守護の精霊
翌日の土曜日、私は苦手な裁縫に勤しんでいた。
昨日、雑巾を一枚捨ててしまった。だから元に戻しておかないといけない。家のタオルで作った雑巾は真っ白で、捨てた雑巾とは似ても似つかないけれど、一度掃除すればすぐに汚れるし、問題はないだろう。
それにしても、とため息をつく。
朝から小春が電話をしてきた。その後変わりはないかと。ランプの精霊と思しき青年が私の足元に跪いてから、私に変化がないか観察していたらしい。全然気づかなかった。ずっと見られていたなんて、ちょっと気持ち悪い。
何がそこまで彼女を掻き立てるのか……。固まった体をほぐすように、首をグルグル回していると、ノックと共に男性が部屋を覗く。
我が家にホームステイしてる……うーんと……。
「ハーフィズだよ。サキ。そろそろ名前を覚えてほしいな」
「あぁ、そう、ハーフィズ。ごめんね、聞き慣れないもんだから」
笑ってごまかすと、彼もおっとり微笑んで、家具の隙間を抜けて部屋に入って来た。
狭い部屋に荷物がぎゅうぎゅうで恥ずかしい。さりげなく隅に寄ってスペースを空けるけれど、気休めにしかならない。
「どうしたの? 疲れているみたいだね」
私の前に膝を折り、少し首をかしげる。褐色の肌に色素の薄い髪を垂らしたハーフィズは、動作がいちいち美しくて目を奪われた。
転んだりとか絶対しなさそう。すっごい混み合ってるデパートでも、人とぶつからずに歩けそうだし、なんてこんなダサいたとえしか出てこない自分が嫌になるくらい、とにかく流れるようにしなやかに動くのだ。
見惚れていたら、切れ長の目を柔らかく緩めて、首をかしげる。
「何かあるなら言ってごらん。僕でよければ聞くよ」
目の前に氷の浮いたレモネードが差し出される。なんて紳士的なんだろう。彼がいることに慣れてしまったら、男性の理想がとんでもなく高くなってしまいそうだ。
「私、裁縫が苦手なの。雑巾を縫うのなんて、裁縫って言っていいのかわからないけど。それに今、いろいろ問題があって」
「問題?」
「そう。事の発端は私が、古いランプを壊してしまったことで──」
手元の針を動かしつつ、たまにレモネードで喉をうるおしながら、新学期が始まってから起こったことを話した。
真由美のお父さんがアラブで買ってきた魔法のランプから、煙が出て来たこと。その煙が男の人になって、私の足元に跪いたこと。
翌日はウサギが失踪し、さらにその翌日には、机に血文字が書かれていた。
ウサギの失踪や血文字を、ランプの呪いだと言い張る小春が事件を調べ回り、しかも私を観察しているらしいこと。真由美が呪いに怯えていること……。
「なるほど、それは悩ましいね」
「平凡な中学生の私には、手に負えないよ」
「古いランプに書かれていた呪文を読んで、精霊を呼び出したサキが平凡とは、僕にはとても思えないけれどね」
「それはっ……暑かったし、新学期初日で私たちみんな、変なテンションだったし、幻でも見たんだよきっと」
「ではそういうことにしておこうか」
クスクスとハーフィズは笑い、長い足を組み直して膝の上に肘をついた。触り心地の良さそうな布がサラサラ音を立てる。
異国風情の漂う衣装は、ピンクを基調とした狭い部屋の中では浮きまくっている。彼の周りだけ異空間って感じ。
「大切な妹分を守るのは、僕の一番大切な仕事なんだよ」
「うん?」
「一番最初のランプに関しては、サキの中では幻ということで解決しているようだから、二つ目のウサギ失踪事件から解決しようじゃないか」
「解決!?」
立ち上がったハーフィズがこちらに手を差し伸べるものだから、思わずそれを握って立ち上がってしまった。汗ばんだ手の平が恥ずかしくて、耳が熱くなる。
「ついでに君の熱心な観察者、コハル嬢を呼んではどうかな。呪いではないとわかれば君への観察も無くなるだろうから丁度いい」
「あ、え? うん」
突然の展開に思考がついていかないまま、とりあえず小春へ電話をかける。私からまさか呪いの話題が出ると思っていなかったらしい小春は、喜々として待ち合わせに応じた。
ウサギ小屋はすでに先生たちが掃除をしてしまったらしいけれど、今から見に行ったところで解決なんてできるんだろうか。内心首をひねりながらも彼に続く。
三和土に無造作に出ていた麻紐の編み上げサンダルを履き外に出たハーフィズは、田んぼを背景に立っているのが不思議なほど神々しかった。
一体なんだって彼はこんな田舎町で、学生の悩み解決なんかしているんだろう。
中学校に着くと、小春はすでに校門前で待っていた。傍らには自転車がある。
いつもは電車通学だったはずだけれど、自転車でも来られる距離なのかもしれない。それにしても早い。まさか私を観察しようとして近所にいたってわけじゃないよね?
