65、一歩
カイたちはついにガベリアとの境界に辿り着き、息を飲んだ。
天から黒いカーテンが引かれているかのように、境界の向こうには景色を全て切り取ったかのような闇が広がっていた。現実ではあり得ない光景だ。
「この向こう側、どうなってるんだ……」
カイが呟く。暗闇の中は音もしなければ、風も吹いていないようだった。月の光も全て吸収してしまうほどの深い闇。禍々しい、その一言に尽きる。
「入ったら死ぬと言われているのも、分かる気がします」
エーゼルが言った。かつて自分の兄がここへ入って消えたと知っている分、その恐怖を肌身に感じたのだ。
「ここから先、どうなるかは誰にも分からない。俺たちはセルマの力を信じるしかない。引き返す奴は?」
エスカは全員の目を見るが、意思の強さは皆同じだった。
「……そうか。じゃあ、立ち止まっている時間は無い。セルマ、頼んだよ」
「分かった。絶対に、誰も死なせないから」
セルマは強くそう言って、首飾りを握った。そして目を閉じ、古代ガベリア語で何か呟く。
すると、首飾りが目も眩む程の光を放った。全員が思わず目を覆った一瞬、何かが身体を突き抜けていくような感覚に襲われる。
再び目を開けると、先程と何も変わらない光景がそこにあった。
「これで、大丈夫になったのか?」
オーサンが不思議そうに手を握ったり開いたりし、唐突に暗闇の中へ手を突っ込んだ。
「おい!」
カイが思わず声を上げる。
「……大丈夫っぽいぜ。ほら」
オーサンは暗闇から引き抜いた手を振ってみせる。その手は無傷だ。本来なら、消えて無くなっているはずだった。
他の隊員も試してみるが、同じく無傷だった。
「よし。じゃあ、一斉に入ることにしよう。覚悟はいいか?」
エスカが声を掛けると、全員が頷いた。
「中がどうなっているかは全く分からない。くれぐれも、はぐれるなよ。……いくぞ。3、2、1――」
彼らは地面を蹴り、ついに、呪われた地ガベリアへと踏み込んだ。
「……ルース、ルース!」
ブロルに揺り起こされ、ルースは洞窟の中で目を覚ました。慌てて身体を起こすと、激しい目眩に襲われる。ロットの強い魔力にあてられたらしい。
ぼやけた視界の中にロットを探すが、彼の姿は既に消えていた。
「どのくらい経ったか、分かるかい?」
ルースはブロルに尋ねる。
「分からない。目が覚めたらルースが倒れていて、あの人はいなくなってた」
「君は何か映像を見た?」
「え? ううん、何も」
どうやらロットは、ルースだけにあの記憶を見せたらしい。深呼吸をすると、目眩が治まって視界がはっきりしてくる。
「ロット隊長を追おう。彼を止めないと」
ルースが立ち上がった、そのときだった。ブロルが首から提げていた水晶の欠片が、一瞬、目映いほどの光を放つ。二人は得体の知れない何かが身体を突き抜けていくのを感じた。
「何だろう、今の……」
ブロルは首飾りを手に目をしばたいた。水晶に、特に変わったところは無い。
「何となく、悪いものではないような気もするけど」
「セルマたちがガベリアに入ったのかもしれない」
ブロルが持つその水晶は、黒くなる前のオルデンの樹だ。無関係ではないかもしれないと、ルースは思った。
「じゃあ、僕たちも早く追わないと」
ブロルは焦ったように言う。
「そうだね。いずれは僕たちもガベリアに入ることになる。でもその前に、隊長だ」
「やっぱり、あの人はエイロンを殺すつもりなの?」
ブロルの表情が翳った。
「ああ。でも、憎しみからじゃない。……エイロンを、苦しみから救うためだ」
――俺の手で終わらせる。大切な仲間として。
ロットはそう言っていた。それはつまり、償い切れぬ罪を背負ったエイロンを楽にさせたいということだ。恐らくは、自分の命と共に。
「救うためって……。そんなの、あの人の勝手じゃないか!」
ブロルは憤慨したように言う。
「僕はエイロンを死なせたくない。彼がどんな罪を犯していたとしても、一緒に生きて、苦しむ覚悟があるんだ」
「分かっているよ。僕だって、二人が死んで終わりだなんて間違っていると思う。それが隊長の考える正しい道なのかもしれない。でも、僕の考える正しい道とは違う。だから止めるんだ」
ルースの言葉に、ブロルは少し落ち着きを取り戻したようだった。
「でも何処へ行ったのか、分かる?」
彼は困惑したように洞窟を見回す。進むべきは洞窟の更に奥か、来た道を戻るかのどちらかしかない。
「動かないで」
突然、ルースはブロルの肩に手を伸ばした。そして摘まみ上げたのは、長い黒髪だった。
「それ……」
「ロット隊長の髪だ。たぶん、君のことを背負ったときに付いたんだと思う。わざとかもしれないけど」
ルースがそれを手のひらに乗せると、そこから青白い光の球体が浮かび上がり、燕の形に変わる。追跡の魔術だ。
燕は迷うこと無く洞窟の奥へと飛んでいく。
「行こう」
二人はそれを追って、駆け出した。