2、動かぬ景色
ガベリアの森へと踏み込んだセルマたちは、そこで意外な光景を目にしていた。
おそらくは闇の中で何も見えないだろうと想像していたが、実際、そこは昼なのか夜なのか分からない不気味な明るさに包まれていた。遠くまではっきりと景色が見通せるが、空に月は見えず、月光の明るさというわけでもないらしい。
そして何よりも不気味なのが、その景色に色が無いことだった。どこを見ても、全てが白黒なのだ。
「目がおかしくなった訳じゃないよな……」
カイは隣にいるセルマを見た。彼女の銀色の髪も、蒼い目もそのままだ。どうやら色が無いのはこの景色だけらしい。
オーサンが少し鼻をひくつかせて、言った。
「風もないし、匂いもしない。変な空間だ」
「獣の気配もないし、俺たちにとっては都合がいいかもしれない。先へ進もう」
エスカを先頭に、一同は森の中を進んだ。
変わり映えの無い景色の中を二十分ほど行くと、緩やかな斜面と疎らな木立の向こうに、街並みのようなものが見え始めた。その景色も、やはり白黒だった。
「人は……いないですよね、やっぱり」
エーゼルが呟いた。ひっそりとした街の中には、何一つ動くものがない。しかし、かつてはここに人々の活気が溢れていたはずだ。名実共に色の無い世界が、そこにあった。
斜面を下り、一同は街に降り立った。すぐ側の建物に掲げられた看板には『北3区』の文字が見える。
「こんなに綺麗なまま残っているなんて、驚きだ」
そう言って、オーサンが辺りを見た。建ち並ぶ店や家々には少しも朽ちた様子がなく、かつて住民が清掃したであろう道路には枯れ葉一つ落ちていない。
街の中心へ歩を進めていくと、そこで生活を営んでいた人々の痕跡が嫌でも目に入ってきた。
民家の窓から見える台所には、これから洗われるはずだった食器が積まれている。花屋の前に放置された乳母車は主を失くし、今はそこに小さな人形だけが横たわっていた。道路のあちこちには配達の途中だったと思われる荷物が、台車に積まれたまま残されている。
エスカは心の内で、ここにルースがいなくて良かったかもしれないと思っていた。恐らくは彼の実家も、当時のままの状態で残されているはずだ。当事者であるルースにとって、その光景は何よりも辛いに違いない。
セルマは時の流れないその景色を見渡し、微かに唇を噛む。ガベリアへ入ったときから、彼女には漠然と考えていたことがあった。
ここを元の世界に戻すには、自分の命を差し出す必要があるかもしれない、と。
洞窟の中に広がるぼんやりとした明かりが、まだ乾ききらない涙を彼らの頬に光らせている。
ブロルもルースも、そしてロットも、物言わぬ骸となったエイロンを前に、込み上げる感情を隠そうとはしていなかった。
しばしの沈黙の後、ロットがルースに顔を向けて言った。
「遺体は丁重に扱うように、俺が説得する。お前たちは先へ行け。ルース、お前のことだから、俺のことは既に本部へ報告してあるんだろう」
「ええ。間も無く、フィズ隊長らがここへ到着するかと思います」
「そうか」
ロットはどこか満足げに頷いた。
「それなら、なおさら急ぐべきだ。余計な足止めを食らいたくなければな。……この洞窟を更に奥へ行けば、ガベリアと繋がっているはずだ。エイロンが考えもなしにここへ逃げ込んだとは思えない」
そう言って、不意に洞窟の入口方面に顔を向ける。
同じように顔を向けたルースとブロルの二人は、そこに佇む生物の姿に思わず息を呑んだ。
目映いほどの白い毛並みに、瑠璃色の瞳が光る。立派な角を持つ、雄鹿のようだ。
「あ……」
その鹿を見た瞬間、ルースの頭に記憶が甦った。
揺れる空の景色と、必死にもがく手足。全身が冷たさに包まれ、音は聴こえず、呼吸も出来ない。
そこが水の中だと気付いた瞬間、ルースの視界に白いものが入り込んだ。それは彼の体を軽々と水面に引き上げ、そのまま陸に上がる。
むせ込みながらルースが顔を上げると、あの白い鹿が優しく彼を見下ろしていたのだ。今の今まで、忘れていた記憶だった。
「あっ。あれ……」
ブロルも声を上げた。
「落雷があった日に、僕のこと、ホリグマの巣穴に落とした鹿だ!」
そう言って目をしばたき、ルースに顔を向ける。
「それで僕は、一人だけ雷に当たらずに済んだんだ。あの色だし、あの目だった。間違いない」
「僕も昔、あの鹿に助けられたことがある。……隊長、何か知っているんですか?」
ルースがロットに尋ねると、彼は首を横に振った。
「俺に分かるのは、彼が敵ではないということだけだ。そうだろう?」
ロットが言うと、鹿は頷いたように見えた。
「……恋人?」
唐突にブロルがそう言って、黙り込んだ。視線はじっと鹿に向けられている。
数秒経って、鹿は洞窟の奥へと軽い足取りで歩き出した。
「行こう、ルース。彼が案内してくれるって」
鹿を目で追いつつ、ブロルが言う。
「あの鹿って、一体……」
「ガベリアの巫女の、恋人だった人。ほら、前に汽車の中で話したでしょう。オルデンの瞳の話。僕らの民族の一人が湖に身投げして、それで湖の色が変わったって。彼は、その人だよ」