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元自衛官、異世界に赴任する  作者: 旗本蔵屋敷
5章 元自衛官、異国へ赴任する
78/182

78話

     ──☆──


 マリーは、この手合わせ自体の意味はそう多くは見出していなかった。

 ただ彼女は、ヤクモと言う人物が”成長する機会に貪欲である”と言う事を踏まえて始めたに過ぎなかった。

 今の所、彼女とヤクモは互いに相手を知らない状態だった。

 大タケルやファム──ヤクモはフアルだと思っているが──に対して幾らか線を引いていて、自分に対してはそれが無いのも気になったのだ。

 ただ、ロビンやアイアスでさえ力量を半ば見せ付けられていて”認められている”のに、自分だけが”認められていない”という気がしたと言うのも大きかった。


 それとは別に、成長の機会を与えながらも追い込めば──再び”立ち直るのではないか”と思ったのもあったからだ。

 そうじゃなくても、燃料となって供給されてくれればそれで良い。

 それが難しくても、自分がちゃんと──あまり目立たないけれども、英雄の一人である事を認めてもらえれば良いと思った。


 しかし──彼女の想いと期待とは裏腹に、自体は斜め上へと飛んでいった。


「クっ……!」


 七つの魔法。直撃させるのは二つで、三つは陽動、残りの二つは足止めの為のものだった。

 回避もだめ、防御すれば範囲でダメージを受ける。

 では切り伏せるのが正解かと言えばそうでもなく、二幕目を用意していた。

 対処で精一杯だろうと、足止めしているところに新たに魔法を重ねて追い詰めていくつもりだった。

 

 これでも十分手加減している。最悪重症になっても一晩中付き合って回復させるつもりですら居た。

 そして自身の姉であるヘラからも学んだ、成功率は幾らか低いものの死を迎えて直ぐであれば魂を連れ戻す魔法だって習得している。

 最悪の事態を想定していた、たぶんそうなるだろうなと思っていた。

 しかし、理解されていないと思うのと同じくらいに、相手の事を知らないというのもあった。

 放った魔法が、幾つか同時に叩き落とされ、消し飛ばされ、切り伏せられたのを見て動揺する。

 