若干顔を引き攣らせながらも三人でウサギ小屋に向かう。歩きながら小春に簡単にハーフィズの紹介をすると、「いつから日本にいるんですか?」とか「何を勉強しに来たんですか?」とか尋ねていた。
正直ほとんどの返事が初耳だ。多分両親も知らない気がする。我が家は他人を迎えるにあたって、ちょっと無警戒すぎるんじゃないだろうか。
ウサギ小屋に着くと、やっぱりウサギはいなくて、抜け毛や血もなくて、今さらここへ来ても解決の手がかりはないように思えた。
全体の広さは四畳くらいだろうか。真ん中を仕切られて、右半分ではチャボがキャベツをつついていた。
「やっぱり今さら見ても何もわからないんじゃない?」
「そうかな? 目の前に答えは転がっているじゃないか」
ハーフィズの声は楽しそうだ。
ここについて一分も経っていないっていうのに、もうわかったというの?
小屋の左半分には今は何もいないけど、金網で囲まれた中に簀の子が敷かれていて、ウサギを飼っていたことはわかる。でもそれだけだ。
「一方からだけ見るからわからないんだよ。コハル嬢、君は血文字を写真に撮っていたそうだね。ウサギ小屋の写真も撮っていたんじゃないかな?」
柔らかくハーフィズに微笑まれ、小春はなぜか嫌そうにスマホをポケットから出した。
「撮ったの?」
「翠から聞いて、すぐここへ来たわ。先生より前になんとかね」
渡された小さな画面の中には、角度を変えて何枚も小屋が写っていた。ほとんどがブレていて、急いでいたのがわかる。それでも小屋のあちこちに白い毛が落ちているのが見えて──小屋のあちこちに?
「ここから、こんな風にカメラを構えて……」
小春が立っていたであろう位置を探し、スマホをかまえてみる。間違いない。これは小屋全体を撮った写真だ。それなのにウサギの毛がまんべんなく落ちている。
スマホを下ろし、右側を覗き込んだ。ウサギエリアと違ってチャボエリアには簀の子がなく、土が固めてあるだけだ。
「ここを見てごらん。靴の跡が残っている。まるでごく最近、踏み固めたみたいだ」
「……先生が穴を埋めたんだね」
「そうだろうね。世話係の少女は、小屋の出入口の鍵は締めたかもしれないが、ウサギとニワトリを仕切るドアを締め忘れたんだろう」
ハーフィズの細くて長い指が、金網でできた不恰好なドアを指す。
「おそらく仕切りを先に越えたのはニワトリだ。ウサギをつつき回し、この時に毛や血が落ちた。ウサギはこちらのニワトリのスペースへ逃げ込み、柔らかい土の地面を掘って脱走したんだ」
「……やっぱりイケニエなんかじゃなかったじゃない」
脱力してしゃがみこんだ。
穴を埋めたのが先生だとすれば、ウサギが逃げた理由はわかったはずだ。仕切りのドアに鍵がかかっていないのも気づいただろうし。
晶子があの日泣いていたのは、自分がウサギを逃がしたと知ったからで、先生が何も言わなかったのはきっと、他の生徒に晶子が責められないようにという配慮だろう。
「ハーフィズって頭いいんだね。すぐわかっちゃうんだもん」
「コハル嬢もわかっていたんじゃないかな」
パッと振り返ると、気まずそうに顔を背ける。
「早紀さん、ここにいるのは雑種のニワトリで、チャボじゃないから。チャボっておとなしいのよ。ウサギをいじめたりしないわ」
ぼそぼそと告げられた言葉に、小春も気づいていたのだと知った。
「さて、次は血文字の謎を解こうじゃないか。どこか座る場所はあるかな」
足取りの重い小春と共に、私たちは藤棚の下に置かれたベンチに移動する。
こんなに天気がいいっていうのに、空気が暗い。ハーフィズだけが態度を変えず、にこやかに話し続ける。
「朝学校へ行くと、マユミ嬢の机の上に赤い液体が零れていた。それをサキが雑巾で拭き、水で洗っても落ちなかったので雑巾を捨てた。そうだね?」
