10、優しい人
医務室にセルマを送り届け、隊長のロットに報告のナシルンを送ってから、カイは本部の外へ出た。やはりルースの行方が気になったからだ。ただ、玄関前には多数の足跡があり、どれがルースのものかは分からなかった。
(これじゃ追跡出来ないな……)
とりあえずスラム街へ向かおうと、一歩踏み出したときだ。
「おい、何処へ行く」
誰かに肩を掴まれた。振り返らずとも、カイには声だけで分かる。いつも嫌がらせをしてくる先輩のエーゼルだ。
彼はそのまま乱暴にカイを振り向かせた。好青年の見た目にはそぐわず、動作は粗暴だ。よりによってこんなときに、とカイは苛立ちを募らせる。今はエーゼルの相手などしている場合ではない。
「副隊長を探しに行くんです」
言ってから、はっとした。エーゼルがルースを崇拝しているということを忘れていたのだ。これで、ただでは解放されなくなってしまった。
「副隊長がどうした。何かあったのか?」
予想通り、エーゼルの目の色が変わる。胸倉を掴み上げる勢いで、彼はカイを問い質した。
「答えろ」
「分からないから探しに行くんです。放して下さい、急いでるんだ!」
今まで何をされても反抗などしてこなかったカイだが、思わず声を上げてしまった。エーゼルは微かに狼狽え、手を放した。
「……どうしてそんなに急ぐんだよ」
「考えれば考えるほど、嫌な予感がするんです。先輩なら分かるでしょう。副隊長が指示もなしに部下を放っておくなんて、おかしい」
「確かにそれは……。何処にいるのか、見当は付くのか?」
「スラム街に行くと言ってました。詳しいことは省かせて下さい」
「隊長は知っているんだろうな」
「ナシルンで報告しました。指示はまだ」
貰っていない、と言おうとしたとき、ナシルンが颯爽と二人の元へ飛んできた。首元に『1』と刻印されたタグを下げている。第一隊全体への連絡だ。この場合は、ナシルンに触れなくともメッセージを聞き取ることが出来る。
『非常事態だ。ルースの“霊証”が西9区で途絶えた。カムス川流域だ。事故とは考えにくい。総員、最大限に警戒して捜索に当たれ』
カイとエーゼルは顔を見合わせる。霊証とは、特殊な地図上で魔導師の所在を示す目印のようなものだ。自警団では各隊長が隊員の霊証を常に把握している。
霊証が消えるのは、キペルの外へ出たとき、もしくは本人の生命力が著しく低下しているとき、あるいは――死んでいるときだ。
二人は会話を交わす間も無く走り出した。
「はい、これで大丈夫。もう無理しちゃダメだよ」
医務室ではミネがセルマの治療に当たっていた。本来は非番だったが、話を聞き付けて待っていたのだ。
捻挫して腫れ上がっていたセルマの足首は元通りになっている。椅子から立ち上がって数歩歩いてみるが、痛みも感じなかった。
「ありがとう……」
セルマは椅子に腰掛けて俯いた。自分が無断で出ていったことで何人もの人が動き、申し訳ないのと同時に、少し嬉しかったのだ。
今までの人生で、誰かに心配されたことなどなかった。自分が消えても誰も気にしないと思っていた。それなのに。
「あれ、……泣いてる?」
「泣いてない。見るな」
目元をごしごしと擦って、セルマは顔を逸らした。
「……人が良すぎるんだよ、魔導師は」
「カイのことでしょう」
ミネは優しく笑った。
「口は悪いし生意気だけど、優しい子だから。ルースが目を掛けるのも分かるな。あの二人、似てるもの」
「似てるか? 私には、あのルースって人、冷たくて感情が無いように見える」
「うん。確かに今はそう」
ミネは否定はしなかった。ガベリアの悪夢以降、ルースが本心から笑っている顔など見たことがない。
「でもね、昔は誰よりも優しくて、ぱっと花が咲いたように笑う人だった」
――11年前。
高等魔術学院では、進級の際の振り分けが行われていた。無事に進級試験に通った1年生は、能力によって監察科と医療科に分けられるのだ。
「やっぱり私、医療科だった」
校内の掲示板に貼り出された組分け結果の前で、14歳のミネは肩を落とした。本当は監察科に入りたかったのだ。
学科は申し分ない成績だが、ミネは如何せん、運動神経が良くない。監察科に入るには、戦闘技術が足りなかった。
掲示板の前に集まった生徒たちからは、悲喜こもごもの声が聞こえてくる。やはり、ほとんどの生徒は花形である監察科を希望していたのだ。
「落ち込むことないって。治療の魔術に長けてるってことじゃないか。僕は逆立ちしたって医療科には入れない。自分の擦り傷すら治せないんだから」
彼女の隣でそう声を掛けたのは、ルースだ。彼の名前は、組分けの監察科の欄にあった。
ルースは声を潜めて、茶目っ気たっぷりにこう聞いた。