 対処できても一つだろうと、そう思い込んでいたのはマリーの方だった。

 或いは……どこまで行っても、本当に”元兵士をしていただけの青年”としか考えていなかったか。

 焦りと困惑──そして、”嫌な予感”と言うものにしたがって彼女は魔法を放った。

 しかし今度は二つが無力化されただけであり、嫌な予感と言うものが”やりすぎ”と言うものだったかもしれないとまた逆方向へと感情が振れる。

 だが、それは杞憂だったと思い知らされる。


 ──魔法に突っ込んで、ダメージ覚悟で突っ切ってきたのだ。

 その時点でマリーの予想を幾つもすっ飛ばした行動だった。

 魔法を弾いて他の魔法にぶつける、或いは魔法をぶつけて相殺する、そうでなくとも教えたのだから魔法を切り伏せたりしているか、最悪回避をしていると思った。

 彼女の想像の中では、ヤクモと言う人物はまだその場に居るというものだった。

 だが、相手はそれを上回っていたのだ。


 戸惑いと焦りの中、即座に彼女の頭の中で次はどうするかを考え、行動しながら”戦術”を練り上げる。

 戦力の補正が脳内で行われ、手加減を徐々に忘れていく。

 七つの魔法じゃダメならば十三、二十一、三十六と同時発動個数を増やす。

 二重じゃダメならば三重、四重、五重と相手の行動を制限しつつ、打撃を与えて勝利するまでに必要な火力を増した。

 周囲に巡らせている闇系統での範囲魔法の圧も増した。何をしても、何もしなくても相手に圧を加えていく──嫌われるようなものだった。


 しかし、マリーから見て相手は”狂人”としか表現できない。

 あるいは──その有り方だけで言うのなら、誰よりも自分達英雄と同じでは無いかとさえ思いさえしていた。

 守勢に意味を見出さず、それこそ死兵の如くただガムシャラに行動を起こし続ける。

 何度か魔法が掠った、何度か周囲に着弾した魔法に煽られていた、何度か直撃を食らって地面に転がった。

 そのたびにマリーは手を緩め、手心を加えそうになる。


 最初はまだ元気があった、二度目、三度目と地面に転がる度に起き上がる速度は鈍くなっていった。

 ただの捨て身だったのだろうかと何度も思う、実際マリーはそう思いかけた──。

 だが、狂人と言う言葉が浮かぶのは起き上がってこちらを見据える度に笑う所からだ。

 最初は狂気だと思った、苦しい事や痛い事を体験する事で生を体感するような戦闘狂い《バトルジャンキー》だと。

 しかし、二桁ほど重傷から自力復帰をしてなお立ち上がって、その笑みから凄惨さがこそぎ落とされていくと別の意味がマリーには見出される。


 楽しいのではなく、嬉しかったのだ。自分が成長できる機会が訪れたのを。

 嬉しいのではなく、縋るしかなかったのだ。成長しない自分に意味を見いだせなくて。

 縋るのではなく、徹底的に嫌っていたのだ。何もしない、できない自分と言うものを。


 痛いのが嫌だとか、苦しい事や辛い事は嫌だと彼はのたまった。

 それに偽りは無いだろうとマリーは思ったが、それ以上に嫌な事が彼にはあったのだ。

 戦う事が好きな訳では無く、艱難辛苦──障害が有ればたぎるというわけでもない。

 屋敷に居た時はまだ立派な”男”だったのに、旅に出てから情けなくなってしまった。

 その理由をアイアスは「心が折れた」と言ったが、それは半ばほど当りで半ばほど誤りだった。

 実際には、自分のアイデンティティを見失っていただけなのだった。

 ミラノを護るのが自分の努めだから頑張らなきゃ、カティアの主人だから頑張らなきゃ、アリアは妹だから頑張らなきゃ、アルバートに戦いを教えるために頑張らなきゃ──。

 やらなきゃ、頑張らなきゃ、立ち止まってちゃダメだ。

 そういう自責の念から立っていたが、いきなりそれらと切り離されてしまった。


 アイアス、ロビン、マリー、ヘラ……。

 誰も彼もかつての英雄であり、誰一人としてヤクモが護らなきゃいけない相手ではない。

 誰かの為に、何かの為に、護る為にと言う事でしか自分を表現できず、価値を示せなかった人物がマリーに踏み込まれた時に自分の言葉で気付かされてしまっただけである。


 ──俺の大事な家族は違う場所、唯一のカティアは遠い屋敷の中だ──


 自分が一人だと気付かされてしまい、カティアに定時連絡をして余計に思い知らされて、宙ぶらりんになった。

 その結果、護る対象も無い上に頑張る理由すら見失ってしまい自衛官として振舞えなくなってしまっただけともいえるのだが。

 そんな人物が、自分の居場所にしがみ付こうともがいている。

 その姿をマリーは知っているし、見てきた。

 かつての自分自身であり、アイアスであり、そして名も無き彼女そのものでもある。


「……よし。少しずつ、慣れて来た。マリー、それで終わりか?《Is that all you got?》」


 満身創痍になりながら、追い詰められながらも徐々に経験と思考を重ねていく。

 回数を重ねるたびに徐々に前進してくるヤクモから、マリーは距離をとったりはしなかった。

 徐々に──屋敷に居た頃の、”自分が救われた頃のヤクモ”へと戻っていく。

 柔らかく温和で、マリーに言わせれば覇気の無い表情が消えていく。

 眉が寄っていて、鋭い目つきで頼もしさを見せる表情へと塗り替えられていく。


「まだ、まだだ──!」


 それを見て、マリーは笑みを小さく……自分でも知らぬうちに浮かべていた。

 遠い昔に彼女が見た、騎士の表情と重なっていく。

 そしてそれは、つい最近の──”自分を助けてくれた騎士”のものへと変わった事に対してのものだとも理解していない。

 彼女は語った、英雄になんてならないで居られたら良かったと。

 彼女は言った、普通に結婚をしたかったと。

 だから彼女は半ば理解している、自分は”好意”を抱いていると。

 だから彼女は半ば理解していない、自分が”愛情”を抱いていると。


 彼女は独占しようとは思っていなかった、そういう意味では愛していなかった。

 彼女はヤクモが正しいとは思っていなかった、そういう意味では好いてはいなかった。

 好意を抱くには心の距離だけは遠いままに、理解の距離が近すぎた。

 愛情を抱くには自己評価が低く、それよりも大事な事があった。

 だから彼女は間違えるし、間違えない。

 並び立ったり背中を任せる事はできても、頼るには強すぎた。

 肉体的に楽をさせる事が出来ても、精神的に楽をさせる事は出来なかった。

 

「づぁっ!? 痛ぇ……くそ──」


 だから、お互いに不器用な”交際”をしている。

 魔法防御がはがれて幻覚を見せられ、マリーが居ない場所に向かっていっては横から魔法で殴り飛ばされる。

 それでも魔法防御に関してもコツを掴んだのか、ダメージを受ける瞬間に出力を上げる事で魔力での相殺率を高めてダメージ《HP低下》を防ぎ、MP《魔力》に肩代わりをさせる。

 霞のかかった眼力が直ぐに光を取り戻し、彼女の居場所を新たに認識してから立ち向かってくる。


 マリーは寂しかった、こういう方法でしか彼が彼らしく振舞えるようにしてあげられない事に。

 マリーは嬉しかった、手加減をほぼほぼ忘れても──英雄が相手でも卑屈になったりせずに立ち向かってくる事に。

 戦う事でしかうまく向き合えない事を悲しんだ。

 真っ直ぐに、ひたすらに食いついてくる事を喜んだ。


 そして、徐々に──本当に、徐々に。

 マリーが手加減を忘れて攻撃の勢いを増す速度を、ヤクモの対処能力が上回り始めた。

 力の配分を調整し、行動と対処方法を確立させ、痛い目を見て転がる度に新しい試みを増やしていく。

 魔法を弾くだけなら剣じゃなくて素手でも通用すると学んだ、魔法を無力化するだけなら可変銃で魔力を弾にして打ち出して貫くだけでも効果が有ると分かった。

 魔法を直接身体で受けたときに軽減すると衝撃や反動が来るから、自分をドーム型に魔力で被えば行動の阻害率が下がる事を見つけた。

 そもそも、魔法の属性に対して対になる属性をぶつければ良いと言う事で手数を増やした。


 両手で剣を持つことを止めて片手で魔法を切り伏せて素手で魔法を弾き始めた。

 剣と素手だけで対処する事を止めて、銃を前後で使う事で手数を増やした。

 三つだけじゃ足りないと、自分自身も魔法を行使してぶつける事で対抗し始めた。

 それでも足りないならと、魔法防御の制御能力を高める事で「食らっても致命的じゃなければ良い」と脅威度による優先順位をつけ始めた。

 脅威度と優先順位から、何をしたら次の自分が有意に立てるかを──未来を予測し始めた。


 手札を増やし、相手の手を読み始め、そして未来予測を始める……。

 自衛官としての実務と、ゲーム等で培った読み合いが組み合わさったものでしかない。

 しかし、その読み合いの下地に存在するのは現実であれ、創作であれ『知識』であった。

 彼は自分には何も無いと言って、自信無さそうに笑った。

 自分が立派なのは、全て教わり与えられたものばかりだから周囲の人のおかげだと、その人たちの事を誇らしげに語った。

 いざと言う時でも冷静に落ち着いていられるのは、自衛隊に居たからだと組織を語った。

 色々と物事を考えられるのは、立派な人達が周囲に居たからだと言った。


 ただ、ヤクモは他人には語って適応するくせに、自分には適応させていないものがある。

 それは──『どんなものであれ、使いこなせなければ意味が無い』と言うものであった。

 本人は語るだろう「必死だっただけだ」と。

 後で自嘲気味に言うだろう「何も考えてなかった」と。

 それでも──追いつきだした、追いついてきた、そして終には──追い越した。

 手加減と言うには本気すぎる魔法の嵐を切り抜けた。

 殺し合いと言うには温すぎる魔法の嵐を突っ切った。


 二人の手合わせ《デート》を見たものが居たのなら、様々な感想が浮かぶだろう。

 君子危うきには近寄らずと逃げるか、殺し合いをしているのでは無いかと誤解するか。


 しかし、二人を知った者が──ヘラ等が見たならば思うだろう。

 不器用な二人が……試練だらけの先で待ちわびるヒロインと、傷だらけになりながらもヒロインに手を伸ばし続けるヒーローのようだと。

 

 ヤクモはただただ遠い存在のような相手に近づこうと──認めてもらえるようにとマリーへと近づき続ける。

 マリーはボロボロになりながらも決して諦めずに、自分へと寄ってくる王子のような相手を待ち受ける。

 

 破壊的であり、けれどもどこかで介入するのを躊躇われるくらいに二人だけの世界。

 ただ──その幻想から覚めたのは、マリーの方が先だった。


 やりすぎてしまった、既に服すらボロボロで治癒が間に合わずに負傷が癒えず出血や火傷等の傷がはっきりと見えている。

 忘れてしまっていた、触れられたら負けだと言うのに──彼女は距離が詰められても移動する事すら忘れていた。

 やり取りに溺れ、状況を忘れ、現実に帰ったときには既にヤクモの手が力尽きる寸前に振り絞った全力で魔法に飛び込み、突っ切り、触れる寸前にまで来ていた。

 夢が続いていたのなら彼女は彼を抱きしめ、抱きとめて受け入れただろう。

 自分達が半ば殺し合いに近い事をしていたにも関わらず、たどり着いた事を喜び嬉しそうにしただろう。

 だが──

 

