1、持たざる者
深夜、うっすらと雪の積もるキペルの路地に点々と足跡が続いている。そこから顔を覗かせた煉瓦敷の路面が、外灯のくすんだ明かりを反射してオレンジ色に光った。道の両端に所狭しと並ぶバルはしんと静まり、看板だけが寂しく風に揺れている。
時刻は1時を回る。このリスカスの国で夜11時以降に外を出歩くには、一部の人間と緊急事態を除いて特別な許可が必要だった。したがってバル街も、11時を過ぎればまるでゴーストタウンだ。
リスカスでは数年前から夜闇に紛れて殺人事件が発生している。窮屈なこの決まりは、市民を守るためのものだった。
そんな中、二人の人物が路地を進んでいく。長身痩躯のルース・ヘルマー、25歳。彼よりも頭一つ分ほど小柄なカイ・ロートリアン、16歳。二人が身に纏う紺色の外套の左胸には、今まさに飛び立たんとする鷲の姿が銀糸で刺繍されている。彼らが自警団の魔導師であることの証だ。
「寒い」
冷たい風に顔をしかめ、カイは外套の胸元を掻き合わせた。栗色の癖毛が風で揉みくちゃになるが、そんなことには構っていられないほど寒さが身に染みる。
「こんな時間の巡回に誘ったのは失敗だったね。スタミシア出身の人に、こっちの寒さは堪えるだろう?」
ルースは寒さなど感じていないかのように、顔を上げて颯爽と歩いていく。カイは少々むくれた顔をして、小走りでルースの隣に並んだ。田舎者、と馬鹿にされたように感じたのだ。
リスカスの最大都市キペルに比べれば、カイの出身地であるスタミシアは田舎だ。北から順に、キペル、スタミシア、ガベリアと土地が続いている。スタミシアの大半は畑や農場で、国の食料のほとんどがそこで賄われていた。温暖な気候で、市民の人柄も割と穏やかだ。
ただ、カイの性格は穏やかとは言い難い。基本的に小生意気で、相手が誰であろうとはっきり物を言うのだった。
「俺だってこっちに来て3年目なんです。慣れましたよ。ちょっと馬鹿にしてませんか、副隊長」
魔導師になるため、カイがキペルの高等魔術学院に入学したのが2年前。そこから厳しい訓練と教育を受けて卒業し、魔導師で組織される自警団の監察部第一隊に配属されたのが今年の始めのことだった。30人の隊員を抱える第一隊の中でも、当然ながらカイは一番若い。
「そうだったね。そんなにむくれるな。馬鹿になんかしてないよ」
ルースはふっと笑みをこぼした。カイは容姿端麗な彼の横顔を眺めながら、この人はいつも何を考えているんだろう、と思う。ブロンドの髪の下に覗く榛色の目はいつも据わっていて、笑うことはあっても、どこか本心ではない気がするのだ。
しかし、その理由を訊くことは出来なかった。自分の気のせいかもしれないし、そもそも、こんな新人と副隊長が親しくしていること自体、本来ならあり得ないことなのだ。既に一部の隊員からやっかみを受けているのだから、変なことを尋ねて余計な波風は立てないほうがいい。
「……お前に嫌がらせをする奴がいるんだってね」
ルースが真顔に戻ってそう言うと、カイはぎくりとして俯いた。誰にも告げ口などしていないのに、なぜ知っているのだろう。
「いえ……」
ルースが自分を見ていることには気付いていたが、カイはそちらに顔を向けられなかった。足元に視線を落としたまま、歩き続ける。
やっぱりそうか、とルースは呟いた。カイが口ごもったのを肯定と取ったらしい。
「僕はお前を特別扱いしているつもりは無いんだけどな。贔屓だってしてない。ただ、約束があるから……」
「約束?」
カイは顔を上げた。
「どんな約束ですか?」
「お前の父親との約束だよ」
足を止め、カイはまじまじとルースの顔を見つめた。それもそのはずだ。カイの父親は魔導師で、王室を警護する近衛団に所属していた。だが9年前、カイが7歳のときに殉職している。
「副隊長、俺の父さんを知っているんですか?」
「ああ。僕が新人のとき、助けてもらったことがある」
ルースは少し目を伏せた。
「もう十年近く前のことだけどね。その日は――」
言い掛けた瞬間、遠くから微かな悲鳴が聞こえた。
「副隊長、今のは?」
「非常事態だ、たぶん」
二人は外套を翻し、地面の雪を蹴散らして声の方向へと走った。
街の中心部を抜けてすぐのところに、スラム街の入り口があった。崩れかけた煉瓦の高い壁に、ひしゃげた鉄格子の扉が力無くぶら下がっている。来るものを拒むような荒んだ雰囲気が漂っていた。
悲鳴の主は壁の前にうずくまっていた。二人の男が何か言いながら、その人物を乱暴に蹴っている。
「何してるんだ!」
カイが怒鳴り声を上げると、男たちは一目散に闇の中へ紛れた。それを追おうとする彼の肩に手を置いて、ルースは冷静に言う。
「大丈夫、あっちの方角には第三隊の見回りがいるよ。報告しておこう」