「それとも、落ち込んでるのはクラウスと離れちゃったから?」
「変なこと言わないでよ」
ミネは眉間に皺を寄せて、ルースの背中をばしっと叩いた。彼女の耳は微かに赤くなっていた。
ミネの想い人、クラウス・ヴィットの名は監察科の方にあった。学籍番号はアルファベット順で、いつもクラウス、ルース、ミネの順で名前が連なっているのに、今はミネの名前だけが無い。妙な疎外感があった。
「どんくさいもん、私。監察科になんか入れるわけないよ」
「でも、努力してたのは知ってる。剣術の練習に付き合ってあげてたの、僕だしね」
ルースはこっそりと呟いて、ミネの肩を叩いた。
「クラウスには言ってないから、安心して」
「……うるさいなぁ。変なこと言わないでって言ってるでしょ!」
怒ったミネの蹴りを躱して、ルースはまた笑った。
「図星。ねえ、クラウスは人気者なんだから、こそこそしてるだけじゃ他の人に取られちゃうよ」
そのとき、誰かがルースを呼んだ。ルースが手を上げると、その人物は二人の方へと向かってくる。ミネはさっきよりも耳を赤くした。
「おはよう、クラウス。結果見た?」
ミネをちらりと見つつ、ルースが言った。
「うん、見た見た。希望通り監察科に入れて良かったよ」
そう言って爽やかな笑顔を見せた。淡い栗色の髪が揺れ、彼の秀でた額に掛かる。それを払う指先も、ふと向けられる視線も、ミネにとってはいちいち胸を掻き乱すものだった。
初めはただの友人だったのに、いつの間にこんな気持ちになったのか。自分の心境の変化に着いていけず、彼女は戸惑うばかりだった。
「ミネは医療科だったんだね。希望通りじゃん。離れちゃって寂しいけど、お互い頑張ろう」
クラウスにそう言われ、ミネは本心を隠して笑った。医療科を希望しているなんて嘘を、クラウスにはついていたのだ。
「うん、頑張ろう。二人には負けないからね。……じゃ、私ちょっと教務室に用事があるから。またね!」
彼女は手を振り、止める間も無く駆けて行った。
ミネは寮の自室に入って、気の済むまで泣いた。自警団でクラウスと同じ隊に入って活躍する自分を少しでも夢見たことが、情けなく、馬鹿馬鹿しく思えた。
倒れるまで走り込んで、血豆が出来るほど剣を握って、それでも監察科に入るレベルには満たないと判断された。
元来、自分には無理な話だったのだ。しかしそれでも、ただ一人のためにここまでするとは、自分でも驚くべきことだった。
(私は私で、頑張るしかないか……)
ひとしきり泣いて心が落ち着いたミネは、そう考えることにした。ルースの言う通り、医療科に入れたということは治療技術に長けているということだ。これからは、それを極める以外にない。
鏡の前に立って、自分の顔に触れる。泣き腫らした目蓋の上を指でなぞると、一瞬で元通りになった。誰が見ても、さっきまで泣いていたとは分からないだろう。
(上出来だ、私)
ぱしぱしと頬を打って、ミネは部屋を出た。ルースに今までのお礼を言っていないことを思い出したのだ。
彼は中庭にいた。端の方のベンチに腰掛けていて、他に人はいない。今日は休日で、結果発表の確認を終えた生徒たちは、思い思いに街へと出掛けているのだろう。
「ルース。隣、いい?」
ミネが側へ寄って声を掛けると、ルースは頷いて場所を空けた。
「ミネは出掛けないの? せっかくの休日なのに」
「そんな気分じゃない」
「そっか、仕方ないね。でも」
「大丈夫、慰めなくていいよ」
被せるようにミネが言った。
「もう立ち直ったから。私は医療科で頑張る。立派な医務官になって、自警団に入る。……それよりもさ、今まで、練習に付き合ってくれてありがとう」
がさごそと、ポケットから何かを取り出した。
「お礼に渡そうと思ってたんだ。あげるよ」
掌に乗せられていたのは、金色の古いコインだった。葉の繁った大木が刻印されていて、その下に文字が刻まれている。潰れていて、はっきりとは読み取れなかった。
「これは?」
「大昔のコイン。ルース、こういうの集めてたでしょ? 私の小さい時の宝箱に入ってたんだ」
ルースはそれを見て、ぱっと笑顔になった。古い物、特にコインを集めるのはルースの趣味だった。
「ありがとう、さすがミネ。よく分かってるね」
コインを受け取り、目の前に翳してみる。
「見たことないな。この文字、何て書いてあるんだろう……ガベリア? 違うか」
ぶつぶつ言いながら、ルースはしばらくコインを眺めていた。これだけ夢中になってくれるなら、プレゼントした甲斐があったとミネは嬉しくなる。
あっ、と小さく言って、ルースはミネを見た。
「分かった。グベルナだ。グベルナって書いてあるよ」