「『我を守りたまえ』」


 彼女は、夢に浸るには醜い現実を見すぎていた。

 そしてその言葉を最後に、二人だけの時間は幕を閉じた。



 ──☆──


「『我を守りたまえ』」


 後一秒。いや……一歩踏み込めていたのなら、俺はたどり着けたかもしれない。

 けれども、俺は未熟だった。いや、そもそも敵うと考える方が思い上がりだったのかもしれない。

 マリーが咄嗟に唱えた呪文によって、俺は思い切り弾き飛ばされて地面を転がった。

 ……物理的衝撃あるいは攻撃の筈なのに、魔力防御が綺麗に剥がされる。

 魔力を補填してやりたかったが、一連の攻防と範囲での状態異常フィールド、さらにはダメージを逐一回復させたりしたせいで半ば魔力回路が疲弊してきたようだ。

 吐き気はしない、頭痛もしない。しかし倦怠感と疲労感を感じながら、再び幻覚と幻惑と精神毒と肉体毒等と言った泥沼に沈められていく。

 それでも、倒れていたら本当に立ち上がれなくなると思って剣を杖のようにして、立ち上がろうとする。

 だが──足元が、泥沼のようになっていて、そこから手が伸びてきて沈めようとしてくる。


 いや、錯覚とか誤認の類だ。

 ひぐらしの鳴く頃にでもやってただろ、タバスコを疑心暗鬼から針と錯覚したって。

 あれと同じだ、疲労や倦怠感で身体が重いのを……なにかしらで、俺を拘束しようとしてると恐怖させようとしてるんだ。

 タネは割れてる、状態異常が肉体的に苛む毒や精神汚染系の毒もある。

 麻痺もするし、加重で身体が重くなったりもする。

 特定の状態異常ではなく、満遍なく複数種類の状態異常を掛け捲る事で相手を拘束する。

 マリーを倒さなければ常に魔力がゴリゴリ削れて行く、そうでなくても魔法を複数操って攻撃してくる。

 クソ、まだだ。まだ戦える、と気張ってみる。

 しかし、俺は踏ん張った先でマリーの前に一人の……会った事の無い女性が立っているのを見た。

 白銀の長髪、少し傷だらけの軽装防具を身に付けながら──俺が、今握り締めている剣と全く同じものを手にしていた。

 剣を肩に乗せて、余裕を見せているのか……それとも待ってくれているのかは分からない。

 しかし、俺が立ち上がって態勢を整えると『やれやれ』と言った様子で剣を肩から下ろした。

 そして彼女は距離があるというのに、剣を振り被っている。

 当らない、当りっこない。何をしようとしても十も距離があれば対処できる。

 

 ……そう、思っていた。

 彼女はその場で思い切り剣を振り、魔法だろうと構えたが──。

 剣が、内蔵しているもう一振りの剣が回転しながら飛んできている。

 しかもその剣を防ごうとすると複数の魔法が後追いで既に飛んできていて、さらには彼女までもが思い切り踏み込んで”飛んで”来ていた。


「あぁ、うっそだろぉ!?」


 剣を防げば魔法か彼女に、魔法を防げば剣か彼女に、彼女に備えれば剣や魔法に当る。

 回避だ、回避。そう思って横へと飛びのいたのだが、あろう事か追尾するように方向を変えてきた。

 しかもこちらが回避で行動中に、彼女は地面を蹴って加速しながら方向修正してくる。

 剣? 魔法? 彼女? どれを防げば良い?

 ヤケクソ染みたままに回避でついた片足で、思いっきり地面を蹴って側転のように地面を転がり、更に横へと回避行動を続けた。

 今度は魔法も飛んできた剣も回避できた、そう思ったが今度はもう片割れの剣を投げてきていて、アホかよと思いながら攻撃に全振りの行動に驚いてしまう。

 剣だけならと弾いたが、その衝撃だけで手が痺れてしまう。

 重い球とか、野球で良く言われるがそれに似たようなものだ。

 顔をしかめているうちにふと視界が暗くなり、気がつけば剣を握っている手を掴んで思いっきり引っ張られる。

 そして伸びた腕の肘の間接を下から殴られ、腕の力が根こそぎ奪われそうになる。

 しかし、それで止まるかと思ったらそうでもなく、繋げて腕とねじ込んできた足でぐるりと投げ倒された。

 腕を捻られ、うつ伏せに拘束されてからクッソやべぇと思い知らされる。

 こいつ、確か──マリーたちが名前を忘れた、中心人物だとか言ってた奴!?

 腕を、間接を極められて思い切り圧し掛かられて呼吸も止まる。

 ここから逃げる手段が思い浮かばない、もう降参するしかない。


「待って、やめて!!!」


 マリーの叫び声が聞こえ、拘束されていない手を上げた瞬間首筋に鋭い打撃が入った。

 意識が刈り取られ、沈んでいく。

 

 奥の手として使えると言われたのに、その奥の手を知っていながら負けるだなんて……。

 次は、次こそは──。


『次なんて無い。私達はね、失敗したんだよ』


 沈んでいった意識の先で、また俺は空想の世界に居る。

 目の前にヘラが居て、真面目な顔をしてこちらを見て居る。

 ……時期は分からないが、暗い……夜のようだ。

 倒木に腰掛けているらしく、視点の主は自分の手を見つめていた。

 その手──と言うよりも、露出している腕や身体を覆っている服装から視点主はマリーだと推測できた。


──姉さん。なんで、なんでそんな事言うの……?──

『あの人は、もう居ないから。……また、失ったんだよ』


 そう言っているヘラに視点が振られる。

 彼女は──ボロボロに泣いていた。

 俺の知っている彼女は何時も笑顔で、慈愛だとか包容力を感じさせる感じだった。

 しかし、今の”いつか、どこかで見た光景”とやらでのヘラは、それを感じさせなかった。

 今よりも幾らか若い、そして──未熟さを感じさせた。


──姉さん──

『ごめん、ごめんね……』


 ヘラがマリーへとしがみ付き、声を殺しきれずに泣く。

 マリーは彼女を抱きしめようとしたが、伸ばした手を暫く見つめて呆然としていた。

 その意味は俺には分からないけれども、少し戸惑ったその手でヘラに手を置いて慰めるような動作をした。


 そこから映像が早送りで流れていく。

 今の時代ビデオテープといって理解されるかどうか曖昧だけれども、まさにあんな感じで時間が高速で流れていった。


『マリーは、辛くないの? 悲しくないの?』

──辛いし、悲しい。けど、起こった事は無かった事に出来ないから──


 マリーのその言葉と同時に、フラッシュバックのようにとある光景が浮き上がる。

 血溜りの中、一人の男が倒れている。

 暗闇の中で事切れている所。

 ヘラがその倒れている相手へと駆け寄っている光景。

 そして……誰だ? 見た事の無い女性が、痛ましい表情をしているのが映った。


『私、何も出来なかったよ。何も言えなかった……好き、だったのに──』

──うん──

『なのに、私……。世話になってばかりで、助けられてばかりで──なにも、何も返せなかった』

──うん……──


 ヘラは落ち着いているようであったが、まだ涙は毀れて来る。

 マリーはそんなヘラにハンカチを差し出して、ゆっくりとその涙を拭った。


──私は、そういうの良く分からないから。人間っぽい事、全然──

『……けど、マリーだって悪く思ってなかったじゃん。むしろ、好きだったと思うよ?』

──好き……?──

『信じてるとか、頼れるとか……そんな感じだよ』

──だとしたら、私は……アイツが好きだったのかもしれないわね──


 そう言いながら、本人じゃないのに俺は胸が締め付けられる感覚を体験させられた。

 切ないとか、悲しいとか、そういった感情を抱えた時の物に似ている。

 そして再び何かしらの光景が幾つかフラッシュバックするように浮かんでくる。


 殺されていた男が剣を抜き、マリーの視界の先で庇うように立っていた。


 男が川で釣りをしながら本を開いているが、そのまま寝落ちている所を起す光景。


 肩を並べて何かを叫んで居た。きっと「任せた」とか「頼む」と言ったのだろう、男はその直後に前面に展開している敵へと突っ込んでいき、マリーもそれに呼応して魔法を発動させようとした。


