5、寄り添う者
ルースは先頭を行く白い鹿を追って、ブロルと共に洞窟の奥へと進んでいた。進むにつれ、洞窟内をぼんやりと照らしていたロウソクウリが減っていき、暗がりが面積を増してくる。
その鹿が元々は人間で、ガベリアの巫女の恋人だった――俄には信じがたい話だったが、そうでなければ人語を解する動物がいることに説明が付かない。
ブロルは真剣な顔をして鹿を見つめていた。ルースには聞こえないが、彼には鹿の話す言葉が聞こえているのだろう。
「……僕が知っている話とはちょっと違ったみたいだけど」
そう前置きして、ブロルは口を開いた。
「彼が湖に身投げしたのは、130年前のことだって。ちょうど、巫女の役目がタユラに引き継がれた頃」
「つまり、その巫女が役目を終えたのと同時に?」
ルースが問うと、ブロルは頷いた。
「そうすれば永遠に一緒にいられるから、って。結果的には今の姿になって、生き続けてしまったけど」
それを聞いて胸が痛むのを感じながら、ルースは疑問を口にした。
「一体、彼はどうやって巫女と出会ったんだろう」
「前に僕がした人柱の話、覚えてる? 昔、水害が起きないように、僕らの民族の一人が生きたまま川に沈められたって話」
ルースははっとした。
「ああ、覚えてる。もしかしてその一人が」
「そう、彼だった。それでその川っていうのが、カムス川だったんだって。キペルからガベリアまで繋がる、大きな川。そして気が付いたら、巫女の洞窟の中にいた」
自身もそれを体験したルースには、納得のいく理由だった。カムス川は巫女の洞窟と繋がっている。ただ、洞窟には誰でも入れるわけではない。巫女と、オルデンの樹が認めた者だけだ。
「巫女が、彼を救ったってこと?」
ブロルは頷き、鹿が話した内容をかいつまんで説明した。
巫女は既に役目を終える時が近付いていて、生気のない顔で樹の下に倒れていた。彼は思わず、駆け寄って巫女を抱き起こした。すると彼女は微笑んで「最期に美しい色を見ることができた」と言った。
美しい色とは、ブロルたち山の民族が持つ、瑠璃色の瞳を指しているのだろう。巫女の洞窟にある色は岩壁の白か、オルデンの樹の黒だけだ。
「彼はどうしようもなく涙が溢れたんだって。何百年も洞窟に閉じ込められて、役目を果たしてきた巫女の孤独が分かったから……」
そう言って、ブロルも少し鼻をすすった。
「彼は巫女に、最期まで寄り添いたいと思った。僕は最初、彼のことを巫女の恋人って言ったけど……もっと美しくて、穢れのない関係だったんだね」
ブロルが一度言葉を切ると、鹿は立ち止まり、二人を振り返る。その瑠璃色の瞳に、深い哀しみが浮かんでいるようにも見えた。
ブロルが続ける。
「彼は巫女から、首飾りを預かった。……それが今、僕の持っているこの首飾り。黒く穢れる前の、オルデンの樹の欠片」
彼は首から提げたそれを引っ張り出して、目の前に翳す。どこまでも透き通った水晶の欠片が、小さく揺れた。
「『いつか運命の動く刻、紡がれた先にいる者の手で、希望と共に、あるべき場所へ還る』って、巫女は言ったみたい」
「紡がれた先にいる者……」
その人物が誰か、ルースにはすぐ思い当たった。
「君のことじゃないかな、ブロル」
「僕?」
「ああ。山の民族の末裔だし。希望というのは、おそらくセルマのことだ。そうですよね?」
鹿は僅かに、頷いたように見えた。
「『あるべき場所』は、ガベリアの巫女の洞窟。あなたは、そこへ僕たちを導こうとしている。……過去にブロルや僕を助けたのも、そのためですか?」
「僕を助けたのはそうだけど、ルースを助けたのは偶然なんだって」
ブロルが代わりに答えた。
「湖に落とされたルースを、たまたま見付けて、助けたみたい」
「落とされた?」
ルースは怪訝な顔をした。自分が湖に落ちたのは、てっきり事故だと思っていた。ただ、その辺りの記憶が曖昧なのも確かだ。
「誰かが子供だったルースを湖に投げ入れたのを、彼ははっきり見ていた。帽子を深く被っていて顔は見えなかったけど、大人の、男みたいだったって」
「大人の男……」
ルースは一瞬考え込んだが、すぐに顔を上げた。
「いや、今はどうでもいい。彼の姿を見るまで、その事故を忘れていたくらいなんだから」
そう言ってみたが、胸の奥には嫌なざわめきが残っていた。
鹿はまた、先へと進んでいく。気付けば洞窟の中は真っ暗になっていたが、鹿の白い体はそれ自体が発光しているかのように輝き、二人を導いていった。
しばらくして狭い通路を抜けると、突然、周囲が不思議な明るさに包まれた。
「すごい……」
ブロルがその光景に息を呑む。少し開けたその場所には、壁一面に広がる大きな窓のようなものがあった。窓の向こうは水で満たされていて、その遥か上から光が射し込んでいるようだ。
水を通した光は柔らかな瑠璃色となって、静かに揺れながら彼らに降り注いでいた。
「オルデンの瞳……?」
ルースはその窓に近付き、そっと手を伸ばした。指先はそのまま、水の中へ吸い込まれていく。
「えっ、どうなってるの?」
ブロルが目を見開いた。ルースは手を引っ込め、言った。
「ここにガラスがあるわけじゃない。魔術で水を固定してあるだけなんだ。つまり」
鹿に顔を向ける。
「ここからガベリアへ入れるということですね」