彼が軽く口笛を吹くと、どこからともなく青い鳩が現れて肩に止まる。魔導師が連絡用に使う鳥、ナシルンだ。
ルースが何か囁くと、ナシルンは男たちの逃げた方向へ飛んで行った。
「さ、今度はこっちだ」
ルースは男たちに痛め付けられていた人物に駆け寄る。この寒い中で上着も羽織らず、ぼろぼろのシャツとズボン姿で、キャスケットを目深に被った少年のようだった。スラム街の住人だろうか。年の頃はカイと同じくらいだ。何かを大事そうに胸に抱え、うずくまっている。
「君、大丈夫?」
ルースが優しく声を掛けると、少年は跳ね起きて後退り、敵意を剥きだした蒼い目で彼を見つめた。あの二人に殴られたのか派手に鼻血を流し、唇も切れている。手にした何かを、やはり必死に抱え込んでいた。
「近寄るな! あっちへ行け!」
そう叫ぶ声は甲高く、少年というよりも少女の声のように聞こえた。
「お前ら、魔導師だろ。何するつもりだ」
「何もしないよ。君が怪我をしているから、心配しているだけだ」
ルースの穏やかな口調に、少年は少し落ち着きを取り戻したようだった。まだ目に浮かぶ敵意は消えていないが、表情の強張りは解けたように見える。
「逃げた奴らは、どうしてあんたに暴力を?」
カイが尋ねると、少年はきっと彼を睨み付けた。
「お前らみたいな貴族様には関係ない。さっさといなくなれ」
侮辱にしてもこんな言い方をされる覚えはない。カイは一歩踏み出すが、ルースが腕を伸ばしてそれを制した。
「カイ、落ち着いて。相手は怪我人だよ」
「でも」
少年はカイの言葉を遮るように言った。
「魔術が使えるからっていい気になりやがって。お前ら、何の苦労もしないで、のうのうと暮らしてるんだろ? 魔術なんてここに住む奴等にとっちゃ関係のない話だ。知ってるんだぞ、お前らみたいなのが俺たちを馬鹿にしてること。魔術が使えないから貧乏なんだって。ろくな死に方をしなくて当然だって」
少年の声には悔しさが滲んでいた。魔術を使えるか否か、要するに魔力の有無は生まれつき決まっている。魔力を持つ者の子供が同じように魔力を持つとも限らないし、何代も魔力を持たない家に突然、魔力を持つ子が生まれることもある。
リスカスの人口の半分は魔力を持たないとされている。そして持つ者と持たざる者が共存出来るよう、魔力には『秩序』が存在した。魔力を持つからといって、この国ではそれを好きなように使える訳ではないのだ。
スラム街にいる者の多くは、魔力を持たない者たちだった。共存は建前で、都市部では特に、持たざる故に虐げられた者たちもいる――カイもルースも、それは知っていた。
「そんなもの使えなくたって、必死に生きてる奴はいるんだよ。お前らに、絶対、絶対分かるもんか!」
少年はまた興奮し始めていた。おそらくはここで生まれ育ち、魔力を持つ者への敵対心や憎しみは人一倍なのだろう。彼はよろよろと壁に背を着けて立ち上がり、片手を腰のあたりに回す。
「それは使わない方がいいよ、お嬢さん」
ルースがすっと腕を上げると、少年の手からはじけるようにナイフが落ち、地面の上で乾いた音を立てた。怯んだ隙に、カイが少年を捕らえて腕を捻りあげる。武器を出してきたとなると、逃がすわけにはいかなかった。
「離せ! 離せっ!」
大暴れする少年の帽子が落ちると、そこからシルバーブロンドの髪が零れ出た。ハサミで雑に切ったようなショートヘアで、顔もはっきりと見て取れる。薄汚れてはいるが、それはどう見ても少女の顔だった。
「お前、やっぱ女じゃん。大人しくしろって。俺だって暴力は嫌いなんだよ」
カイは言うが、少女はもがき続ける。帽子に続いて隠し持っていた物が宙を飛んで地面に落ちた。どうやら首飾りのようだ。鎖の先に、凝った装飾の石座にはめ込んだ、黒く丸い宝石が光っている。シンプルだが価値はありそうに見えた。
「なんでお前があんなもの。盗んだのか?」
「違う! 落ちてたから、拾っただけだっ!」
暴れるのに疲れたのか、ぜいぜいと息をしながら少女が喚く。ルースがそれを拾い上げると、その表情が一瞬にして険しくなった。カイはびくりとし、少女も何か感じたのだろう。暴れるのをやめて押し黙った。
「……副隊長?」
ルースが怖い顔で少女に近付き、軽く額に触れると、途端に少女は目を閉じて膝から崩れ落ちた。
「お……っと。副隊長、ここまでしなくたって」
カイは少女を支えながら、困惑した声を出す。自警団の魔導師が相手を気絶させるのは、よっぽど強く抵抗されたときだけだ。むやみやたらに魔術を使うのは規律に反する。
「今はこの子を説得している暇がないんだ。カイ、急いで本部に戻るぞ」
ルースが少女を抱え上げ、踵を返す。一体何が、と怪訝に思いながらも、カイは急いで後を追った。