 机に広げた戦略図を前に、男が話を聞きながら色々と言っている。その中で、男はこちらを──マリーを見て、地図上を指で指し示し、視界が肯定するように上下した。


 男が眠りながら、歯軋りをしながら呻いてかけていたタオルケットを蹴飛ばした。そして数秒後にくしゃみを漏らし、マリーが少しばかり笑みを浮かべてタオルケットをかけなおした。


 ……そのような感じで、マリーの中で先ほど死体になっていた男との思い出が蘇っていく。

 そして、視界が天井へと向けられる。


──……そっか、好きだったんだ。これが、そういう感情なんだ──

『マリー……』


 ヘラが、再び涙を零しながらマリーを抱きしめた。

 そしてマリーは、胸中で思ったのだろう。声が響いてくる。


──次なんて無い。私達は、また失ったんだ──


 その言葉が、水にたらした灰色の絵の具のように広がって全てを濁していった。

 喪失感、それが広まっていって──夢は、終わった。



 ──☆──


「──……、」


 頬をヒタヒタと触れる手の感触に刺激を受けながら、ボンヤリと目が覚めた。

 ゆっくりと周囲を見ると、俺はマリーの腿を枕に横になっている。

 なんだっけ、何があったっけ……?

 思い出そうとして、寝心地が悪いなと思ったら魔法で作られた簡易的なベンチのようなものの上に居るのだなと理解した。


「あ、起きた」


 自然に、目が覚めたのだから世話になるわけにはいけないと身体を起そうとする。

 しかし、その動きは肩を圧されて簡単におし留められてしまう。


「まだ寝てなさい。アンタ、半分以上死んでたんだから。まだ治癒が終わってない」

「けど、マリー。それじゃあ、魔力が──」

「大丈夫。今アンタの魔力を使わせてもらって、それを回復に宛がってるから。直接触れていれば魔力の共有や受け渡しって出来るのよ、知ってた?」

「そりゃ……知らなかった」

「とは言っても、気絶していたり寝ていたり。無防備な相手じゃ無いと許可無しに出来ないけどね。ただ、アンタの魔力回路が大分疲弊してて効率的な治療が出来ないけど」

「──そっか」


 抵抗できないし、する気力が無い。

 意識してしまうと気になるだろうが、幸いな事に今の俺は──不思議と彼女の腿を借りていると言う事実をあまり意識せずに済んだ。


「上には、上が居る。楽しいなあ……」

「アンタって、ほんとイカれてるわね」

「だって、俺……狭い世界しか知らないから、上が居れば──前を走る人が居ればその人を追いかければ、目指せば良いって安心できるから。イテテ……」

「骨もダメね、ちょっとそっちも治さないと」


 マリーに触れられながら、少しずつ全身のダメージが治癒されていくのをシステム画面で見ていた。

 右腕、左腕、右足、左足、胴体、頭部──大雑把な括りで、細かくどんなダメージを受けていたかが表示されている。

 細かく、様々な影響を受けていたが回復していく。

 そういえばと、鼓膜の出血と片目の視力喪失が回復している。

 何だかんだとあれは厳しかった、戦力が四割減と言ってもおかしくないくらいに厳しい縛りだったが──常に万全な状態で戦えるわけじゃないから、受け入れるしかない。


「マリーが、召喚したのは──」

「あの人は……彼女が、”名も無き英雄”。私達の中心人物、存在が徐々に失われていく──時の忘れ物。誰にも記憶されなかった、一番の功労者」

「滅茶苦茶、凄かった」

「戦い方が特殊で、自由な発想で魔法と戦闘をして、兵に指揮と指示をした……凄い人。アイアスやタケルとかとは違って、一緒になったのは一番最後だったけど──」

「剣を投げるとか、自分の魔法を追いかけて相手の行動を潰すとか、素手で戦うとか──はは、よくもまあ、あんな……」

「ごめんなさい。あそこまでやるつもりは無かったの。そもそも、召喚した時点で自動的に”敵対している”と認識した相手を攻撃するから──」

「いや、それも含めて学べたぶん……良い勉強になったよ。ありゃ、確かに──余程の相手じゃなければ、俺なんかが助ける必要も無いかな」


 流石に英雄殺し相手じゃ相性とかの可能性でうまくかみ合わなかったのかも知れない。

 それでも、独善的に──マリーに手を伸ばされたときに反応したのは完全に私情だった訳だ。

 しかし、回復に使っていない片手でおでこをコツリと叩かれた。


「何が起きるか分からない、それが戦いと言うものよ。それに、戦い方や状況によっては私だって追い詰められたり、助けが必要な場合だってある。自虐的に、自嘲的にそんな事を言わなくて宜しい」


 などと言われてしまえば、俺なんかでも役に立てる要素が有るのかと少しは慰められる。

 しかし、実際にそうなれるかどうかはこれから次第だ。

 アイアスの立ち回り、タケルの刀剣術、マリーの魔法……そうやって、様々な分野で自分の上に立つ人が居てくれる。

 それをただがむしゃらに、ひたすらに追いかけながらさらに学ぶべき事柄と相手を見つけていけば良い。

 そうすれば……そうすれば、届かなくは無いんだ。

 英雄じゃなくても、同じくらいの強さになれるかもしれない。


 目的の無い強さに意味は無いと言ったが、そんなものは──まやかしだ。

 強くなければ抗えない事もある、ただそれを振りかざすのが嫌なだけだ。

 弱ければ蹂躙されるしかない、それを受け入れるには反抗的が過ぎた。


 それに……やはり、強さだとか技術だとかは自衛隊では明確に”認められる”と言う意味では分かりやすい指標なのだ。

 自分でも言ったけれども、本当ならそんな命を張った方向じゃなくても良いはずだ。

 けれども、ミラノに求められたのは武力だったし、俺自身もそれしか長所が無い。

 

「そう言えば、魔法防御してないと死ぬほどきつかったんだけど、あれ何さ」

「相手に接近された時の為の対抗策の一つ。魔法に乏しい奴なら近寄れない、生半可な魔法しか使えないのなら蝕まれて死んでいくだけ。まあ、魔法に長けてる相手に近寄られるって事も無かったし、この前の戦いでは役に立たなかったけど」

「英雄殺しは──あいつは、魔法も得意なのか?」

「魔法も戦いも得意だけど、卑屈と言うか卑怯と言うか……。ちゃんと戦ったら強いのに、何であんな──」


 ……そういえば、夢の中で片目が塞がれている人物が言っていたな。

 『本来なら、その役割は俺が担うべきだった』

 とか何とか。

 しかし、それをあの英雄殺しは一蹴した。

 偽善者が、と。

 それに……あの英雄殺しが夢の中でしてきた言動や、この前の船での出来事がとても気になる。

 なにか、こう──意味のある敵対、仲間に利する裏切りとか……とにかく、一筋縄じゃいかない気がする。

 命令されたから仕方が無いというには力を入れすぎている。

 裏切ったと言うには芯がありすぎる。

 だから……なにか、分からない物を感じた。


「ねえ、アンタ魔法をどうやって複数切り抜けたの?」

「ん?」

「あれでも、結構本気だったんだけど」

「いや、魔法と銃で二つ、剣と素手で二つまでは対処できるって分かったから。あと一つは、食らっても被害が少ないものに身投げして……前進してた」

「つまり、少なくとも一つは毎度毎度受けてた訳ね? あっきれた……対処してる割にはボロボロだと思ったら、そんな捨て身をやってたなんて」

「けど……惜しかっただろ? あともうちょっと──そう、もうちょっと前に進めていたら、勝ててたんだ」


 触れられると思った、届くと思った。

 しかし、そんなものは過程でしかない。結果として届かなかったし、負けて手当てを受けている。

 今は彼女の太ももを借り、手を伸ばせば触れられるのに──届かなかった。


「引き分けよ、引き分け」

「いやいや──」

「召喚をするつもりは無かったもの。けど、そんな個人的な取り決めなんて意味は無い。だから、引き分けで良い? 反則負けでも良いけど、治癒を施されてる身としてはそれは受け入れ難いでしょ」