「うん」
「血というのは冷たい水で洗うと案外落ちるものなんだよ。まったく落ちなかったということは、その液体は血ではない何かだ」
「そうかもね」
展開が予測できて、返事が投げやりになった。
「コハル嬢はその時、ジャージに着替えていたそうだけど、それはどうして? 机に上っても、スカートがめくれないように。それだけが理由かな?」
少しの間沈黙が下りた。私も何も言わない。ハーフィズも根気よく待っていた。
「……違うわ。血糊を真由美さんの机にまくときに、スカートが汚れたの。クリーニングでも完全には落とせないって言われたから、月曜にはバレるでしょうね」
「どうしてそんなことしたの?」
「だってっ!」
小春はキッと私を睨む。目がギラギラ光っていた。
「あれは本物の魔法のランプなのよ。精霊を見たでしょう。それなのにみんな、白昼夢だとか幻だとかバカみたい。いらないんならちょうだいよ! ランプも精霊も、私にちょうだい!」
勢いよく掴まれた二の腕が痛い。小春の指が真っ白になっていて、力いっぱい握っているんだとわかった。
どこからこんな執念が出てくるんだろう。真由美の恐怖を煽って、ランプの呪いだと信じさせ、自分に渡すように迫るつもりだったんだろうか。そこまでして欲しかったのか。そもそも精霊が味方だとは、自分のために魔法を使ってくれるとはわからないのに。
「私だって……魔法が本当にあるなら興味がないわけじゃないけれど。でもそれは怖い力だと思う。だってズルができちゃうんだよ。たとえどんなに頑張ったって、もう私の努力なんて信じてもらえなくなるかもしれない」
希望的観測で精霊が味方だったとしても、だ。認められなくなることは、とても怖い。
私の言葉を聞くと、小春は小さく息を吐いて手を下ろした。疲れたように笑う。
「あなたがそんな風に、まっとうな考えを持った人間だから、ランプの精もあなたを選んだのね。私じゃダメなんだわ」
帰る、と小春は立ち上がった。
「真由美さんにはちゃんと謝ります」
肩を落とした後ろ姿から、そんな声が聞こえた。
今度は私の番だ。悪いことをしたら、きちんと謝らないといけない。
ハーフィズと別れ、真由美の家に向かった。
勝手に大切なランプを見せてもらったこと、安易に触れたせいで壊してしまったことを謝らなくては。
真っ白い壁に少しばかり気後れしながらも、インターホンを押すとすぐに真由美が顔を覗かせる。お父さんに会いたいと告げると、彼女はホッとしたように見えた。
「この間は、親の留守中に友達を呼んじゃいけないことになってるって言ったけど、黙ってるのも辛くなってきて。本当は私も、父に全部話しちゃいたかったの」
お母さんは習い事をしていて留守だそうで、リビングに座っていると真由美がお父さんを連れて来てくれる。さすが高級住宅街に住み、海外出張なんぞするようなお父上は、ダンディでかっこよかった。
立ち上がって挨拶をした後、始業式の日にお邪魔して、魔法のランプを見せてもらったこと、不思議なことが起きて壊れてしまったことを謝った。真由美がそっとテーブルに、くちゃくちゃに潰れたランプを置く。
おじさんは私と真由美とランプを見比べ、しばらく考え込んだ後口を開く。
「私には、このランプを買った記憶がないんだ。出張に行くと、いつも現地の市場で何かしら買うから、これも私が買ったものなのかもしれないが……」
テーブルからランプを手に取り、回しながらじっくり見る。
「残念だな。何も覚えていないなんて。これもきっと『不思議なこと』の一部なのだろうね。精霊が私ではなく君を選んだのだから仕方ない。これは君が持っていなさい」
おじさんは私の手を取り、ポンとランプを上に乗せた。
