じゃないんですよ。というより、地図も無いのに支部の場所が分かるんですか?」
オーサンが生意気な口を利くと、エスカはふんと鼻を鳴らして答えた。
「舐めるなよ。俺は魔導師の中でも、悪夢が起きる前のガベリアを知っている世代だ」
「どんな街でしたか?」
カイが尋ねた。ルースの故郷であるガベリアのことを今さら知りたくなったのだ。ルース本人の口から彼の過去を聞いたことは、思えばほとんど無かった。
「ここも、キペルやスタミシアとそう変わらないよ。都市部は栄えているし、田舎は田舎だ。他よりは自然が豊かで、そうだな……、晴れている日が多かった気がする」
エスカはそう言って、分厚い雲に覆われた空に目を遣った。
「ガベリア支部にいた同期が言ってたな。『ここの夏は日焼けするから嫌だ』って」
彼は寂しそうに笑う。その同期は恐らく、ガベリアの悪夢で消えてしまったのだろう。
「お前たちも知ってはいるだろうが、ガベリアのことを語る人は少ない。恐ろしいのか、覚えていないのか、必死で忘れようとしているのか……。人生で一番の不条理だよ、悪夢は。大切なものが一瞬で奪い取られて、後には何もない。残っているのは記憶だけだ」
再び歩き出しながら、エスカは続けた。
「だから、俺はその記憶を大切にしたい。思い出す度に胸が抉られても、忘れることだけはしたくないんだ。忘れたら、本当の意味でその人たちは消えてしまうから」
それを聞いたセルマの目から、不意に涙が零れる。
もしガベリアが甦り、それと引き換えに自分が消えたら、ここにいる仲間は自分を忘れずにいてくれるだろうか――そんなことを思ったのだ。
周りに悟られないように、セルマは急いで頬を拭った。彼らは自分のために、危険を冒してまで着いてきてくれた。ここで泣いている場合ではない。
そのときだった。
セルマの胸元で、何かが弾ける音がした。彼女が慌てて首飾りを引っ張り出すと、その石座に嵌められた黒水晶が粉々に砕けて地面に落ちていった。
病院のベッドで熱にうなされるミネの側には、医務官のルカが立っていた。医務室にいる近衛団員たちの容態がひとまず落ち着いたので、彼女の様子を見に来たのだ。時刻は既に深夜で、病院の中は静まり返っていた。
近衛団がオルデンの樹の暴走を止めたことで、ミネの脚の腐食も止まっていた。ただ、これ以上の治療をしたくても既にあらゆる魔術で手は尽くしてある。後は本人の回復力と気力次第で、ルカも今は彼女の額の汗を拭うくらいしか出来なかった。
ルカにとって、ミネは最初から心配の絶えない後輩だった。何事も一生懸命にやり過ぎて、その身をすり減らしているように見えたからだ。なぜそれほど頑張るのか尋ねても、ミネは曖昧に答えるだけだった。
「クラウス……」
不意に、ミネがそう呟いた。ルカは悲しげに目を伏せる。彼は知っていた。その人物こそ、彼女が無理を重ねる理由だと。
――自警団には各地に配属された新人たちが一度、キペルに集められる日がある。お互いの状況を確認して意識を高めるという名目だが、実際は学生時代の仲間と語り合い、息抜きの機会を作ることが目的だ。
10年前のその日、ミネが中庭でクラウスと話しているのをルカは目撃していた。始終笑顔で楽しそうに喋っていたミネだが、クラウスがその場を離れた途端、両手で顔を覆って小さく肩を震わせた。
傍目にも泣いているのは分かった。だが、声を掛けるのは躊躇われた。ミネにとっては、誰にも見られたくない場面に違いない。
ルカが悶々としながら廊下を歩いていると、窓からじっと中庭を見ている隊員に出くわした。それが、まだ新人だったルースだ。
「あ……、お疲れ様です」
ルカに気付いたルースは、そう言って会釈する。
「お疲れ。君、ミネの同期だろう?」
新人の中でも一際端整な顔をしているルースのことは、ルカも以前から把握していた。自分の同期であるエスカが、第二隊に目の離せない新人が入ったと話していたせいもある。
「はい」
「慰めなくて平気か?」
ルカはちらりと中庭を見遣って、言った。
「僕が何か言ったところで……」
ルースは辛そうに表情を歪め、口ごもる。その内ミネは頬を拭い、走り去っていった。
「そうだな。色恋沙汰に口を挟むのは、あまり誉められたことじゃないし」
「分かるんですか?」
ルースが驚いたように顔を上げる。
「俺は、君が驚いたことに驚いているよ」
ルカは苦笑した。同時に、彼がばれていないと思い込んでいるのが少し微笑ましくもあった。
「何があったのか、深くは聞かないけどさ」
「……ミネは、頑張り屋なんです」
しばらく黙った後、ルースはぽつりと話し出した。
「辛くても自分からは絶対に言わないし、弱音も吐きません」
「俺もそう思っていたところだよ。日々の仕事に関しても、ちょっと頑張りすぎだな。ただ、休めと言っても聞かないし、どうしたものか。君は仲がいいんだろう? ミネから何か聞いていないか?」
ルースは首を横に振った。
「いいえ。それとなく聞いてみても、大丈夫としか言わないんです。でも……ミネは、クラウスに追い付きたいんだと思います」
「クラウスって、さっきの?」
「はい。彼に認められるような医務官になりたくて、必死なんです。そんなことしなくたって、ミネはそのままでいいのに」
最後の一言に、ルカはルースの本音を聞いたような気がした――。
(……ミネも、気付いてはいるんだろうな)
熱が下がり、穏やかな寝息を立て始めたミネの顔を眺めながら、ルカはそう思った。あそこまで自分を想ってくれている人が側にいて、気付かないのも難しいはずだ。
ただクラウスの存在がある限り、ミネがルースの想いを素直に受け取ることはないだろう、とも思っていた。
既にこの世にない人間との記憶の上には、何も重ねることが出来ない。その記憶が薄まってしまうのが恐ろしいからだ。
ルカはふと、窓の外に目を向けた。夜更けの空の下で、月光に雪がちらついているのが見える。
その光景に、悪夢からひと月ほど経った頃の記憶が甦る。降る雪と、不気味なくらいの静けさの中に、悲鳴が聞こえる。病院の精神棟に収容されていたミネの叫び声だ。
(無事に帰って来いよ、ルース。ミネのためにも)
ルカは月を睨み付けるようにして拳を握り締める。あの状況を、二度と繰り返したくはなかった。
そして彼は、様子を見に来た看護官と入れ代わるように部屋を出ていった。