「まあ、ね」

「それにね、一つだけ私は思ったし確信した。アンタは絶対私達と同じ場所にまでたどり着けるし、いつかは背中を預けたり肩を並べる時が来る。今はまだ未熟でもね」

「その理由は?」

「アンタが弱い事に対して我慢できない性分で、倒れても倒れても立ち上がる事を知っているから。中には名を惜しむ連中が居る、中には死を美徳とするする連中が居る。けど、アンタはそのどっちでもない。倒れ傷つく事で沢山の人は嘲るかも知れない、それでも生き延びて立ち上がる事から侮蔑されるかも知れない。けどね、そんなものは豚の囀りだとでも思いなさい。英雄とは血筋じゃない、英雄とは力でもない。そもそも英雄の始まりは、失いたくないと、護りたいと、その為なら何度傷つき倒れても、学びながら立ち上がって、敵と定めた相手の前に立ちはだかり続けた人を言うんだから。人を鍛える事は幾らでもできる、学ばせ成長させる事は私にでも出来る。けどね、心構えや──どう生きて、どう死ぬか覚悟するかは自分自身」

「まるで──神話や伝説のような話だ」

「そう? けど、アンタの目の前に一人居るし、アンタの傍には何人か居る。何十と負け続けてきた、何百と勝利とは決して言えない決着をつけてきた。それでも、そういったものの積み重ねが──たった一度。そう、人類の存続と脅威の排除と言う掛け替えの無い勝利へと繋がった。だから、アンタは何度も立ち向かえば良い、倒れて転んでも構わない。手を掴みなさい、肩を借りなさい、背中を押してもらいなさい、支えてもらいなさい。アンタがあのちんちくりんとかを守りたいと思うのは構わない。けどね、私達がそうだったように──ひとりじゃ立てない時だってある、立ち上がるのに時間がかかる時だってある。その時に、絶対に傍に居てあげるとは言ってあげられないし、手を差し伸べてあげられるとも言ってあげられないけど……」


 そこまで言って、彼女は言い淀んだ。

 ただ、何を言いたいのか分からないでもない。

 さっき──弦巻と言う、俺の仲間であり、同期を見た後だから尚更否定も誤魔化しも出来なかった。


「……これからも、魔法とかを教えて欲しいし、さっきみたいに対魔法戦闘訓練とかをしたい」

「アンタがそうしたいのなら、私はかまわない」

「助けて欲しいとか、手伝ってくれとは──言えないか、言わないかも知れない」

「なら、状況が許す限り、或いはアンタが拒絶しない限りは助けたり手伝うと誓う」

「俺は……何も、返してあげる事が出来ない」

「だったら、世話になった分だけお酒や食事で返してくれれば良いし、時々頼み事を聞いてくれれば良い。同じように、私も食事やお酒で返せるなら返すし、頼み事を聞いたりもする。それが──仲間じゃない?」

「仲間。仲間、か……」


 同期を、弦巻と言う同じ中隊に配属された最大の仲間を思い出す。

 そして──同じように、互いに奢ったり奢られたりをしていた。

 ただ、奢った回数はこちらの回数の方が多い。

 理由は単純で、俺が他人依存をする人物だからであり、感謝の頻度が多かったからだが。

 そういえば、と。こちらの世界に来てから、食事や酒に誰かを誘った事が無かったなと思い出した。

 常に誰かの率いられ、引っ張られ、言われるがままにしてきた。

 しかし、そういう意味では──この縁というか、繋がりは大事にした方が良いかもしれない。


「愚痴るかも知れないぞ?」

「それは私も同じ」

「迷惑かけるかもしれないからな?」

「私だって散々やったでしょうに」

「それでも良いのなら、適当にやろう」

「適当に、ね」


 大分身体が楽になり、ゆっくりと身体をおこした。

 今度は押さえられたりはせず、身体の様子を確かめるように実際に動かしながらシステム画面で細かい異状が無いかも見ておく。


「悪い、助かった」

「良いの。私もつい調子に乗っちゃったし、お相子。で、どうする?」

「そうだなあ。魔法の複数制御とか、マリーのやった状態異常の事とか聞きたいかな」

「ん。それじゃあ、また口頭説明と実践でやりましょう」

「うい、オッケー」


 昼が近づくまで、そうやって俺はマリーから魔法に関して多くをたずねる事ができた。

 学園に居たままでは知らずに居ただろう複数の魔法を同時展開する技術だとか、相手の魔力に作用する事で散らす技術だとか──色々学ぶ事が出来た。

 シャボン玉の奴が魔力に作用して散らす奴だったらしく、魔力防御をしていても簡単にそれを剥がす事が出来るのだとか。

 

 そして、防御魔法の応用で結界的なものを張り巡らせる事で空間を区切り、その中に状態異常を撒き散らすと言う”壁”を逆利用した魔法だったらしい。

 結界と言うのも変か、障壁と言った方がむしろ正しいのかも知れないが──存在するだけでゴリゴリとダメージを与え続けられるアレは厄介だなと思った。

 

 複数の魔法制御や展開に関しては簡単に真似できたが、それに関してはまたマリーを不機嫌にさせる結果となった。

 いや、ほら。今までは魔法は一つずつという認識だったのを、コピー&ペーストのように一回で複数同じものを出すという、コンピューター的な想像をしただけなんだけどね?

 

 やっぱり先人の知識や科学の発達の恩恵を、最大限受けていると思った。

 ミラノやマリーは直列で一つずつ魔法を重ねていっているのにたいして、こちらは並列で魔法を想像する事ができる。

 そして、マリーはそこらへん貪欲だったのですぐさま噛み砕いて彼女にも普及した。

 マリーと自分の魔法の違いは単純で、『一つの魔法を必要な分だけ重ねる』と言うのがマリーで、『最初から必要な、或いは複数の魔法を一つのものとして扱う』と言うものだった。

 例えば、マリーが六つの魔法を同時行使する場合「1+1+1+1+1+1」とやっている。

 それに対して自分は「6×1」なので、断然に違う。

 