あの日と同じく、ランプは少し温かい気がする。
「でもこれ、大事なものなんじゃ……」
「私はこういう、本物かどうかわからない骨とう品が大好きなんだ。本当に魔法のランプかもしれないが、ただの古いランプを作り話で売りつけられたのかもしれない。わからないところがロマンだと思わないかい?」
子供っぽく笑って見せる。
たとえ本物だったとしても、ランプが私を選んだなら私が持っているべき、というのがおじさんの主張だった。またいつか、今度は自分を選んでくれる骨とう品を見つけるからと。
「ただ親がいない時に来たのはいただけないな。我が家にいる間は、私たちは君に対して責任があるんだよ。次は私か妻がいる時に遊びに来なさい。ランプに変わりはないか、ぜひとも聞きたいからね」
おじさんはにこにこと笑いながら、帰りにはお菓子の手土産まで持たせて送り出してくれた。この分なら真由美もそんなに怒られなくてすむだろう。
こうして事件はほぼ解決した。というか、ハーフィズが解決してくれた。最後の一つくらいは、私が解いてもいいだろう。
もらったばかりのランプを握りしめ、私はつい最近まで物置き代わりに使っていた部屋をノックする。
「ハーフィズ、開けていい?」
「かまわないよ、どうぞ」
緊張しながらドアを押すと、彼は長い足を組んでベッドに腰かけていた。真っ白なシーツのかかった、豪華なベッドだ。一般住宅の間口では入らなそうな大きさに、軽く眩暈がした。
なんでこんな人を私は、ホームステイしてる留学生だと思い込んでいたんだろう。
「これ、もらったからあなたに返す」
潰れたランプを手渡せば、ハーフィズは眉を下げて中途半端な笑顔を作る。
「あなたのでしょ? ランプから出て来た精霊さん」
「どうしてわかったのかな。記憶の処理は完璧だったはずなんだけど」
「きっかけはあなたのサンダル」
今朝家を出る時に履いた、異国情緒満載の麻紐のサンダル。あんなもの、昨日までは絶対に無かった。
「あなたは知らないだろうけど、我が家では一人一足しか三和土に靴を出しておいちゃいけないの。だから覚えてる。昨日まであんなサンダルは出ていなかった。一度おかしいと思ったら、どんどん不自然な気がしてきて」
「あぁ、綻び出すと解けるのが早いんだよね、記憶干渉の魔法は」
「突然現れたから、始業式の日、私のお昼ご飯が残ってなかったんだね。夕飯のお肉も足りなかった。それからここをあなたの部屋にするために、置いてあった荷物を移動したでしょ。私の部屋、けっこう広かったはずなのに、今じゃ家具の隙間で寝起きしてるって感じ」
ずっとハーフィズの名前が思い出せないのは、日本人には難しい響きだからだと思っていた。でもそうじゃない。私は彼の名前を知らなかったんだ。
それなのに、一目見た途端、ずっと一緒に住んでいたような気がしてしまった。これだから魔法なんて厄介だと、怖いと思ったのだ。
「困ったな、僕は君のことも、この家も気に入ってしまったんだけれどね」
「厄介ごとはごめんだよ。今回だっていろいろあったし、私は平和に過ごしたいの」
「突き詰めてみれば、ただのウサギの脱走だったじゃないか。それにね、平和と退屈は違うんじゃないかな。僕がいれば、きっとわくわくすることがたくさん起こるよ」
追い出す気満々だった私は、唐突に返事に詰まった。
きっとこの人がいれば、もっと心躍ることが起きる。そんな予感がしたからだ。
「……不必要に魔法を使わないこと。それから私の部屋の家具をよけること。この二つを飲んでくれるなら、ここにいてもいいけど」
わざとちょっと不満そうに言えば、ハーフィズはにっこり笑った。
「わかった、それで手を打とう。改めて僕の名はハーフィズ。君の『守護者』だよ」
こうして私の、精霊との生活が始まったのだ。