 ただ、マリーは口頭説明だと若干理解で躓くが、メモ等で理屈やイメージを描きながら説明すると直ぐに飲み込んでくれた。

 そこらへんは魔法に長けていると言う事だろう、流石だと言うしかない。

 俺のやり方を真似すると、どうやらそれだけで魔力の消費が格段に抑えられるらしい。

 そりゃ、一つの火球を六個連続で出すよりも、六つの火球を一回で出した方が手間が少ないもんな……。


 それを文章にすると短縮が凄い事になりそうだと、最後はマリーが魔導書の空白のページに書き込みをしているのをただただ眺めていた。

 必死に手を動かして筆記をしているマリーを眺めていると、屋敷でミラノが同じように紙に対して筆記をただひたすらに繰り返していた光景を思い出す。

 微笑ましいと言えば微笑ましいし、もしマリーがミラノの祖先だと言うのなら納得できるくらいに似通っている。

 今となってはその背丈も同じくらいだし、表情もほぼほぼ同じだ。

 違うのは髪や目の色、そして髪質くらいか。


「ごめん。さっきの説明──直列と並列での魔法の想像図の所、もっかい言ってくれる?」

「はいはい、分かりましたよお姫様」


 日が高く上り、巻き添えで鳥の亡骸が散らばり、訓練とは言え破壊痕の中で全くの無関係のように俺たちは勉強と訓練を交互に繰り返し続けた。

 昼が近いからと帰る事を告げるとマリーは不満そうだったが、それでも収穫の方が大きかったのか満足そうに「帰りますか」と言って立ち上がった。

 一瞬、周囲の光景を見てどうすべきか悩んだが、鳥の亡骸を埋めてさっさと逃げるように去った。

 ……所有地というか管理されてないし、これくらい良いよな? うん。



 ~ ☆ ~


 戻ってから衛兵に話を聞くも、やはりまだ問題は解決していないようだった。

 通れるようになるのは明後日位からだろうと言う事で、こちらはそれで落ち着くしかなかった。


「午前中、俺もどうにかならないかなって思ったんだけど。どうやら港全体がクラーケンを恐れてるみたいで、海路はやっぱり難しそうだ」

「そりゃそうだろうなあ……」


 昼食の場で、そんなやり取りをする。

 マリーは行儀悪くも食事をしながら魔導書眺めて片手であ~でもない、こ~でもないと文章を書いては消している。

 それを窘めるべきなのだろうが、あそこまで熱中しているのを止めるのは難しいだろうと俺は諦めた。


「──ヤクモ、何か良い事でもあった?」

「んぁ? なんでさ」

「いや、なんと言うか……。いや、やっぱなんでもない」

「言いかけて止められると気になるんだよなぁ……」

「大した事じゃないって。ただ──少し、元気になったように見えてね」

「そりゃ、マリーの魔法で死に掛ければ元気にもなるさ。充実した時間だとは思うけどね」

「アンタだって『お願いします!』なんて乗り気だったくせに」


 マリーがチラリとこちらを見ながらそんな事を言った。

 それを軽くいなすように手の平を振るう。


「あんな十段階中八ぐらいの勢いで来られたら、パンピーの俺がころがされて当たり前だっての」

「八ぃ? あんなの四よ、四」

「嘘だ。本気出すつもりじゃなかったって言ってたろ」

「あんなの全盛期の私から見れば吹けば飛ぶようなお遊びよ」

「八だね。奥の手は使うつもりじゃなかったとか言ってた、あと少しで俺だって勝ってた──かも、知れないだろ?」

「何度言われても四は四よ。本気だったら、始まった瞬間に召喚した兵で壁を作って、アンタなんか近寄る前にさよならなんだから」

「くそぅ……」


 なんとか「センセー、アイツ本気出してました~」って流れにしたかったのに。

 「合法でした」と言い切られてしまった。

 悔しさを滲ませつつ机に肘を突きながら若干勝ち誇って作業に戻る彼女を見送るしかなかった。

 そんな様子を、大タケルは苦笑しながら見て居る。


「元気なのは良い事だと思うよ。まあ、元気が出るくらいの攻防戦をしたと思えば、そりゃ──」

「そりゃ?」

「……元気にならざるを得ないと言うか、下手したら死ぬ?」

「あ~、まあ。半分以上死んでたなあ……」


 そもそも気絶させられていたし、さらには治癒と言う施しまで受けている。

 今でこそ若干見られるようになったが、服なんて斬られるわ、破けるわ、焼けるわ、伝線するわで見る影も無かった。

 久しぶりに《付呪》を開き、自分の着ている服全てに『自動再生』の項目を付加した。

 ストレージの中で耐久度の項目がジリジリ回復しているので、暫くすれば元通りだろう。

 今度対魔法防御の項目でも鍛えておこう……。


「そうだ。タケルさ、頼みがあるんだけど良いかな」

「ん、俺に? なにかな」

「付き合って欲しいんだ」


 そういった瞬間、横合いから思い切り何かが叩きつけられた。

 あ、魔導書って……そんな使い方もあるのねぇ……?

 思いっきり投げつけられた魔導書は跳ね返って空中でクルクルと回転し、制御されてマリーの手に導かれて戻っていく。

 あぁ、あれが本当の魔法で導かれる書物ってか……? 笑えんわ!


「ねえ。私、今変な言葉が聞こえたんだけど」

「俺も、ちょっと戸惑うような言葉が聞こえたかな」

「刀剣……戦い方、時間ください……」


 はは、眼鏡かけてなくて良かったぁ……。

 眼鏡かけてたら、間違いなくフレームがゆがむか破損して使い物にならなくなってる。

 視力が良くなってる利益を最大限受けるのはその点だろうか? 泣けるね……。


「あ、あぁ……なるほど。俺は構わないよ。今日? それとも明日?」

「今日と、明日で。出来るだけ多くの時間を取りたいけど、どうかな?」

「今日は……そうだなあ。ちょっと約束があってさ、それと何を教えるか考えておきたいし、そのために自分がちゃんと出来るか見直したい」

「それじゃあ、明日?」

「だね。午前と午後──それとも両方使うかい?」

「そうだなぁ……」


 出来れば刀剣、武器関係は学んでおきたい事が沢山有る。

 今日の攻防戦もそうだけれども、実際に対峙して見た方が分かる事や見出せる事が多い。

 というか、マリーは俺の事ぶん殴るだけぶん殴っておいて謝罪なし?

 まあ、大タケルもなんだか変な意味で受け取ってたみたいだから結果として正しかったんだろうけどさ。

 というか、フアルさん? 貴女は興味ナッシンですかね? ずっと料理平らげてるけど……それともお勉強?


「明日もどっちか私に時間寄越しなさい」

「あ~、じゃあ。午前と午後で半分半分で」

「それじゃあ、午前は俺がヤクモの相手するけど、それでどうかな?」

「ん。それで良いわ。どうせこれから明日のお昼までは新しい事したいし」

「新しい事? それは何かな、マリー」

「魔法の研究と開発。コイツと話し合って、また新しい理論見つけたから、それがどれくらい既存の魔法と違うのか調べてみる」


 そう言いながらマリーは果実ジュースを飲む。

 俺も地味に頭使って甘いものが欲しくなったので同じようにジュースを飲んでいるが、中々に楽しい時間だった。

 マリーの物言いに対して大タケルは頷いて見せた。

 成る程と言う意味なのか、それとも承知したと言う意味なのかは分からないけれども。


「それじゃあ、明日の午前は俺と。午後はマリーとってことで良いかな?」

「俺はどっちでも。礼は何が良い?」

「礼は良いよ。そもそも俺だって足止め食らってるんだから、それに助けられた恩もある。どうしても気になると言うのなら、君の知っている料理をフアルに教えてやって欲しいかなって」

「料理?」

「あれ。彼女から君は料理が出来ると聞いたんだけど、違ったかな?」

「いや、出来ると言えば出来るけど。それで良いのか?」

「フアルが料理を覚えれば、情けない話だけど作ってもらえるからね。前線に張り付いたままだと、どうしても食事位しか娯楽は無くなってしまうから、その楽しみが補強されるのは決して悪い事じゃない」


 そう言った大タケルに、成る程なと思った。

 自分が、差し出したものの価値に疑問を抱いても、相手がそれに価値を見出して納得してくれればそれで取引は成立すると言う事だ。

 逆に、どんなに自分が価値を見出していても、相手がそれに価値を見出せないのなら取引は成立しない。


 ……取引だとか、そう思っていないから若干俺が納得してないだけである。

 大タケルは食事に夢中なフアルの頭を指でチョイチョイと突いた。


「にゃ~?」

「フアル。彼との約束で、何か料理を教えてもらえるようにしたから。それを覚えて欲しいんだけど、頼めるかい?」

「え、料理? ホント!?」


 ……そして、フアルはフアルで凄い嬉しいのか驚きなのか。

 とにかく、差し出したものに対して凄い価値を見出しているようだ。

 良いのかなと思わないでもないけれども、相手が喜んでいる以上それで納得するしかない。


「ど、どういう料理だったら助かる? 今の流れだと、前線でも食べられそうな簡単なものとか、或いはちょっとした時間に直ぐ食べられるものとか」

「んっとね~。私は何でも大丈夫かにゃ~? でもでも、前線で作れるものだったら仲間のやる気になるからそれでも良いし~、ちょっと後ろでご飯作ってくれる人たちにでも作れるものだったら、運んできてもらって沢山の人に食べてもらえるからもっと嬉しい~」

「とは言ってもなあ。ツアル皇国の前線でどんな食事が配られてるか分からないし、何が収穫や入手できて、どんな食材が比較的安価なのかとか分からないと気安く教えられないし」

「じゃあじゃあ、明後日にはまた旅の続きが始まるから、その時に食べられるものが良いにゃ」

「それだったら、俺に料理を任せてくれよ。フアルには散々料理を振舞ってもらったし、一度はお礼がしたいし。それを見ながら、聞きながら覚えてくれれば良いから」

「やった!」


 とりあえずは、こんな所かな。

 少しだけ──食い込めた気がする。

 少なくとも、マリーと知識の共有が出来るようになった。

 少なくとも、大タケルたちにおんぶにだっこではなく、少しは役に立てるように努力をする姿勢を見せられた。

 

 とうぜん結果なんて直ぐでないだろうし、むしろズタボロになって呆れられる可能性だって有る。

 それでもやるんだ、頑張るんだ。

 頑張らないのなら、意味なんて無い。頑張っても、掴めないのなら仕方が無い。

 どんな立派な志を掲げていても、実現できなければ夢物語でしかないように。

 どんな立派な理想を抱いていても、その途中で死体になれば夢の跡でしかないように。

 

 利用するみたいで嫌だ、けれどもお互い様であると言うのなら幾らか罪悪感は薄れる。

 備えよ、常に。国防とは脅威に対して防衛力を備える事にある。

 マリーだけじゃない、ミラノやカティアを守りたいというのなら──誓うのなら、その力は高めなければ縊られて仕舞いだ。

 それにマーガレットの件もある。冷静に考えろ、マリーだけじゃなくてアイアスたちからも色々学び、盗める機会だろ──。

 なら、何もやる事が無いとか……そんな事を考えて、宙ぶらりんになってる場合じゃない。

 やれ、やるんだよ。


「けど、一つ聞いても良いかな」

「ん? なに?」

「ボロボロになっても立ち上がるって、何で出来たのかなって思ってね」

「え? だって、当たり前じゃないか? 兵士とかも訓練で骨折ったりするだろ」

「はは、そんな事してたの?」

「散々……。肉離れ、炎症、裂傷、断裂──怪我と言う怪我は大小問わずしてきたし、そういう人ばかりだったから、別に変じゃ無いと思うけどなあ」

「いやいや、えぇ……?」

「あ、まあ。自分が”やりすぎた”ってのも有るんだけどね? ただ、おっかなびっくりやるよりは相手の言ってる事や教えてくれる事を全部飲み込もうとすると、相手によっては嬉しいらしくて反撃が……」


 格闘訓練の時に、組み付かれて『ボギッ』という音が響いた時を思い出してしまった。

 あとは結構真剣に向き合ってる時に、腕を捻られて間接を極められた時に肩が『ガコッ』とか言って外れたときも思い出す。

 そうじゃなくても日々の持続走で早い人を追いかけていたら筋肉が伸びきってしまってダメになると言うこともある。

 俺が真面目にやってると、中には「おっ?」と思って嬉しい人も居るらしい。

 それでお互いにやりすぎて、負傷とか下らない事になる。


 ただ、自衛隊と言うのは大概そんなものだと思っている。

 もしかすると自分のいた中隊だけかも知れないが、狼中隊の名に恥じぬ事を全員でやって、ちらほら負傷者が出ていただけともいえる。

 一月の中で、負傷している人が居ないと言えるくらいでもあったが──。

 いや、あれって師団長が悪いのか? それとも大隊長?

 まあなんにせよ、任務完遂高い水準の部隊能力の保持とかで中隊はずっと賞賛されていたし、良かったんだろうな、あれで。


「ノーペイン・ノーゲイン……。痛みなくして成長なしって奴」


 そう言いながらジュースを飲む。

 ──なんだか、幾らか胸中のモヤが晴れたような気がしていた。





 ──☆──


 昼食の後、ヤクモはフアルに連れられて町へと出てしまった。

 その中でタケルは、マリーが部屋に篭って色々と魔法に関して洗い直している所に居合わせていた。


「君の口から聞いても良いかな? 何があったか、何をしたのか」


 ヤクモはタケルの事を召喚された英雄だとは思っておらず、マリーとの関係を幾らか疑ってはいるものの深くは追求していない。

 もし彼がその言葉を聞いていたのなら、更に疑念を深めていただろうが──それは舞台裏での出来事なのだ。


「私を認めさせた、それだけ」

「ボコボコにして?」

「ねえ、知ってた? アイツ、アンタやフアル……じゃなくて、ファムに一線引いてるっての。何かで優れる相手に対して、上下関係を察知するのが早いのよ」

「マリーはそうじゃなかったと?」

「私は実際にどこが凄いのかを認識する前に、肩を並べて──背中を預けて戦ったからね~。アイツは無意識だったかも知れないけど、私に対しては壁を作ってなかったのよ」


 マリーは淡々と、ヤクモと出会ってからの事を全て並べて推理した。

 決して魔導書から目を離さず、一つずつ自分なりの私見を述べる。


「アイツは上下関係については、形は違うけど律儀よ。あのちんちくりん──じゃ伝わらないか。デルブルグ家のミラノって子に対しても、日常生活面では我を通すけど主人と騎士と言う所は意識してる。アイアスやロビンに対しては受動的に何かを言ったりはするけど、基本的に関わらない──と言うか、避けてるかもしれない」

「それでよく親しくなれたね」

「私の場合は、立ち位置が特殊だっただけ。敵なのか味方なのか分からない場所に居て、私の現・主人が何かしようとはしているけど私自身は中立だったし。実力を見せるよりも先に一緒に戦ったから、アイツの言う”仲間”ってのに若干引っかかったのかもね」


 と、マリーは並べている。

 その場にヤクモが居たら間違いなく一線を引かれ、敬遠されかねない事柄だったが──居ないからこそ口にしているともいえた。


「あと、徹底した排外主義というか、自分の領域に敏感。二面性を持つから、そのどちらかが尊重されていれば大人しいけど、その両方が踏み躙られたら流石に怒るみたい。それと……やっぱり、何考えてるか分からないってのはあるかしら」

「大分主張してると思うけどね。さっきなんか皮肉まで言ってたし」

「それでもね、知ってる? アイツ、考え事すると直ぐに目が据わるというか、目が虚ろになると言うか……。言葉として出てこなかった言葉がある、私はそれが凄く気になる」

「考え事くらい普通じゃないかな」

「あんなに警戒心が強くて、色々な不安材料を直ぐに言い出せるのに? 周囲が楽観的な時ほど、アイツは懸念すべき事や考えられる”最悪”を幾つか列挙してくれる。それこそ、直ぐにね。今日もそうだし、前に肩を並べた時だって──魔物と戦った時だってそうだった。アイツは判断能力と思考速度は高い、そこに躊躇なんかない」

「じゃあ、考えなれてない事を考えてる、ってこと?」

「考えなれてない事──ひとりだったって事を踏まえると、出てくるのは”他人”でしょうね。あと──領域って言うのも言ってたから、もしかすると考え事をしてる時はアイツの領域に踏み込んじゃってて、そこで価値観のすり合わせをしてるのかも知れないけど」

「領域?」

「タケルの言う”イアイ”って奴と同じ。敵対する相手が間合いに入ったらどうする?」

「切り捨てるよ」

「じゃあ、判断するのに困る中立は?」

「とりあえず警戒はするかな」

「仲間には?」

「構えない」

「それと同じでね、自分の価値観とか考えの中に他人の主張とか──或いは指示や命令が飛び込んできた時にどんな反応をするかって言うのに近いかも」


 マリーがそこまで説明して、タケルは彼女がヤクモという人物を良く見て居るのだなと考えた。

 タケルもタケルなりに……”魔”に過剰反応してしまう特性ゆえに、魔の気配を漂わせているヤクモを見定めようとしていた。

 悪意から来るものなのか、魔を受け入れた”邪悪さ”から来るものなのか、敵なのか──。

 

「マリー。俺の感じてる”魔”って、何なのかな」

「さあ……何なのかしらね」

「俺は何度か、ヤクモを斬りそうになってる。あの賊たちを倒す時も、気をつけないと攻撃を飛ばしかけたし。分からなくなるんだ──」

「アンタは呪ってるもんね、魔に連なるものを。アンタは嫌ってるもんね、自分の親友を殺した魔族を」

「マリー、違うよ」

「なにが?」

「親友と言う言葉じゃ足りない。俺にとって大親友を殺されたんだ──。身寄りの無い俺を受け入れてくれた、家族も家も無い俺をずっとずっと家族のように……傍に置いていてくれたんだ。その一握りも俺は恩返しが出来ていないのに、大親友だけじゃなくて仲間まで……」


 そう言ってタケルは俯き悔しそうな表情を浮かべた。

 眼帯をそっと撫でる。その下にはあるべき物が無く、窪んでいる。

 そんなタケルをマリーはため息を吐きながら立ち上がると、背伸びして頭を撫でた。


「──私達、成長できてないわね。生きた年数だけが積み重なって、けれども過去に置いてきたものにまだ固執している」

「……そうだね」

「けど、だからこそここまで来られた。だからこそ、まだ歩いていける。アイアスにも言われたんだけど、タケルも考えてみたら?」

「なにをだい?」

「もし──もし、何も無ければ。或いは召喚された理由が消失した先の事を。大きな戦いがあって、それを乗り切った後どうしたいか……とかね」


 マリーは撫でるのをやめて、タケルを見上げた。

 タケルは見上げるのは辛いだろうと、膝をついて目線を合わせるように努力する。


「何も無ければ、あるいは乗り越えたら、か……」

「私達に必要なのは、未来よ」

「──忘れろ、と言うのとは違う、か」

「過去は無かった事に出来ない、なかった事にしちゃいけない。その上で……積み重ねないといけないって事」

「因みに、マリーはどんな未来を想像してる?」

「そんな簡単には思い浮かばないけど、何があっても誰も失わない、失わせない。それで、あのデルブルグ家のミラノって子を散々馬鹿にしながらヤクモにちょっかい出して、その上でどんな未来が待ってるのかが見てみたい」

「──そっか」


 タケルは、マリーの言葉に少しばかり肩の力が抜けるような感覚がした。

 大親友を失い、仲間を失った。

 その時の執念と怨みを原動力に、今日と言う今日まで魔物を殺めてきた。

 時には仲間にすら恐怖されるような残酷な殺し方をした事もある、時には敵の一個大隊がその戦闘能力を恐れて全員が執拗に朝も昼も波状攻撃を仕掛けてきた事もある。

 それでも──どれだけ殺しても、それこそ召喚されてから前線で戦い続けても敵の数が減らず、その勢いが衰えず、憎しみは苛立ちと言う燃料を加えて更に燃え上がっていた。


 英雄たちは、全員が何かしら失ったものばかりだ。

 その中でも、タケルは”同類”だと思っていたマリーの口からそんな言葉を聞くとは思っていなかったのだ。

 本人が自覚していない、好きだった相手が死んだ。

 どんな苦境でも心の支えだった仲間は歴史から消えていった。

 家族や家を目の前で破壊されて無力感をひたすら味わった。

 そして、魔物を殺す事で──復讐する事を生き甲斐として立ち直った相手だと知っていたから。


「……展望無き復讐に未来は無い、か。マリーに教わるとはね」

「それ、どういう意味よ」

「いや、マリーってば思い込んだら余所見しないからさ。前進したり立ち止まったりはしても、右や左に逸れたりしないというのが俺の想像だったから」

「私は猪じゃない!」


 タケルの顔面にマリーの靴裏がめり込む。

 タケルはそれを避ける事無く受けきり「痛いなあ」と言いながらその足を掴んで下ろした。


「──分かった。少し考えてみるよ」


 そう言ってタケルは部屋を後にして、宿をあとにすると雑踏へと紛れ込んだ。

 そのまま港へと向かって海を眺めながら、マリーとのやり取りやここ数日での出来事を振り返る。


「ヤクモと関わる事が、吉と出るか凶と出るか……さて、どうなることか」


 そう言ってから港の喧騒を眺めながら、他人事のようにしているけれども当事者だとタケルは思い返した。

 聞きなれた声が聞こえ、チラと見ればファムに引っ張られているヤクモが居る。

 楽しそうに見えるし、振り回し振り回されているようにも見えた。

 その光景を見て居るタケルは、先ほどの言葉が蘇る。


「未来、か……」


 目蓋を閉じたタケルが思い浮かべたのは大親友が死んだ日の事だ。

 どうしようもなかった、ああするしかなかった。

 理解はしていても、そういう事態に追い込んだ敵を怨んだ。


 自分自身で大親友を切り捨てねばならなかった過去、最後の最後まで誰かの操り人形だった大親友。

 暗い、虚な感情が胸中を支配した。

 

「俺には、まだ少し難しそうだよ」


 ヤクモとファムと言う現在と未来から目を背け、タケルは暫く潮の香りを風と一緒に感じながら佇んでいた。

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